歴史の小部屋




歴史戦争を通してみたオーストラリアのナショナル・ヒストリー

 1 アカデミック・ヒストリーとパブリック・ヒストリー

オーストラリア史と一口に言っても、大きく分けると、そこには大学を中心とし、知識の体系化を目指すアカデミック・ヒストリーと、専門家ではない一般の人々への歴史の表象に重点があるパブリック・ヒストリーの二つがあり、両者の動向にはかなりの違いがあるように思われる。

まず誰の目にも明らかなことは、大学を中心とするアカデミック・ヒストリーが縮小傾向にあることだ。ここ十年ほどの間に、各地の大学のクラスの学生数は倍増しているが、歴史研究に従事するスタッフの数は約3分の2程度に激減している。歴史学研究に携わってきた史学科も他の研究分野との統合の動きにさらされ続けている。当然ながら、史学科の博士課程を終えた若い研究者の就職は文字通り絶望的で、若い研究者はきわめて深刻な事態に直面している。

日本では、大学における歴史研究は、中・初等教育における歴史教育を支え、また逆に、中・初等教育の裾野の広がりが歴史研究をいろいろな形で支えているが、オーストラリアにはこのような状況もない。オーストラリア史は、中・初等教育では、他の社会的知識の一部として教えられているだけで、体系的な教育は全くなされていないのである。公教育において歴史は全く軽視され、支出される予算も削減され続けていると言って良いだろう。

大阪大学でかつて留学生対象の授業を開講したとき、3回くらいにわたって白豪主義について論じたことがあった。留学たちの中に一人のオーストラリア人がいたのだが、彼女は私の授業で初めてオーストラリアの白豪主義について学んだという。とても興味がわいたので勉強したいと言ってくれたのはよかったのだが、オーストラリアの歴史教育の現状はその程度のものである。

オーストラリアでは、連邦結成100年を宣伝するテレビ・コマーシャルが2000年頃から繰り返し流されていた。そこでは連邦初代首相の名前を、子供がそれを知らない父親に聞くという設定がなされていた。実際、事前の世論調査で、多数のオーストラリア人がジョージ・ワシントンは知っていても、オーストラリア連邦初代首相エドモンド・バートンは知らないという結果が出ており、これをなんとか是正しようとするのがコマーシャルの一つの目的であった。

このような状況と対照的なのが、パブリック・ヒストリの現状である。パブリック・ヒストリーは拡大を続け、マスコミの高い注目を集め続けている。連邦政府や州政府、地方自治体の公的行事、観光、パブリック・ディベイトなどにおいて、歴史への関心はいまだかつてないほどに高まっている。

20年前には図書館の歴史のセクションや文書館で、研究者と大学生以外の姿を見かけることはほとんどなかった。したがって、すわる席がなくなる心配などしたことはなかったが、最近の事情は一変している。個人史のブームの継続によって、自分の家族の歴史を調べる人々が図書館や文書館に殺到し、これらの施設は学者以外の個人を最大の顧客とするようになっている。それにともなって、文書館や図書館のサービスも大きく変化している。実証史学の牙城における脱アカデミック化の進行である。

オーストラリアの最近旅したことのある人ならばお気づきだと思うが、雨後の竹の子のように(英語ではマッシュルームのようにといった方がいいかもしれないが)、historic (歴史的な、由緒のある)という冠をつけた町や村が各地に出現している。つまり、歴史の観光資源としての活用が急激に広まっているということだ。歴史的資源、すなわち、ヘリテジを、ビジネスに活用することがこれほど広まっているのは、一般の人々の間に漠然と歴史的なものへの関心が高まっていることの反映でもある。

 このような関心は、公的な歴史の展示施設、公的パフォーマンスにおける歴史の尊重の中にも見て取れる。連邦結成100年を記念して、2001年5月11日にキャンベラにオープンした、オーストラリア国立博物館は、先住民とその後の入植の歴史をメイン・テーマとした博物館であり、各地の州立博物館と比較すれば、明らかにその重心は歴史にある。また、1988年に開設された歴史博物館、ストックマンズ・ホール・オヴ・フェイムは、ロングリーチというクィーンズランドの内陸部の不便なところにありながら、すでに100万人以上の入場者を記録している。クィーンズランドからの訪問者は全体の4割に過ぎず、全国的な施設として機能していることは明らかである。このほか、アデレイドやメルボルンの移民史博物館も人気を博している。

 公的な行事においても歴史への注目は高まっている。イギリスによる入植200年を記念した1988年の諸行事、シドニーオリンピックの開会のセレモニー、連邦200周年の記念式典などは、オーストラリアの歴史をメイン・テーマとするものであった。パブリック・ヒストリーは、公的な展示、行事、観光、大衆の参加というような面で、明らかに拡大しており、公的な領域での歴史のステイタスは高まっているのである。

 このような社会的な背景のもとに、政治の領域でも、オーストラリアの国民国家の歴史的意義が問われるようになり、しかもそれが、政治のメイン・ステージへと押し上げられるようになる。ブレイニーに始まる移民論争は、ハンソン論争、共和制論争へと展開し、さらには難民問題をめぐって、オーストラリアのナショナル・アイデンティティをめぐって歴史論争が行われるようになった。個人、地域、国家のすべての単位で意識されるアイデンティティをめぐって、公的な領域で歴史論争が繰り広げられ、アカデミック・ヒストリーはその対応に追われているのが現状である。

 以下では、歴史戦争という概念を通して、アカデミック・ヒストリーとパブリック・ヒストリーの一側面を検討した後、ナショナルな枠組みの中で展開してきた、アカデミック・ヒストリーにおけるオーストラリア史のヒストリオグラフィーを概観して、次の報告者にバトンを渡したいと思う。

 

2 歴史戦争

  歴史戦争という言葉をご存知だろうか。この言葉は一九九四年にアメリカで作られた言葉である。しかし、アメリカの言葉と言っても、日本にも関係が深い。一九九四年、太平洋戦争終結五〇周年を記念して、エノラ・ゲイなどの原爆投下に関わる特別展を、スミソニアン博物館が企画し、来訪者に原爆投下の道徳性についての再考を求めようとした。これに異議を唱え、アメリカの政策に疑問を投げかけるような展示を中止させたのが、ニュート・ギングリッチを代表とするネオコンの勢力であった。以来、歴史戦争という言葉が流布するようになったのである。

 一般的に、歴史戦争は、歴史家たちが国民国家の歴史の正統性に異議を唱えることに対する、ナショナリストによる抗議として起こる。多文化主義、フェミニズム、ポストモダニズム、反人種主義、多様な歴史的観点などが、その攻撃対象となる。一つの国の、すべての国民に対し、一つの歴史しか許容しないのである。また、右翼的ナショナリストたちは、唯一・絶対的な国民国家史に反するものが、公的な領域にあることに強く反発する。国の歴史に影の部分があることを認めようとしないのである。さらに、歴史戦争には、歴史家以外の人々、とりわけ政治家たちが介入する。日本の保守的政治家と右翼知識人が、センター試験の世界史の問題に現れた「強制連行」という言葉の使用に強行に反対したのも、歴史戦争の一つであると言ってもよいだろう。

 オーストラリアでは、一九九六年のハワード自由党政権の登場を契機に歴史戦争が本格化したとされる。ハワード政権は、経済面ではグローバリズムを推進し、経済合理主義の徹底をはかったが、社会政策の面ではきわめて保守的な政策を採用した。ハワードは、オーストラリアの共和国化に反対し、先住民(アボリジナル)政策・多文化主義政策の転換をはかった。このような転換は文化の面にも及び、ハワードに深くかかわりのある知識人やジャーナリストを中心に、先住民の権利の拡大や多文化主義を支えた、歴史学や歴史研究への攻撃が始まった。

 ただし、この歴史戦争には、それに先立つ前史がある。一九八〇年代半ばに移民論争を起こし、アジア人の移民制限を唱えたジェフリー・ブレイニーは、多くの歴史家の批判を受け、メルボルン大学の史学科教授の地位を退き、学界に深い傷を残した。現首相のジョン・ハワードは、アジア系移民制限を主張してハワード論争を引き起こし、一九八九年に一旦自由党党首の座を追われた。この後二人は、オーストラリアの保守勢力を代表する人物となっていく。

 ブレイニーとは対照的に、マニング・クラークは、ゴフ・ホイットラムを理想的政治家とみなし、労働党に深くコミットした。とりわけ、ボブ・ホークに取って代わろうとしていたポール・キーティングは、クラークの歴史観を取り入れることで、国家のリーダーとして自身が成し遂げようとしていたことを表現しようとした。キーティングの「ビッグ・ピクチャー」は、クラークのオーストラリアの文化的・政治的独立というストーリーの強い影響を受けていた。

 キーティングにとってオーストラリアは「若い緑の木」enlargersであり、イギリスは「古き朽ち果てた木」punishersであって、朽ち果てた木に拘泥し続ける保守政党は、未来のビジョンを持たない政党であった。とりわけ、キーティングはハワードを過去の人間、イエスタデイズ・マンとして批判し続けた。さらに一九九二年には、レッドファーン・パークの演説でキーティングは、先住民に対する暴力と土地の略奪を確認し、先住民との和解を進めようとした。彼自身の歴史作品というよりも、その発言で先住民を含む新しい国家の樹立を願ったクラークの思想的遺産を、キーティングは継承していた。

  これへの保守勢力の回答は、クラークに対する攻撃と誹謗中傷であった。かつてクラークの本を出版していたピーター・ライアンによる攻撃に始まり、ロバート・マンらによる保守的な雑誌『カドラント』の攻撃、ブリスベンの『クーリア・メイル』による中傷へと続いた。他方、オーストラリアの世論は、一九九二年のマボウ判決を契機に、先住民問題に不寛容になりつつあった。ブレイニーが、彼の観点から見て必要以上にオーストラリア史を暗く描く歴史を、「黒い喪章をつけた歴史的観」と名づけて批判を始めたのは、その翌年である。ブレイニーは、かつてのあまりにも楽観的な歴史観から、オーストラリアの歴史をあまりにも悲観的に見すぎる歴史の方向に振り子がふれすぎていると主張し、その修正を求めた。先住民の歴史、女性史、移民の歴史などがその批判の対象であったが、「黒い喪章をつけた歴史的観」の代表者として、ブレイニーが名指しで唯一あげたのは、クラーク(一九九一年五月没)であった。また、ウインドシャトルは、一九九四年に『歴史の殺害』という書物で、歴史学に浸透するポストモダニズムやカルチュラル・スタディーズの方法を厳しく批判し、伝統的な歴史学の方法を擁護した。(ブレイニーは、振り子を中道に戻すことを唱えたが、ブレイニー以上に右に振れた振り子を見つけられないという難点がその議論にはある。)

 一九九六年に首相となったハワードは、その政治哲学の中心に歴史認識をおき、ブレイニーの歴史観を中核にすえた。そこには、クラークによってハワードを過去の人間と批判し続けたキーティングへの対抗の意味もあったであろう。また、両者は、移民論争での敗北、王政への支持、多文化主義への批判、先住民政策、とりわけマボウ判決やウィック判決を認めず、奪われた子供たちに対する責任を否定する点など多くの共通点をもっていた。

一九九六年にハワードは、黒い喪章をつけた歴史的観を批判し、オーストラリア史は「帝国主義、搾取、人種主義、性差別」などの汚辱に満ちた物語ではなく、英雄的で、勇敢であり、人道的であると主張した。翌年までには、多くのグループによって構成される国(ブレイニーの表現ではnation of tribes)の歴史ではなく、一つの国民の人道的で英雄的な歴史を、連立政権が政府の公式の見解として戦略的に採用していることが明らかになった。

歴史戦争が最も先鋭化して現れたのが、オーストラリア国民史の最大の汚点である先住民問題である。先住民の土地権原を認めたマボウ判決とウィック判決が、ヘンリー・レイノルズらによる歴史研究に大きく依拠していたのに対し、ブレイニーやハワードは判決を支えた歴史観を黒い喪章の歴史と呼び、その根拠に疑問を投げかけた。最近日本で上映された裸足の一五〇〇マイルという映画が描いていた「奪われた子供たち」(強制的に親元から引き離され白人への同化を強制されたアボリジナルの子供)への謝罪の要求に対しても、ハワードは拒否の姿勢を貫いている。

 ハワードとブレイニーが傑作として激賞した歴史研究が、ウインドシャトルによる『アボリジナルの歴史の創作』である。ウインドシャトルは、タスマニアにおけるアボリジナルの虐殺やその社会の白人入植者による破壊は、歴史家たちの意図的な創作、虚構であると主張し、主要な新聞や雑誌を巻き込んだ大きな論争を引き起こした。同時に、かれが最初に論文を投稿した『カドラント』や右翼的な歴史家は、奪われた子供たちの主張が根拠のないものだとの論陣を張った。それと同時に、ハワードは、国立博物館やABCなどの役員をこのような右翼的な見解を持つ人物に入れ替えた。

 この論争が大きな意味を持ったのは、論争がオーストラリアにある二大政党を巻き込んだ国家のアイデンティティを巡る争いであると同時に、それをふまえた文化・社会政策をめぐる争いだからである。現在のオーストラリアでは、歴史認識が国家認識の中核に位置付けられ、きわめて大きな意味を与えられている。しかし、他方で、歴史研究への予算は削られ、学校教育における歴史の地位の低下は進んでいる。アカデミックな歴史の縮小とパブリックな歴史のインフレが同時進行しているのである。

歴史戦争という名称にもかかわらず、論争の当事者たちの間に共通性がないわけではない。女性史、アボリジナル史、移民史、社会運動史を研究してきた人々は、保守的なナショナリズムには批判的であったが、ナショナルな枠組みを当然のごとく受け入れてきた。ブレイニーの批判に対し、女性、先住民、移民の国への積極的な貢献にもっと光を当てようという動きも従来からある。ウインドシャトルなどを批判するスチュアート・マッキンタイアは、一方では歴史学を市民(国民)教養の一部として推進することを提唱しており、国民国家の枠内に歴史認識を閉じ込めようとする傾向が強いように見える。また、オーストラリアにおける歴史学の展開についても両者の見解には大きな隔たりはない。ただ、その価値判断に違いがあるだけだ。

 

3 ナショナルな枠組みの中でのオーストラリア史の展開

ナショナル・ヒストリーとしてのオーストラリア史の展開を概観して、私の話を締めくくりとし、次の論者へのつなぎとしたいと思う。

歴史学は、十九世紀の国民国家形成と同時に形成された学問であり、国民国家を正統化し、想像の共同体を構築するのに大きな役割を果たしてきた。オーストラリアでもこれは同じである。アーノルド・ウッドやアーネスト・スコットに代表されるシドニーとメルボルンから歴史研究は、イギリス帝国史の枠組みを前提とし、自治植民地の自然な成熟を描き出す歴史であった。両者ともオーストラリアの発見と探検の歴史を著しており、一九一六年に初版が刊行されたスコットの『オーストラリア小史』A Short History of Australia, (London: Oxford, 1916)は、スタンダードなテキストとなった。スティーヴン・ロバーツやW.K.ハンコックの歴史も同じ伝統を引き継ぐものであった。

オーストラリア史の教育が本格化したのは、第二次世界大戦後である。クラークの史料集が刊行されてようやく、オーストラリア史の教育が中等教育のレベルで可能になった。ゴードン・グリーンウッドの『オーストラリア政治社会史』Australia: a political and social history (1955)もテキストとしてしばしば用いられた。これらを補完するものとしては、フランク・クローリーの史料集や『新オーストラリア史』A New History of Australia (Melbourne: Heinemann, 1974)が七〇年代に現れた。

ターナーのフロンティア理論をオーストラリアに適用したラッセル・ウォードの『オーストラリアの伝説』が一九五八年に刊行され、労働党系の歴史家AGLショウ、ロビン・ゴラン、エリック・フライなどの研究が現れた。また、六〇年代には、ブレイニーの『距離の暴虐』やクラークの『オーストラリアの歴史』の第一巻の刊行などが出版され、オーストラリア史研究が本格化した。これらの研究は、オーストラリアの独自性により焦点をあわせるものであったが、旧来の帝国内の国民国家の独立という歴史的ストーリーを基本的に踏襲するものであり、先住民については、これをほとんど無視し、先住民に言及したとしても、単なる逸話でしかなかった。ブライアン・フィッツパトリックは、大学外にあり、異色の歴史家であったが、イギリス帝国主義に敵対する側面をのぞけば、伝統的な枠組みの外にある研究者ではなかった。

一九七〇年代、この状況は大きく変化する。ハンフリー・マックイーンが、ウォードに代表されるオーストラリアの左翼的ナショナリズムを批判して、ナショナリズム、人種主義、帝国主義の共生関係を批判して以来、修正主義と呼ばれる歴史研究が怒涛のように現れ、歴史研究の主流を占めるようになった。代表的な初期の研究としてはアン・サマーズ、ミリアム・ディクソンなどの女性史研究。ヘンリー・レイノルズ、アン・カーソイズ、アンドルー・マーカスらの先住民や移民の研究があげられる。

これらの研究は、オーストラリアの伝統的な労働史観、進歩史観に基づいた植民地の発展史、帝国主義的歴史観に反対しており、イギリス的伝統に基づく国民国家観に批判的で、多文化主義政策と先住民の権利の回復を支持する歴史研究であった。しかし、その枠組みは、オーストラリアのナショナル・ヒストリの枠組みを超えるものではなく、オーストラリアの移民史、オーストラリア女性史、オーストラリアの先住民史、オーストラリアの多文化主義という、オーストラリアという修飾語のうちで展開される歴史であった。表面的には、ナショナリスティクな歴史ではなかったが、ナショナルな境界がその研究の境界をなしていたという意味で、少なくともナショナルな歴史であり、時にはナショナリスティクな歴史と境界があいまいなときさえあった。逆に、これらの研究が批判したより古い帝国的な研究は、時にナショナルな枠組みを超えることもあり、より柔軟広がりを持っていた。

 

むすび

ブレイニーはナショナルな多文化主義的歴史研究を黒い喪章をつけた歴史観と呼んで批判したが、多文化主義の歴史家たちはすでに、ナショナルな枠組みの中で、ネイションへの貢献という観点からの歴史を書き始めていた。ブレイニーとの部分的な和解であり、多文化主義ナショナリズムの歴史の開花である。また、古い労働運動史・労働組合史への回帰も見られる。他方、複数の歴史家は、オーストラリアの歴史研究のナショナルな枠組み自体を批判し、ワールド・ヒストリー、グローバル・ヒストリー、トランスナショナル・ヒストリーなどと表現される歴史への傾向を強めている。

 

主要参考文献

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