1788年以前 オーストラリア大陸にアボリジナルの祖先が住み着いたのは
今から5万年前のことである。
その後、2万年ほど前から海面が上昇し始め、アジア大陸との
連絡は絶たれ、農耕文化とは断絶されることになった。
1521〜32年頃、ポルトガル人が香木など価値のあるものを
求めてオーストラリア周辺部に現れるが、
何も発見できなかったため、たいした注目も浴びることもなく
そのまますぎる。
1600年代にはいると、
オランダが南半球に肥沃な土地と資源を求めて、
タスマンを派遣した。 
彼はタスマニア島に到着し、
その後ニュージーランドにも到達した。
しかし、またしても貿易上の特産品が期待できなかったことから、
ヨーロッパから探検隊が再び派遣されるのは
あと1世紀を待たねばならなかった。
そして1770年、イギリス人探検家キャプテン・クックが
現在のシドニー郊外のボタニー湾に上陸し、
1785年その一帯をニューサウスウェールズと名付け、
英国王室による領有宣言をした。
労働者の歴史といっても、
正直この時期に後で
多く出てくる労働者という存在の歴史を
紹介することはできません。
悲しいことにオーストラリアの
歴史というのは
ヨーロッパ人による入植により
始まるものであって、
それ以前の労働者に関する
記述は少ないのです。
しかし、人は働きます。
勤勉な動物です。
だから働いていたに違いないのです!
1788年〜1850年 1788年1月26日初代総督アーサー・フィリップ率いる英船団による
本格的な入植が始まった。
この日が現在のオーストラリア・デイになっている。
当初は食糧難や天然痘の蔓延、治安の悪化などにより
はかどらなかった植民地の建設も90年代に入り好転した。
1803年には羊の輸出が開始され
現在のニューカッスルで石炭も発見された。
さらに同年現在のタスマニアの入植を開始した。
26年には西オーストラリアへの植民が始まり、
29年には直轄植民地になった。
イギリス人の入植と同時に先住民アボリジナルにとって
迫害の日々が始まった。
この時期、オーストラリアに入植したのは、
主にイギリスから送られてきた囚人だった。
囚人たちは厳しい
統制システムのなかで
働かされた。
刑期を終えた流刑囚の
多くはふつうの労働者
や小作農になったが、
財をなし、有力者になったものもいた。
一方、白人社会の中で
労働者として生きる
アボリジナルも多かった。
たいてい、低賃金で迫害
も日常化していた。
1851年〜1900年 そしてゴールドラッシュの波がアメリカのカリフォルニアからやってくる。
オーストラリアにも1851年ニューサウスウェールズとヴィクトリアで
金が発見され、ゴールドラッシュを引き起こした。
このゴールドラッシュによって、
一攫千金をねらった人々を乗せた移民船が続々と
オーストラリアに到着し、
総人口における自由移民の数が急増することになる。
わずか2年間の間に、
70年間に送られてきた囚人の数(約15万人)よりも多い、
新たな移民(約30万人)がやってくるなど、オーストラリアの人口は
1851年から1861年の間に約3倍の115万人にふくれあがった。
その後、ゴールドラッシュの終焉とともに、
過酷な自然状態の内陸部から労働者層は都市に戻り、
東海岸の都市部への人口の集中が進んだ。
都市に戻った人々は工場、銀行、商店、貿易会社を立ち上げていき、
経営規模も発展するなど、都市の産業が発展した。
また、この時期、大量の金輸出を中心として、
投資家の増加や金融業の発達などの経済の発展が見られた。
さらに、人口の急増に伴う、需要の急増によって、農業も発展し、
南オーストラリアでは小麦の生産量が1850年代に5倍に増加した。
1850年の植民地政府法の制定により、
オーストラリア各植民地は植民地憲法を制定し、
自治政府と内閣制度を持った。
男子普通選挙も導入され、近代的システムを兼ね備える中、
連邦政府の樹立の機運が高まってきた。
また、ゴールドラッシュ時に、
中国人を中心とするアジア系移民に対する差別や排斥が顕著になり、
白豪主義政策は連邦樹立時に国是になり、
以後、半世紀以上にわたり国家創設の理念として護持され続けた。
この時期、注目すべきなのは
ゴールドラッシュの到来である。
労働者たちは、
生活環境の悪さ、
特に水不足に悩まされ、
質の悪い水を飲料水としても
使ったので、
多くの人が病気になった。
また、鉱夫たちの抗議運動が
引き金となり、
男子普通選挙の導入に至ったが、
女性とアボリジナルには
選挙権が与えられなかった。
ゴールドラッシュ時の
自由移民の大半は、
専門的な職業(プロフェッション)
に従事している
人々で、政治問題にも
関心を持ち、
自分たちの権利のためには
断固として立ち上がる
気質を備えていた。
彼らが後に都市の社会や政治、
教育改革を主張する
中産階級を形成していった。
1890年金融バブルが崩壊
し、株と地価が暴落した。
1901年〜1945年 オーストラリアの人々は、アメリカ合衆国のようにイギリスとの
戦争によって独立を勝ち取るという体験を経ないまま、
1901年にオーストラリア連邦を結成し、独立への道を歩み始めた。
しかし、オーストラリアにはイギリスから自立するだけの国力は備わっておらず、防衛力も依存していた。
そのため、連邦結成当初から、自分自身が州や地域の枠組みを超えたオーストラリア人であるという意識は比較的希薄であった。
そのような人々にナショナリズムを高揚させる「ネイション」の神話は、
第一次世界大戦に派兵することによって創造された。
オーストラリア軍(アンザック)は8万もの犠牲を出したにもかかわらず、
人々は戦争を国民的体験として分かち合い、
アンザックは神話化され、後世に語り継がれていった。
1941年第二次世界大戦が勃発し、
オーストラリアはアメリカ、イギリスを中心とする連合軍として参戦した。
1942年2月には、北部ダーウィンを中心とする一帯を日本軍に攻撃され、
町は壊滅状態になった。
この戦争により、オーストラリア人の国民意識は高揚し、
独立国家としての明確な国民意識を持ち始めた。
連邦成立後、オーストラリアでは、裁判で賃金など
を決定する労働仲裁裁判
制度が制定された。国として
このように制度化したのは
特殊であった。
また、アメリカの大恐慌の煽り
を受けて、デフレ経済が
進行した。
第二次世界大戦中は
戦争特需で好景気を保った。
1946年〜現在 大戦後のオーストラリアでは、
国防、経済両面において適正な人口が必要であるという認識が強まり、大量移民計画が実施された。
最初はイギリス、アイルランドからの移民をあてにしていたが、
非英語圏のヨーロッパ移民を受け入れるようになった。
50年代になると、復興により、イギリス系移民が不足し始め、
イタリア系、ギリシア系と東ヨーロッパ社会主義圏からの移民が増大した。
これらの人々も60年代になると減少し、
代わりにレバノン、トルコなどの中近東の難民、移民を受け入れるようになった。
あわせて、アジアからの移民も教育、専門技術、熟練などの点において
高い資格を持つものに限って移住を認めた。
白豪主義から多文化主義へと移行し、アジア諸国との政治、経済関係を深めていった。
さらに、70年代の後半からインドシナ難民の積極的受け入れが始まり、今日では人口構成が多様化している。
戦後、国内の生産活動
が活発化し、それに伴い
移民も大量に流入した。
多くの労働者が
工業や建設業などに従事した。
日本の高度経済成長期
も影響して、
オーストラリアの鉱物への
需要が高まった。
しかし、1970年代から経済が
行き詰まり、自由主義的改革
が行なわれ、
労働組合の組織率が低下した。


TOP PAGE