どこよりもわかりやすいオーストラリアの歴史


先史時代( -1787)
東南アジアから島づたいに海を渡ったモンゴロイドは、オーストラリア大陸に到着した。
アボリジナルの時代の到来である!!!
その後5万年のときを経てアボリジナル文化は形成されていった。
それにともない人口も増え、現在の研究ではその数は75万人であったとも100万人であったとも言われている。
しかし…


流刑植民地時代
1788年イギリス人初代総督アーサー・フィリップは約750人の囚人を含む1000人の入植者と共にシドニーに上陸した。
イギリスの
植民地へと転落…
1776年のアメリカ合衆国独立により、
海外流刑者の送り先がアメリカ大陸からオーストラリア大陸へとシフトした。
しかしナポレオン戦争が終わるまでは、なかなか発展しなかった。




自治植民地時代(1851-1900)
1851年大陸南東部でゴールドラッシュが起こり、自由移民の割合が急増した。
流刑植民地から自治植民地への脱皮である。
ゴールドラッシュ期に拡散した人口は、金が掘りつくされると各植民地の中心都市に再び戻ってきた。
その結果、19世紀の末には豪州は世界でもっとも都市人口の割合の大きな国の一つになった。


連邦の時代(1901-1945
ドイツ、フランスなどの対外的脅威・労働者と資本家の対立・
経済の崩壊派閥政治から政党政治への移行…
連邦の誕生である。
この時代、反アジア人意識が高揚し、
白豪主義の象徴ともいえる
『移民制限法』が成立した。
豪州人の、豪州に対する帰属意識は低いものであったが、第一次世界大戦で大暴れしたアンザック(オーストラリア・ニュージーランド軍団)が神話化され、豪州人としての一体感が生まれた。



第二次世界大戦後(1946-現在
東アジアの経済成長は、オーストラリアを『ヨーロッパ国家』から『太平洋国家』へと変化させ、戦後の大量移民政策はヨーロッパからのみならずアジアからの移民を受け入れ、『白豪主義』から『多文化主義』へとした。
そして現在へと至る。
1990年代、英国王を元首とする立憲君主制度を廃止して大統領を元首とする共和国制を導入しようとする運動が起こったが、失敗に終わった。




ノーザンテリトリー政府観光局