ウェリントンの歴史
地名の由来は、1817年にNSW(ニュー・サウス・ウェールズ)総督 ジョン・オクスリーがこの地を訪れ、ワーテルローの戦いに勝利した ウェリントン公に敬意を表し、「ウェリントン・バレー」と名づけた ことから。白人による入植は、5年後の1823年、バサースト以西に おけるヨーロッパ人の最初の入植地として、ベル川沿いの肥沃地帯に 囚人入植地を設立したことから始まる. それ以前は、アボリジナルの一族ウィラージューリーの居住地だった。 |
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1840年代には、J.B.モンテフィオレによって、ウェリントン最初の町ができた。このモンテフィオレ町は、ベル川とマクウォリー川の合流地点にあり、1865年にはコブ・アンド・コウの駅馬車サービスがはじまった。 またこの町には、ブルー・マウンテン以西最初のホテル「ライオン・オブ・ウォータールー」もあり、このホテルは1842年にライセンスを取得して以降、今日に至るまで営業をつづけている。 ちなみに「ライオン・オブ・ウォータールー」の道を挟んで向かい側には、ここがオーストラリア戦争期の最後の有名戦地だったことを示すため、史跡記念碑が建てられている。この最後の戦闘、1854年のことだが、兵士たちが酒に酔っぱらってしまって一人の死者も出なかった、幸運な戦闘であったという。 1838年、シドニーへの週定期郵便がはじまる。1846年には現在のタウンが告知され、1879年には自治体となった。 ウェリントンでもっとも有名なウェリントン洞窟は、1830年に発見され、1870年から旅行者に公開されている。このウェリントン洞窟は数百万年前のものであることが証明され、付近で発見された化石は250万年以上前のものだと言われている。 |
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さいごにウェリントン出身の有名人をいくにんか紹介しよう。 オーストラリアの最も有名な飛行機乗りであるチャールズ・キングスフォード=スミス(SirCharles Kingsford-Smith)は、かれの商業飛行の経歴をこのウェリントンではじめた。 第一次大戦の終結とともに、キングスフォード=スミスはイングランドから帰還し、英国空軍に所属していたことが買われ、かれはウェリントンではじめて、パイロットとしての職に就いた。ボーダンゴラ(Boda-ngora)の滑走路(いまはウェリントン空港になっている)から、キングスフォード=スミスはチャーター機を飛ばし、ウェリントン商会のためのフライトも嬉々としてこなしたという。 かれの操縦はいかにもスペクタクル、とくにシラフでないときなどはまさにそう見えたと言われている。そのためこの期間を通じてかれは、そうしたいくつかの偉業的な飛行のおかげですっかり有名に(あるいは悪名高く)なった。 |
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ウェリントンはまた、オーストラリアで一流の小説家コリーン・マックキュロフ(Colleen McCullough)の生誕の地でもある。彼女は1937年6月1日にウェリントンの街中で生まれている。 オリンピック水泳金メダリストのイアン・オーブリーン(Ian O’Brien)もウェリントン出身。かれは1964年に東京で栄光をかっさらう前には、ウェリントン市のプールでラップタイムを何度もぬりかえた。 ラジオコメンテーターとしてよく知られるジョン・ローズ(John Laws)は働きはじめて間もないころ、ウェリントンで人生のいくらかを送っている。かれは田舎に持った地所で、ジャカロー(jackeroo)として働いていた。 |
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