オーストラリア辞典
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Yellow Peril

黄禍論(こうかろん、おうかろん)


 19世紀末から主に20世紀前半にかけて、アングロ・アメリカ、オーストラレイジア、南アフリカ、ヨーロッパ、南アメリカなどに生じたアジア人(黄色人種)脅威論を一般に黄禍論と呼ぶ。日本では対米関係において言及されることが多いが、その範囲は世界的な広がりを持つ。

 人種理論の登場によって、アジア人、とくに日本人や中国人などを黄色人種と捉える考え方は、1850年代にすでに存在していた。とりわけ、カリフォルニアやオーストラリアで金が発見されると、これらの地域に多くの中国人が移民し、ヨーロッパ系の入植者は、中国人の存在を社会問題であると理解し、その解決を政府に要求した。アジア人移民を非難し、攻撃し、排斥する思考様式はすでに存在したが、黄禍という言葉はまだこの時期には用いられることはなかった。中国人は、東洋人やアジア人という概念でも把握され、その移民はモンゴル人の侵略にもたとえられた。また、言語、習慣、宗教などにおいて劣等であり異質であるとされたが、それが黄色人種であることと関連して理解されることはほとんどなかった。

 ヴィルヘルム2世は、自らを黄禍という語の生みの親であると主張し、研究者の中にはそれを肯定する者もいる。確かにかれは、ヨーロッパにおける黄禍論の最も強力な唱導者であり、その影響力は大きかったと考えられるが、黄禍論の生みの親ではなかった。黄禍という語(あるいはそれに類する語)が初めて用いられたのは、1880年代のカリフォルニアだとされている。黄禍という言葉の発生は白人意識の昂揚と時を同じくしていた。オーストラリアにおける白豪主義の誕生や(白豪という言葉は1880年代に初めて現れた)、アメリカ合衆国太平洋岸諸州における白人意識の高まりは、黄禍論の台頭と相互補完的なプロセスを成していた。また、この頃から、中国人だけでなく、日本人やインド人などの他のアジア人も合衆国、オーストラリア、カナダ、南アフリカなどに移民するようになり、これらのすべての地域でアジア人排斥が起こり、黄禍論が唱えられるようになった。

 この時代には、アジア人移民の問題は労働問題と直結していると考えられていたので、これらの地域では、勃興しつつあった労働運動が黄禍論の積極的な唱導者となった。こうして、黄禍論は民衆意識に広く浸透するようになったのである。また、国民国家形成に努めていた政治家にとっても黄禍論は好都合な議論であり、社会改良主義者たちもしばしば黄禍論を受け入れた。社会ダーヴィニズムの影響力の拡大も黄禍論の伝播に好適な環境を用意していた。

 ヨーロッパにおける黄禍論は、民衆的な基盤をほとんど持たない、きわめて政治的な議論であった。最初に黄禍論が現れるのは、日清戦争と軌を一にしていた。日本の中国進出とそれによる中国と日本の結合がもたらす脅威を黄禍ととらえ、三国干渉を正当化する議論がロシア、ドイツ、フランスなどで行われた。さらに、この種の議論が急増するのが日露戦争期である。3国の新聞は黄禍論を唱えることで、ロシアの立場を擁護したのである。これに対し、日本と同盟関係にあったイギリスのメディアの多くは立場を異にしており、とりわけ『タイムズ』などは黄禍の存在を否定し、それをロシアのプロパガンダであると断じた。実際、日露戦争が終結すると、一部の知識人を除けば、黄禍の論調はヨーロッパからほとんど姿を消したのである。

 イギリスにも黄禍論が存在しないわけではなかった。黄禍論は、帝国主義論の中で悲観的帝国主義論の中に位置つけられており、チャールズ・ピアソンはその代表的論客であった。彼はヴィルヘルム2世やセオドア・ローズヴェルトの黄禍に関する主張に影響を与えた人物として知られている。しかし、かれの主張は、オーストラリアのヴィクトリア植民地での閣僚経験をもとにしたものであり、オーストラリアでは支配的な主張として広く受け入れられたが、イギリスでは帝国主義論のマイナーな部分を担うにすぎなかった。

 日露戦争後は、北米における移民問題やヴェルサイユ講和会議における日本が提案した人種差別撤廃条項の挿入の問題などに関して、黄禍論は強い影響力を及ぼし続ける。太平洋周辺の白人植民国家は、中国人移民労働者と日本の軍事力を黄禍の源泉として、警戒を続けたのであった。他方、日本の提案に対するヴェルサイユ講和会議におけるフランスの立場は、ヨーロッパにおける黄禍論の後退を端的に示している。

 黄禍論の影響が決定的に衰退するのは、第2次世界大戦後である。ナチズムに代表される人種主義への批判の高まり、日本の敗北による軍事的脅威の消滅と、冷戦の始まりによる共産主義という新たな敵の出現は、黄禍論の信頼性を揺るがし、その必要性をきわめて小さいものにした。現在でも黄禍論に類する議論が見られるが、その影響力は限られている。

 藤川隆男1101