第2章 奪われた子供たち

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突如休館になった博物館

この章は、オーストラリア先住民を扱う章です。書ききれなかったことの方が多いのですが、いろいろなことを盛り込もうと努力しました。ここも最初の項目を例としてあげておきますが、本に掲載されたのとは少し違う、最初に書き上げたときのバーションです。通の人は本と比べてみてください。あほさ加減がわかると思います。3と3の倍数でなくてもあほになる人はいます。

二〇〇二年八月、ケアンズの南東、自動車で一時間ほどのところにあるヤラバーのアボリジナル・コミュニティーを訪れた。ここのコミュニティーは、最近までは外界との接触を拒否し、許可がなければ、訪問することを許されなかった場所である。新しくオープンした博物館を見るつもりだったが、たまたまその日に長老の一人が死亡し、弔意を示すということか、館員がみんな長老の家に行ってしまったので、博物館は突如休館になった。まあ、オーストラリアではよくあること、仕方がない。明日来てくれと親切に言われたが、往復二時間、翌日開館している保証はないのに、さらにもう二時間は割けなかった。

 一九九六年のセンサスによると、先住民の約三二%が農牧地域あるいは遠隔地に居住しており、これは他のオーストラリア人の二倍以上に達する割合である。他方、主要な都市に住む先住民の割合は約三〇%で、他のオーストラリア人の二分の一以下にすぎない。先住民はオーストラリア総人口の二%強を占めるだけだが、ノーザンテリトリーでは人口の三〇%近くが先住民である。

このような先住民と他のオーストラリア人との居住地域の相違は、オーストラリアの北部や内陸部に、先住民の割合が極めて多い町や地域を生み出している。また、先住民が土地権を回復し、広大な領域を管轄するようになった領域や、かつての先住民の居留地で先住民が運営しているコミュニティーもある。このような地域に入るには、普通は先住民の共同体の許可をあらかじめ得なければならない。

先住民の集団の多様な存在は、北部や内陸部のオーストラリアに、ほとんどの人口が集中している南東部オーストラリアには見られない、様々な形態のコミュニティーを生み出している。前述のような先住民だけのコミュニティーもあれば、ウィルカンヤのように、先住民が多数を占めるが普通のヨーロッパ人も住む町や、ウォルゲットのように、ヨーロッパ人が多数を占めるが先住民の数が無視できないほど大きくなり、先住民存在がはっきりと見て取れる町など、興味深い町が多数ある。

伝統的な先住民社会も、採集・狩猟に依存し、ドリーミングと名づけられた神話的・慣習的世界を持っていたという共通性は認められるが、それぞれの地域の環境に応じて、様々な生活形態と文化を持っていた。白人入植以前に、日本語、韓国語、ドイツ語、英語というようなカテゴリーで分類する基準で考えた場合、オーストラリアには二〇〇以上の言語集団が存在し、さらにそれが六〇〇以上の地域集団に分かれていた。先住民の世界は決して一様なものではなかったのである。それを平板にしたのは、ヨーロッパの植民地主義の結果である。まずはこのような先住民の世界からのぞいてみよう。

その他の項目は、最古の人骨(世界遺産マンゴウ国立公園への旅)、山火事を待つ木々(史上最大の有袋類登場)、たいまつ農業、アボリジナル、先住民の虐殺、ナマコのマナコ、先住民土地権、テント大使館、奪われた世代、などです。

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