1970年代
四谷大塚進学教室の思い出



 1970年代中ごろの四谷大塚進学教室の会員は、入室の時の試験によって「正会員」と「準会員」に分かれ、正会員は更に上から、中野会場、四谷会場、水道橋、池袋会場などにランクされた。各会場はさらに3つにランク付けされており、上から「国立」「麻布」「慶応」である。そしてこれもそれぞれ「午前」「午後」に分かれている。成績の良い者は、午前を選択できる。つまり、最高の成績のものが「中野国立午前」の組に入れるわけである。
 全員が参加する基本的なものは「日曜教室」、つまり模試である。そのための教科書がかの有名な「予習シリーズ」であって、その次の日曜日の試験に望むためのウィークデイの教室として、「予習教室」、つまり「月水教室」「火木教室」「土曜教室」があった。この「月水教室」「火木教室」などは中野会場で行われ、「土曜教室」は、池袋などに会場を借りることがあった。日曜教室が行われている最中、父母は「父母教室」で、授業を受けた。

 日曜日の試験の結果は、木曜日になると、速達で送られてくる。1970年代半ば当時は一切コンピュータなど使われておらず、答案に赤いペンで採点がなされており、順位も手書きで記されていた。偏差値すら取り入れられておらず、この「何人中、何番」という数字のみが生徒にとって人生最大の関心事であったのである。無論、インターネットなどない時代だ。新幹線の予約と銀行の支店間の通信に、ようやくコンピュータが使われだし、「電卓」(カシオ・ミニなど)が普及して2、3年。少なくとも、四谷大塚の世界に、「プリンタ」はいっさい存在しなかった。
 また、夏休み、冬休みには夏期講習、冬期講習があった。これも、中野以外に四谷その他に教室を借りていた。なお、当時四谷大塚には、自前の会場としては中野しかなかった。四谷は上智大学(主に6号館)、池袋は電子専門学院、その他早稲田には13時ホールなどの会場を借りていた。

漢字練習帖、会員証など
 生徒にとって、四谷大塚グッズは特別な意味を持っていた。その中でも特に大切なものは、この徽章。
Waffen

 誇りのシンボルである。この4つの矢のマークは、いつなくなってしまったのだろうか。そのほかにも、四谷大塚独自のグッズはいくつもあった。まず、教室の音楽。会員には、レコードも配られた。15cmのビニール製のLPレコードである。宮田ハーモニカバンドが演奏する行進曲風の明るい曲で、「風だ光だ明るい窓だ。集う笑顔の学びやだ。私たちは僕たちは、手に手をつなぎ、羽ばたく小鳥。あ〜四谷、大塚、進がーく、きょーしーつー」とかいう歌詞。あんなの、今でもあるのだろうか。なお、チャイムを鳴らす中野会場の放送設備は、私の小学校のよりも一回り小さく、1階の階段の近くの放送室の中にあった。私は忍び込もうと常に狙っていたが、果たせなかった。
 中学入試の年の1月には、卒業式のようなものをかねて、「修了式」が行われた。会場は中野サンプラザである。会場では、それまでに出会った、様々な戦友たちと会うことができた。上の写真の鉛筆は、そのとき会場で配布されたものである。確か、OB、OGの話などが続いたように思う。しかし、すごいのは、その修了式の日と、2月1日つまり主だった私立の入学試験当日の間に1日、総まとめの授業があることだ。いやが上にも、緊張感を高める。上の写真の『入試必勝』はその時のテキスト。

 そして、入学試験当日には、四谷大塚の先生方が主だった有名中学の校門前で、会員を激励してくれた。入試の結果はまとめられ、中学入学後の春に、名簿として送られてくる。そこで、自分の入試が成功したか失敗したかが、いやでも再確認できる。

中野サンプラザ
 私には、こうした教育システムが良かったのか悪かったのか、分からない。恐らく言えることは、あの厳しいシステムは、勝者には自信と責任感を、敗者には敗北感を与えたものだったろう、ということである。よく、大人たちは言ったものだ、一切の休日もなく勉強しつづける子供たちがかわいそうだと。しかし、四谷大塚は、多くの生徒たちにとっては決して苦しいものではなく、むしろ神聖なものだった。はたから見れば過酷かもしれない。しかし、社会人になってからの日々のほうが、よほど過酷である。




古いものを整理していたら、四谷大塚の歌のカセットテープが出てきた。本当に懐かしかった。強く正しく。いつも元気。心を磨く。熱だ努力だ輝く夢だ。高い理想。未来。明るい、プラスの価値を教える教育。懐かしい感じがする。



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