オーストラリアの歴史
〜総合学習のつよーい味方〜
使用上の注意
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このページは誰にでも・簡単に・手早くわかることを目的としてつくられています。
そのためすこし物足りないと感じる方もあるかもしれません。
そんなときには…実際にオーストラリアに行ってみるか、
そのモヤモヤ感を楽しむか、
または以下のリンク先にて詳しく調べてみてください。
→オーストラリア辞典へ
今のオーストラリアってどうなの?(オーストラリアのあらまし)
●国名/オーストラリア ●人口/1960万人 ●言語/英語 ●首都/キャンベラ
●通貨/オーストラリアドル(豪ドル)A$ ●国の色/緑と金 ●海外からの訪問者(2002年現在)/494万人
オーストラリア人ってどんな人たちなの?
●「移民」の国 ※「移民」とは・・・もともとオーストラリアに住んでた人だけでなく、
さまざまな国から移り住んだ人たちのこと。
→人口の2%が先住民(もともとオーストラリアに住んでた人たち)の「アボリジニ」と呼ばれる人たちだが、残りのすべての人たちが移民というすごい国なのだ!!
●先住民「アボリジニ」って知ってる??
Q1.アボリジニとは??
A.約5万年まえからオーストラリアの地に住んでいる先住民。
Q2.“アボリジニ”ってどんな意味?
A.「AB+origine(アブ オリジン)」(意味:最初からの)という言葉に起源をもつ。
Q3.アボリジニの旗がある!?
A.↓こんなの。 日本の国旗に似てるかも。。。
昔のオーストラリアってどうなの?
●時代分けして見ていこう!!
★1788以前(先住民の時代)
今から約5万年前、アボリジナルの先祖は、オーストラリアに移動してきた。といっても約5万年前の地球は最後の氷河期だったから、今よりも海の高さが80メートル(→30階建てのマンションくらい?)も低かった(その後氷が溶けて海の高さが上がったんだ)。そのため、2004年に津波で大変だった東南アジアのあたりは陸でつながっていて、今の世界にはないスンダ大陸という大陸があった。(だから土地の高さが低くて津波の被害が大きかったのかも…)そしてまた、今のオーストラリア、パプア・ニューギニア、タスマニアなどの辺りにもサフル大陸という大陸があった。そのため、アボリジナルの先祖はそのスンダ大陸から島から島へとつたって、サフル大陸へと移動してきたんだ。だから、現在でもアボリジナルの間では、祖先がカヌーに乗って海をわたってきたという神話がかたりつがれているんだよ。
アボリジナルの先祖はおもに採集や狩りなどをおこなって生活していた。また彼らは顔料という自然の材料からつくった絵の具をつかって、いろいろなところの岩などに絵をかいていた。その絵は今でもカカドゥー国立公園でみることができる。彼らは文字をもっていなかったので、こうした岩絵は当時の環境の変化や生活を考えるのにとても大切なものなのである。
★1788〜1850(流刑時代)
オーストラリアへの入植(たくさんの人がオーストラリアに移ったり、移されたことだよ)はヨーロッパ人によって始められ、入植後の最初の50年くらいの移民のほとんどは流刑囚だったんだ。簡単に言えば、流刑囚ってのは悪い人が遠くに追放されることなんだ。
その後、白豪主義(「白人が中心の国だ」って考え方)がアジアからの移民を妨げんだけど、第二次世界大戦後、東南ヨーロッパからの移民の開始や白豪主義の廃止によって移民の種類がいろいろになって、本当の意味での移民国家となったんだ。
そして、イギリスからの東部オーストラリア入植は主に囚人労働力(犯罪をした人が罪を償うために働くんだよ)によっておこなわれたんだ。
★1851〜1900(自治植民地時代)
この時期になると世間の景気が良くなって一部の働く人たちのお給料が上がって、楽しく豊かな生活を送れるような人が増えてきたんだ。
でも、いろんな分野で平等な社会になっていく中で、お偉いさんたちは「自分たちは他より偉いんだ!!!」ってことを示したくなったんだ。だから、家事を手伝ってくれる人たちを雇って豪華なバラ色生活を送ったんだよ。
この時代は、ゴールドラッシュ期(金が見つかってみんなウハウハしていた時代)に各地にバラバラになっていた人たちが、大都市へと再び集中してきた時代で、この大都市は、政治・貿易・金融が集中する場所へと変化し、そのまわりの地区の発達も進んだ。このような急速な都市の発展、経済の成長と開発が原因で豊かな人とそうでない人との差が大きくなったんだ。人々は開発や環境が良くなるように、パブリックミーティングと呼ばれる市民で作る集会(君たちでいう学級集会みたいなもの)を開くようになって、それは多くの人の同じような意見をまとめるものとなったんだ。
★1901〜1945(連邦時代)
ゴールドラッシュのあとの長きにわたる経済成長の後、1890年代に入るとオーストラリアは金融恐慌(つまりは景気がめっちゃ悪くなること)で、みんなは、めっちゃ困ったんだ。この経済の大きな変化は、今までの社会の仕組みを変えたいと思う人々を生み出したんだ。たとえば議会においても、今までは無理だったんだけど、女性による参政権運動(「私たちも政治に参加したいわよ!」っていう運動)など多くの改革運動が生まれたんだ。
★1946〜(第二次世界大戦後)
オーストラリアが多文化社会(いろんな文化が混ざり合った社会)となったきっかけは、第二次世界大戦後に、@オーストラリアを強くする。A経済をもとどおりにして、もっと成長させる。ということを目的として、めっちゃ多くの移民がきたことなんだ。オーストラリアは戦後、戦災などから逃げてきた北欧や東欧からの避難民や、ギリシャ人、イタリア人を中心とする非英語系ヨーロッパ人(英語をしゃべらないヨーロッパ人)の移民を、大量に受け入れていく。さらにトルコ、レバノンなど中近東からの移民を受け入れていったんだ。
これと共に「白豪主義なんてもう古いぜ!やめようぜ!!」っていう動きがでてきたんだ。
この「白豪主義さよなら運動」によって、どんなことができるようになったかというと、1956年にアジア人でも国籍所得(「私、この国の人です」ってことを認めてもらうこと)などが可能になったんだ。そして、67年にはトルコからの組織的移住が認められ、アジア系移住者の大量移住はまだ禁止されていたんだけど、白豪主義はほとんど終わったんだ。