歴史の小部屋




ここはオーストラリア先住民、アボリジナルの部屋です。
アボリジナルの歴史は私の研究分野のひとつです。暇があれば見ていって下さい。


☆オーストラリア先住民の呼称について

 トレス海峡地域には、第2次世界大戦後自己の独立したアイデンティティを強く主張するようになった先住民、トレス海峡諸島民もいるので、オーストラリア大陸とトレス諸島の先住民を区別する必要がある。そこで戦後については、オーストラリアの国全体の先住民を指す場合には、オーストラリア先住民を用い、オーストラリア大陸本土の先住民を総称する言葉として、アボリジナルという言葉を使用している。それ以前の時代については、アボリジナルをすべての先住民をさす言葉として用いることが多い。

かなり前になるが、『オーストラリア歴史の旅』という本を出したときには、日本で一般的に使用されているアボリジニという言葉を用いていた。しかし、どうしてもこの語には問題があると最近感じるようになった。

 その第一の理由は、辞書、例えばオクスフォードのオーストラリア英語辞典は、アボリジニを単数形で用いることは差別的であると明示し、アボリジナルの使用を勧めているからである。アボリジナルズと同様にアボリジニーズと複数形で用いることに問題はないが、日本語のように単数・複数の区別のないところでは、アボリジナルとするほうが無難であろう。

アボリジナルの写真

 第二の理由は、アボリジナルの監獄死に関する王立調査委員会が、アボリジナルという語をオーストラリアの本土の先住民を指す名詞として明確に使用し、それに対する異論は現在までのところ正式にはないからである。しかも、王立調査委員会もアボリジニの単数形での使用は侮蔑的な表現として否定している。

 第三の理由は、私が入手したメルボルン大学出版局のガイドラインである。そこでは、先住のオーストラリア人、アボリジナル・オーストラリア人、オーストラリアの最初の民族とするのが適当とされている。しかし、これらの語は、オーストラリアの先住民と言うのと同じで、一種の説明的用語でしかなく、日本語の固有名詞として用いる意味がない。次善の用法としては、アボリジナル男性、アボリジナル女性、アボリジナルの人、アボリジナルの男たち、アボリジナルの女たち、アボリジナルの人々('Aboriginal people')という表現がある。それに対し、'an Aboriginal''the Aboriginals',とりわけ'an Aborigine''the Aborigines'は常に避けるべきであるとされている。このメルボルンのガイドラインは問題も多く、実際にそのまま実施されているわけではないが、参考にはなるだろう。

 以上から明らかなことは、アボリジニという表現は、アボリジナルの団体の一部にはいまだに使用しているものもあるが、差別的なニュアンスが極めて強い語であること、これに対し、アボリジナルという語は、アボリジナルの男とか女、アボリジナルの人々という形では、完全に正当な使用法であり。アボリジナルを名詞として単独で使用する場合でも、少なくともアボリジニという表現よりは勝っていることである。

 このような状況で、差別を強く暗示するアボリジニという語を、アボリジニの女性であるとか、アボリジニたちはというように、形容的あるいは名詞として無限定に使用するのには問題がある。たとえこの語が日本語として一般化しているとしても、今後もこれを使用し続けることには賛成できない。これに対し、アボリジナルという語は、名詞として使用されない限り、その音自体としては、差別性を持たない。この点からもアボリジナルという語の方がまさっている。ただ一つの問題は、英語におけるアボリジナル全体を指す語の頻度としては、'Aboriginal people''Aborigines''Aboriginals'という順で多く、単独のアボリジナルズという表現が少ないことである。ただし、アボリジナルという形容詞形を名詞に使用すること自体に差別性はない。ジャパニーズを形容詞にも名詞にも使うのと同じである。

 ある人種・民族集団やエスニック・グループに用いる呼称に絶対的なものはない。ただし、ある時代においてより望ましい名称は存在するだろうと思われる。現在のところ、慣例として用いられているアボリジニよりも、アボリジナルという語を用いるほうが望ましいと言えるだろう。

 もう1つ付け加えるならば、アボリジナルの一部の人々が自分をアボリジニと呼ぶことに何のためらいも感じていないということは、他者が本土(この言葉にも問題はあるが)の先住民全体をアボリジニと呼んでもよいことの根拠にはならない。また、アボリジナルというような総称ではなく、個々人が特定できるならば、個人名を用いるべきであり、言語集団や所属集団(かつて部族と呼ばれた)がわかるならば、より小さな集団名を用いるべきであることは言うまでもない。