● 高須賀穣 ● ブルームでの真珠採集 ● カウラ収容所脱走事件 ● ダーウィン空爆

● 日豪間の貿易 ● 日豪交流年2006 ● 日豪姉妹関係 ● オーストラリア の日本語教育

 
 高須賀穣

 

高須賀イチコ、穣(1914年実りの中で)
(写真は
http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/australia/
takasuka/page5.html

より許可を得て転載)

 
 松山藩の武士であった高須賀賀平の息子、伊三郎(穣)は18歳のとき、家督を譲りうけ、松山地裁判事前島道元の娘、前島イチコと結婚します。 彼は松山市選出の帝国議会議員として一期活躍した後、高知の友人・西原清東氏の影響もあって狭い日本を脱出、 家族と共に遠くオーストラリアに渡りました。 彼はオーストラリアで、米作りにチャレンジしようとしたのです。

 メルボルンに到着した高須賀穣は、計画を着々と進め、1906年には高須賀家に対し、 コメ作りのために200エーカーの土地が政府から割り当てられました。 高須賀穣が渡航した当時、オーストラリアには米を作る農家は一つもありませんでした。設備も種も何もない中で、 家族と水路や田を作り、賀平が1908年に日本から持ってきたモミを用いて米作りをしたのです。洪水や旱魃による壊滅、 オーストラリアの気候にあった品種の選定など、様々な問題に直面し、以後何年にも渡って高須賀穣は失敗を繰り返しました。

 しかし、1914年、穣はついにコメの商業生産に成功します。そして、高須賀のモミはリートンで最初に試みられたコメ作りに使われたのです。 この後、オーストラリアではジャポニカ米の研究に力が注がれ、 10年後にはオーストラリアの農業の中でも最も成功を収めたコメ産業へと発展しました。 そして、やがてオーストラリアの米産業は他国へ輸出するまでに成長しました。

  1939年、高須賀穣は継母が松山で死んだため帰国し、1940年2月15日に永遠の眠りにつき、両親の墓に葬られました。

  しかし、現在でも、愛媛県日豪協会と、高須賀穣の足跡を残すリートン市との間では、毎年交互に青年の派遣を実施、交流が続けられています。 そして、オーストラリアの米農業協同組合が設立70周年の時に発行した記念誌の冒頭には「オーストラリア米産業の先駆者は、 日本の愛媛県というところからはるばるこの国に渡ってきた高須賀穣氏である」と書かれています。

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 ブルームでの真珠採集

 

ブルームで真珠採取のための
潜水夫に従事し、
潜水病や台風災害などで
亡くなった日本人の眠る墓地
(写真は
http://www.retirementaustralia.net/
より 許可を得て転載)
 ブルームは、近海で大粒の真珠を産出することから、世界有数の真珠産業の町として栄えてきた町です。 今日でも、町の中心には真珠店が立ち並び、また産出量の三割は日本に輸出されています。 この真珠産業の発展を支えてきたのが日本人です。

 19世紀末ごろから、ブルームやダーウィン、木曜島など、オーストラリア北部のアラフラ海では、水中深くに潜っての真珠貝の採取が盛んに行われていました。 そして、その貝を採る潜水夫は、はじめ、潜水病に弱い白人にかわって、マレー人やアボリナルなどでした。しかし、彼らは、ダイビングがあまり得意ではありませんでした。 そこで、1879年(明治12年)頃から、日本人ダイバーの優秀な技術がかわれ,和歌山県の太地などから、この方面への出稼ぎが増えていきました。 日本人は優れた潜水の才能を持っていて、より深く、より長時間潜り、たくさんの真珠貝を海底から拾ってくることができたのでした。

  しかし、かつて4000人にも及ぶ日本人潜水夫が真珠獲りで活躍していたこの町に、いまでは日本人を見かけることはほとんどありません。 第二次世界大戦の勃発により、敵となった日本人は強制収用されたためです。また1942年3月3日には、日本軍による空襲も行われて、 町と産業は一時、壊滅的状態に至りました。しかし、現在でも、通りの名前には沖縄や和歌山の地名が命名されていたり、商店に日本人名がのこっていたりします。 また、日本人墓地は、ブルームの観光名所となっているほか、毎年、8月下旬には、日本語で呼ばれる「シンジュマツリ」が開かれています。

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 カウラ収容所脱走事件

 

第二次世界大戦当時の
カウラ捕虜収容所の様子。
© 2004 Cowra Shire Council
 第二次大戦中にオーストラリア軍に捕らえられた日本兵捕虜は1000人以上に及びましたが、 彼らは捕虜であることに罪の意識、あるいは恥という観念を強く持っていました。 彼らの間には、今の屈折した状況を打開したい、この恥辱から逃れるために機会をとらえて死んでしまいたいという空気が充満していました。 そのため、捕虜第一号でもあった南忠男を中心としたグループは、ひそかに集団脱走の計画を立てつつありました。 

 一方で、こういう不穏な動きがあることをオーストラリア側に密告したものがおり、それを受けて収容所側は、監視を強めていました。 そして、1000人を超す反抗的な捕虜を一箇所にまとめておく危険を感じた収容所側は、 カウラから西方290kmほど内陸のヘイ収容所に日本兵の一部を分離して移すことに決め、 1944年8月4日、日本人捕虜のリーダー、金澤亮や南忠男ら3人を呼び出し「明日、下士官以外の700人をヘイ収容所に移動させる」 ことを通告しました。

 しかし、この事前通告がかえって事件の引き金となりました。日本側は、下士官と兵を分離しての移動に不満でした。 そして、この不満が、かねてからの脱走計画に火をつけました。南忠男はこの機を捉えて脱走しようと金澤らに強硬に主張し、 作戦計画が立てられ、5日の決行が決まりました。

 8月5日の早朝、南忠男の吹く突撃ラッパが響き渡り、300名前後にわかれた4つのグループが、4方向に向かって突撃しました。 機関銃座にいたオーストラリア兵士も捕虜に向かって射撃を開始しました。激しい交戦が続きましたが、 やがて態勢を立て直したオーストラリア側は、近くに駐在している部隊の応援も得て、次第に日本兵を制圧し、夜明けを迎えました。

 日本兵捕虜の中には、オーストラリア兵の銃火に倒れた者の他に、首尾よく外に逃れ出たものも数百名いました。 しかし、逃亡したもののほとんどが捕らえられたり、自決したりしました。

 この集団脱走によって日本側では231人、オーストラリア側では4人が死亡し、 オーストラリア政府と軍部に大きな衝撃を与えました。

  この事件で亡くなった捕虜とオーストラリア各地で亡くなった日本人、合わせて522人が葬られた日本人墓地は、 長い間人目を忍ぶように眠っていました。しかし、戦後、反日感情がまだ強く残る中で、1964年からは日本側と地元の協力で墓地が整備され、 日本庭園も造られました。1988年からは「不戦」を誓う日豪市民の手で周辺5kmの道に桜を植える計画が進められ、 2004年8月4日、5日には日豪合同の慰霊祭など60周年記念式典も行われています。

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 ダーウィン空爆

空襲で炎上するダーウィン 

空襲で炎上するダーウィン
 1941年12月7日、日本軍がハワイの真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃し、太平洋戦争が始まると、 オーストラリアも米英に1日遅れで日本に対して宣戦を布告しました。日本は東南アジアと太平洋の広い地域に侵略を開始し、 1942年2月19日には200機を超える日本軍機によって、絶好の立地条件から、連合軍の主要基地として重視されるようになっていたダーウィンが空襲されました。 8隻の船が沈められ、人口5000人のうち、243人が死亡、350人の負傷者を出しました。

 この空襲の目的は、オーストラリアからインドネシアへ向けての反攻基地をたたくことにあり、真珠湾攻撃から帰還した帝国海軍機動部隊と、 当時日本の占領下にあったティモールやパプア・ニューギニア方面から発進した陸軍攻撃部隊がこの作戦に参加していました。

 そして、1943年11月までの2年足らずの間に、ダーウィンは64回もの空襲を受け、ブルームなど、他のオーストラリア北部の地域も空襲をうけました。 日本による空襲は、オーストラリア本土が外国の軍隊によって攻撃された史上唯一の経験でもあります。空襲の結果、ダーウィンは壊滅的に破壊され、 いまでも町の中心には記念碑が建てられ、 Bombing Road (爆撃道路) という名すら残されています。

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 日豪間 の貿易

  輸出金額    
  2000年  2001年  2002年 
日本  21805 23728 22189
米国  10958 11972 11539
韓国  8961 9521 9993
中国  6018 7590 8357

  輸入金額     
  2000年  2001年  2002年 
米国  23108.805 21405 23156
日本  15340.822 15259 15743
中国  9074.89859 10310 12849
ドイツ  5884.56694 6666 7240
オーストラリアの輸出統計(左)・輸入統計(右)[出所]オーストラリア政府統計局(ABS)(単位:100万豪ドル)

 戦後、日豪通商協定が1957年に締結されてから、お互いの貿易高は急激に増加しました。 10年後の1967年には、日本はオーストラリアの最大のお得意先となり、オーストラリアもまた、日本製品の主要買付国となりました。 1990年代の日本経済の停滞の影響は受けたものの、日本とオーストラリアの間には緊密な経済関係が保たれています。

  2003年度には、日本からオーストラリアへの輸出は1兆1469億円でした。 おもな輸出品は乗用自動車や電気機械(映像、通信機器など)などです。 逆にオーストラリアから日本への輸入は1兆7445億円で、主な輸入品は 鉱物性燃料(石炭など)や食料品(肉類など)などでした。

  日本は、鉱物食料品、エネルギー資源を輸入に頼っていますが、その輸入先の国として、オーストラリアは重要な国です。 金(非貨幣用)、石炭、鉄鉱石、羊毛などは、オーストラリアから一番多く輸入しており、石炭やチタン鉱、ジルコニウムなどもほぼ半分を占めています。

 一方、オーストラリアの貿易にとっても日本は大切なパートナーと言えます。2003年のオーストラリアの国別貿易を見ると、 輸出先では日本がトップ、2位のアメリカ合衆国、3位の中国を大きく引き離しています。また、輸入でも、アメリカについで日本は2位となっており、 総貿易額では、日本は全体の約15%を占め、1位となっています。

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 日豪交流年2006

署名を終え握手する両首脳の写真

2003年7月16日、総理大臣官邸で
日豪貿易経済枠組み文書に署名を終え、
握手するハワード首相と小泉総理。
(提供:内閣広報室)
 日豪パートナーシップに関する1995年の共同宣言以降、2001年のシドニーの会議、2002年の東京の会議に続き、 2003年7月には、オーストラリアのハワード首相が来日し、総理大臣官邸で小泉総理と首脳会談を行いました。

 首脳会談では、日本とオーストラリア間の貿易投資の自由化等に向けた共同研究や、貿易円滑化措置などを柱とする「日豪貿易経済枠組み」に合意するとともに、 国際テロの脅威の削減のために日豪両国が協力して取り組む行動計画を盛り込んだ「国際テロリズムとの闘いに関する協力についての日豪共同声明」を採択しました。  また、イラクの復興、イラク人自身の手による政府の樹立に向け、国際協調の下で協力していくことで一致したほか、北朝鮮の核開発等の問題を含め、 緊密に協力していくことを確認しました。また、ハワード首相は、拉致問題を含めた我が国の対北朝鮮政策に対する支持を表明しました。

  さらに、日豪友好協力基本条約30周年を記念して一連の交流活動を両国間で行うことに合意しました。これが日豪交流年2006です。 2006年は日豪友好協力基本条約30周年のみならず、日本在外公館豪州開設110周年、豪日交流基金設立30周年にもあたります。

  日豪交流年は二国間交流活動を一年間にわたって実施することにより、日豪関係の拡大強化を図ることが狙いです。日豪交流年はオーストラリアにとっては、 2003年日本で開催された「オーストラリア芸術際2003"古代と未来の大陸へ"」の成功や 2005年に開催される愛知万博国博覧会が生み出す機会をさらに前進させるものでもあります。

  2006年には、芸術、文化、政治、ビジネス、教育、科学と技術、スポーツ、観光、社会やライフスタイル等、さまざまな分野においての交流が予想されます。 これらの交流によって日豪の相互理解を深め、結びつきを強めること、政府間だけでなく民間の活動によって、日豪間の草の根レベルの交流を活性化すること、 交流年行事で共同作業を重ねることで、日豪間の人々のふれあいを促進することなどが目指されています。

  オーストラリアが日本で開催するイベントに加え、日本側もオーストラリアでのイベント開催を予定しています。

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 日豪姉妹関係
日本とオーストラリアは
姉妹州6件、姉妹都市99件
に加えて
姉妹港6件も締結している。

 今日のオーストラリアにおける国際交流は、日本との交流を軸に展開していると言っても過言ではありません。 現在、オーストラリアの姉妹提携先を国別に分類すると、日本が第1位の提携先で、105件(提携総数の20%以上)が日本との提携です。日本の側から見ると、オーストラリアは3番目に姉妹都市が多い国です。日本と両国との提携は、経済面及び観光面での関係の深まりを背景に、1970年代後半から次第に増加し、80年代後半から急増、90年代前半にピークに達しました。その後、伸びが鈍化する傾向にありますが、 日本・オーストラリア間の提携総数の半数以上が90年代に締結されたものという点からも、交流が近年急速に拡大したことが窺えます。

 そして、これまでに締結された姉妹都市提携においては、全般的に活発な交流が続いており、交流活動の内容も、より多様で深化したものが見られるようになっています。

 また、修学旅行、姉妹校提携、留学など、日本の学校の様々な国際交流活動においても、オーストラリアは上位を占めています。オーストラリアでは、学校教育を所管する州政府が中心となって海外との教育交流を推進しており、ニューサウスウエールズ州の教育省が実施している交流プログラムのうち、最も参加者が多い学校訪問プログラムの場合、1998年には227件9,318人の生徒の学校訪問を斡旋していますが、そのうち8,183人(88%)は日本の生徒でした。

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 オーストラリア の日本語教育

日本語教科書MIRAIの1ページ。
この教科書は90年代後半に登場した。
(© Longman Australia)
 日本語教育がオーストラリアの教育機関で初めて行われたのは1917年で、 この年にシドニー大学でオーストラリアの教育機関における日本語教育が開始されました。 翌年1918年にはシドニー市内フォートストリート高校で日本語教育が開始されています。 1987年に連邦議会において「LOTE(英語および英語以外の言語)に関する政策」が承認され、 LOTEにおける9優先言語のひとつとして日本語学習が奨励されました。その結果、 日本語学習者が爆発的に増える「TSUNAMI」現象が起き、1998年の時点では全豪で30万人を突破し、もっとも人気のある言語となっています。

  現在オーストラリアでは日本語を学ぶ学生の97%が初等・中等教育者(小学校6年間,中高一貫6年間の計12年間)で占められています。 オーストラリアにおける初等・中等教育は,各州政府の所管であり,外国語教育の取組形態や規模にはそれぞれ若干の差異は見られますが, いずれにおいても日本語学習が最も活発です。これは私立学校においてもほぼ同様です。なかでも,ニューサウスウェールズ州,ヴィクトリア州, そしてクイーンズランド州が、日本語学習の最も活発な三大拠点と言われています。

  オーストラリアでは大学入試においても、日本語が大学入試科目の選択科目として認められており、日本語学習者の多さに比例して、 他の外国語より選択者は多くなっています。しかし、その反面、日本語が最も難しい言語ともみなされて、日本語履修者でも受験では選択を避ける傾向もあります。

 オーストラリアの初等・中等教育課程で日本語を学ぶ学生の目的としては「日本の文化に関する知識を得るため」が最も多くあげられており、 楽しむことに重点が置かれています。オーストラリアの小・中学校で人気がある日本語の教科書には”OBENTO”、”YOROSHIKU”、”KIMONO”、”MIRAI”などがあります。 それに対して、高等教育課程で学ぶ学生の目的としては「将来の就職のため」が最も多く、学ぶ人数は少ないものの、真剣に日本語を学ぶ学生が多いことを表しています。

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