はじめに
筆者は「監司と台諌―宋の地方官制における「制度」の変質(2)―」と題する、宋代の地方監察制度についての論稿を現在準備中であるが、その論点の骨格は、概略、宋代の監司は、皇帝の「耳目の寄」として、地方監察の任に当たる建前であったが、現実には地域的偏差を含みつつ、州県の地方官の罷免は、監司の弾劾によるものとと中央の台諌の直接の弾劾によるものが、相半ばしていた。しかし明清にあっては、督撫など高級地方官に肩書を与える形で地方に御史を配する制度が確立し、ふたたび地方の監察機関が府州県の監察を行う状態が再現された、というものになる予定である。 こうした事実を、この次稿では、『宋会要』「黜降官」を中心とした人事関係の資料の統計的利用や法制史料によって提示するが、本稿では、そこでは抜け落ちてしまうであろう、なぜ監司による監察がうまく行かずに、台諌に頼らざるを得なかったのか、当時それについてどのような議論が行われたのか、ミクロな点を、明らかにする。そのために、南宋の監司と台諌による弾劾の関係という同一のトピックを、ある一つの事例を通して観察することになるが、その事例が、ここで取り上げる淳煕年間の「臧否」制度である。
「臧」とはよい、「臧否」で善し悪し、転じて動詞的に人の善し悪しを云々する意である。『後漢書』李賢注に引く「漢官儀」に
三公は、長吏の臧否や人々の困難を聞き取り、速やかに列挙して上奏するが、これは[地方政治を評価するための]うわさを提供するためである。掾属・令史が殿上に集まると、司会者が叫ぶ、「某々の州郡での政治はどうであるか」。善ければ声をそろえてこれをほめ、善くなければ押し黙って口を結ぶ【0.01】。
などとあって、地方官の臧否が人事評価として使われた例がある。ところがこれはむしろ例外的で、宋以前では「臧否」は、人物評価といった意味で使われることが多かった。殊に、魏晋南北朝期には、文人による人物評価が流行ったが、「人物を臧否するを好む」という用法が定型句の如くにしばしば見られるようになる【0.02】。しかし隋の××年5月癸亥、
詔し、人々の間に国史を撰集したり人物を臧否する者があれば、皆禁止する【0.03】 と民間での人物の臧否を禁じて以降、こうした用法は激減する【0.04】。これが隋唐における科挙の成立などの一連の官制改革と表裏していることは言うまでもなく、国政にかかわる人物評価はこれ以降、あくまで皇帝およびその官僚によって行われるのが筋となる。
南宋には、この「臧否」が孝宗のイニシァチブのもとに、制度として実施された【0.044】。無論今回は、このような文人による私的な人物評価ではない。あくまで官僚制度の手続きとして行われた、地方官に対する人物評価であり、皇帝から全国に命令される形が取られたのである。すなわち、監司が各の路の守臣につき、その臧否を毎年定期的に上奏して、全国の守臣を黜陟(昇任・降格)する。この形は、皇帝がその「耳目」としての監司を要に、中央―路−府州軍−県というヒエラルキーを通じて全国をコントロールしようとする、宋の地方制度の理想を前提にしたものである。このいささか奇抜な、少なくとも隋以降は殆ど使われなかった語を孝宗が採用した時には、やはり法制としての漢代の用法が念頭にあったと思われる。孝宗は目前の問題解決に、六朝の「清談」的な議論を好まなかったとの指摘もあり【0.045】、臧否が六朝の臧否の類推から利用されたことは考えにくい。後出の蔡戡も、臧否文の中で、信賞必罰を徹底しようとする孝宗を前漢の宣帝になぞらえているし、のち呉泳は淳煕臧否を周制、漢制と並び称して高く評価する【357】。
ところが、結論的にいえば、この制度は失敗であった。度重なる督促にもかかわらず、監司は命令を遵守しない。朱熹などは、強固に朝廷の命令に抵抗し続けた。またたまに実施する地方があっても、公正さを欠き、私情に走るとの批判が渦巻く。しかもその結果、政争が悪化する。ついに孝宗もその実施をあきらめる。しかしながら、こうした事態が慢性化していても、当時南宋は決してまだ帝国崩壊の危機に直面していたわけではなかった。
とすれば、一見堅固な、それでいて機能不全に陥りやすい建前上の官僚制度とは裏腹に、代替的な運用のパタンが存在し、帝国の存在を維持していたはずなのである。では、その帝国の存在を維持していた、すなわち、それなりの官僚制の秩序を維持していたものは何か。それは、「制度」というものをどう考えるか、という問いにまで結び付く問題で、臧否制度という小さな課題を扱う本稿には、この問題についての十分な議論を展開する余裕はない【0.05】。しかし、少なくとも淳煕臧否というひとつの官僚人事制度上の試みの失敗、それについての議論、現実に行われた人事制度の運用を追うことで、この問題に答えて行くための小さな足掛かりは得られるのではないかと思われる。
第一章 臧否と考課
(1)考課制度の形骸化
この淳煕臧否は、考課と切っても切れない関係にある。淳煕九年、臧否を推進しようとする臣僚の
監司・帥臣が管轄下[の地方官]を臧否すれば、考功課吏の意図は尽くされる【517-3】
とする言からも顕著なように、臧否の目的は、人事評価としての考課であったからである。言うまでもなく、この「考功課吏」は伝統的に、考課を意味する。
少なくとも宋初には、皇帝が自ら各官僚の人となりを把握し、人事を掌握するのが理想であった。しかし太宗の時代以降官員が増え、雍煕中には、「天子はもともと自ら個人記録を閲覧するが、大勢の人材を遍く知ることができないことが心配される」とういう状況下で、考課制度は整備されてゆく【0.06】。そして「今、天下の州は三百、県は千二百になる。それらが治まっているか否かは、朝廷はどうしても把握することはできないので、必ず十八路転運使に委託する」こととなり、転運を中心とした地方官考課制度が整備されて行くのである【0.07】。考課制度は、南宋初年に一連の立て直しがあったことを除けば、北宋神宗期を中心にほぼ整備され、州県官に対しては唐の四善二十七最の基準に倣って四善三最で評価する制度が確立していた【513-2】。しかし当時はすでに殆どの守臣・通判闕や多くの知県県令闕が堂除となり、吏部の除授による考課制度はもはや機能すべくもなく、治績評価としての役割をもはや果たさなくなり、「考」とは、かえって任期を表す単位のように使われた【512-9】。
考課が形骸化していたことを証言する史料は少なくない。従来指摘されているところも併せて述べれば、本来地方官の治状を上・中・下に客観的に評価すべき「考詞」に、当たり障りのない「中」や「上」、「中の上」しか記されなくなり【512-95】、またことに北宋末徽宗の時期〜南宋に入ると、コネが横行したとの指摘がしばしば行われ【512-96】、さらに人事にからんでは転運の胥吏に賄賂が横行し、「賄賂がおおっぴらに行われ、人事は売り物となり、ポストを得られるか否かは、ただこれをむさぼるの多少によって定まる」というように、ポストが賄賂の額によって定まったという記述も残されている【512-97】。これらの言説では、考課の形骸化の原因は、主に以下の二つの原因に帰せられる場合が多い。一つは私情の優先、もう一つは胥吏の舞文である【515】。そしておそらくこれらは、宋朝に限ったことではないかも知れぬが、これらの行為の責任が監司に帰せられる点が、宋王朝における特色と言い得る【512-98】。
実はこうした弊害は、遅くとも北宋中期ころには始まった【517】。さらに、さらに靖康の動乱を経た南宋初年には、監司による地方官の考課は事実上殆ど行われなくなったようで、殿中侍御史周秘の次のような指摘がある。
国家は十五事によって監司を評価し、[監司は]四善四最の法によって府州軍や県の長官をチェックする。[監司らが]報告の期限を守らなかったり、事実と違えば、有罪とする。しかし、この五六年の間、ただ成都潼川路のみが、ひとたび報告してきたが、その他の諸路は、どこも成績評価を報告してこなかった。法令は廃れ、[地方官の]能否は辨ずるなし【516】。
つまり紹興初めの五、六年を通じ、全国の監司のうち先の「十五事」あるいは守令に対する「四善四最」の法を遵守して課績を上奏した監司は、成都潼川路一路にすぎなかったいうのである。これに対して、管轄下の地方官の課績の上奏を強制するための信賞必罰的な方法がたびたび試みられた。例えば潼川路以外の監司がまったく課績を奏上していないことを指摘した周秘は、上記の部分に続けて
欲し望むらくは、特別に関係機関に命じ、考課條令を検査 し、申嚴行下せしめ、諸路監司州縣を責し、今より各の限によりて保明せしむ。其の年を累ぬるも輒りに申奏せざる者は、亦た取問し因依するを乞う。仍を乞うらくは、今より、朝廷の審度に従い、歳に殿最各一、二人を取り、賞罰を重行せんことを。吏部に詔し、厳に諸路に行下し、常切に遵守せしむ。如し違わば、御史台に仰せて糾劾し以て聞し、余は奏に依らしむ【517-2】。
と監司・州県の官にこれを厳格に運用させ、考課を行うかによって毎年殿・最を各の一、二名づつ挙げ、賞罰の対象とするよう提案した。考課制度とは本来、定期的に上司が管轄下の全ての官について行うのが建前である。しかし課績を奏上しなくなるとういう官吏評価制度としての考課制度の形骸化が起こると、考課内容の妥当さどころではなく、考課の結果を奏上させること自体が目的化し、考課怠らないことが、賞罰の対象となるのである。かかる事態を背景として出されたのが周秘の提案であるが、しかしこの後、秦桧専制が始まり、人事関係の議論は不活発になる。この政治的動乱期を過ぎ、再び活発に法制の整備が行われるようになった孝宗時期に、今度は孝宗自身により地方官人事制度の建て直しの企画が行われた。それが臧否制度である。無論、考課が臧否によって代替されたというわけではない。官僚の成績評価という本来の機能ではないが、考課関係の諸制度はすでに官僚の在任期間にかかわる不可欠な制度として別の次元で存在し続けた。しかし、肝心の定期的な成績評価の方はたえて久しく行われていなかったので、孝宗によって臧否の実施が試みられたのである。
(2)孝宗とその時代
高宗は天下を公とする心によって、太祖の後裔を選んで擁立した結果、孝宗という賢い人を得られた。聡明・英毅なことは、南宋の諸皇帝のうちでも断然一位である。これは得難いことだと言い得る。
『宋史』孝宗紀の賛は、こう始まる【517-3】。寧宗擁立の際には韓タク冑の力が与かって大きく、慶元党禁などさまざまな施策が韓タク冑らの行いとして批判的に史料に現れるのに対して、孝宗擁立には高宗の意向が強く、結果孝宗の施策は彼自身がイニシャチブを取って行ったと見る史料が多いのである。臧否について触れた諸史料も、その失敗の原因を権臣の擅断に帰するものはない。
こうした傾向は、ひとり淳煕臧否に限られることではなく、孝宗期全体の政治について言えることでもある。孝宗朝政治を性格づける作業は、小稿のなし得る所ではないが、その政治の方向性を見極める上で、最小限の総括を行っておきたい。
さまざまな個別的政策を縦断的に見ると、孝宗期は改革の時期である。今日の社会経済諸分野の研究を見てみても、この時代は統治に卓越した時代であったとされる。たとえば経済分野では水利の改修が多く行われ、開墾も盛んであったし【346】、会子の価値下落の防止にもある程度成功している。また官僚制度上も、須入(改官して差遣を得る者は、すべて知県を経験せねばならぬ規則。知県の職は嫌われ、それまでは殆ど行われなかった)が励行されある程度の効果が上げられ【347】、辟闕の復活の方向が見られ【349】、銓選での吏部の機能の回復【350】が試みられるなど、中央に集中してきた人事権を本来の吏部や監司に分散する方向でさまざまな改革が見られた【351】。また流品の思想に連なる左右寄禄官と選人の左右が整理されたのも淳煕年間である【348】。さらに別稿で論じたように、孝宗当時は、賄賂に類した“羨餘” を献ずることが戒められ、饋遺を恥としたという【352】。礼制方面では『淳煕新儀』が【353】、法制方面では初の條法事類『淳煕條法事類』が作られたこともあり、淳煕は「淳煕文物最盛時」といわれた【354】。この時期の政治議論には、後世の枠組みともなったものも多く、たとえば『歴代名臣奏議』も南宋歴代の中では孝宗時の奏議を格段に多く載せる。尤もこれは、朱子学者であった楊士奇らによって編まれたものであり、朱熹の文がかなり全体量を増やしているが、それを差し引いても孝宗の突出は変わらない【354-5】。また、この時期には韓タク胄・史彌遠・賈似道と接踵した寡頭的な権力が見いだせず【518】、南宋諸朝のなかでは比較的に皇帝権力が突出していた時期であった【519】。後世からふりかえったとき、孝宗期は権臣の擅断が小康状態を見、いっときなりとも英邁な君主による専制が実現した時代と映ったようである【345】。そしてそれは、南宋後期以降、元代に至るまで「乾淳(乾道淳煕)」の世と称され、政治に参照されるべき良い時代としてしばしば引き合いに出された。 対金積極策を取らなかったにもかかわらず、このように高い評価をているこのように孝宗期、とくに乾淳の世が高い評価が与えられた主な理由は、朱熹を初めとした道学の大儒の出現があげられよう。元の陳樂に載せられた問答では、建炎から紹興初、宋の復興にともなう宇宙間の気により、「乾淳の大儒」すなわち朱熹・張木式・呂本中の三人が生まれたという【517-33】。孝宗の時代は、道学の時代でもあったのである。
その孝宗が、とくに力を注いだのは用人であった。それには秦桧専制時期の終了とともに登場し、新たな人材の配置という切羽詰まった現実的な要請があったことも大きいであろう。かれは内殿の屏風に天下の監司・帥臣・郡守の姓名を書き付けたものを貼っていた【356】というほど、地方官人事に意を用いたが、後述のように孝宗が「治民に留意した」ことが臧否実施の最初であったとする史料もあり、淳煕臧否は、このような孝宗朝の初期に行われた地方制度立て直しの諸施策のうちでも、もっとも代表的なものである。
第二章 臧否実施の顛末
(1)史料
淳煕臧否については、従来研究が極めて少なく、言及すら皆無に等しい【517-55】。この臧否制度に限らず、北宋末以降南宋の制度史が未だにかなり未開拓の状態に置かれていることは、南宋から明清に受継がれる制度史のトレンドを追う上で解決されなければならない課題である。しかし乗越えなければならない史料的なハードルが存在することもまた事実である。というのは、今更指摘するまでもないが、南宋については例えば李トウの『続資治通鑑長編』に匹敵する詳細さ・公正さを持った史料が少なく、ことに本稿で扱う、政治史に密接に関わる動きは、『宋会要』からも意外と掴みにくい。しかもこの臧否制度は、考課制度との密接なかかわりから、『宋史』・『文献通考』では「考課」(それぞれ巻☆☆、巻三九(選挙一二))に記述があり、『慶元条法事類』ではその法令は職制門に「考課令」として採録されているが、一方地方官人事の中で監司の果たす役割が大きいことから『宋会要』では職官四五の「監司」に分類されるなど、範疇が一定せず、記事が散在している。そしてこれらの記述は、かなり簡略なものである。察するに、臧否についての研究が殆ど存在しないのも、それゆえかと思われる。そこで本稿では基礎的な事実確認から出発せねばならないが、臧否制度実行の顛末を比較的まとまって伝える史料が存在しないわけではない。例えば李心伝の『建炎以来朝野雑記』(以下『雑記』と略称)の甲集巻五には「淳煕臧否郡守」として、三葉近くにわたり、淳煕臧否の顛末について記述が見られる【358】。また、これと共通する記事の多いのが『皇宋中興両朝聖政』(以下『両朝聖政』)である。一説に科挙受験用に編まれたというこの書は、出自に不明な点が多く、また書誌学的研究もほとんど行われていない。しかし、『雑記』や『宋会要』の記事を本書によって補い得る場合もある【517-35】。なお、監司によって書かれた、守臣の臧否の上奏文が存在する。南宋の蔡戡なる者の文集『定斎集』に残された二つの「臧否守臣奏状」がそれで、管見では、これは臧否制度の規定に沿って書かれた淳煕臧否の上奏文の、残存する唯一の事例と言ってよい。次節では、これらの史料と、他の断片的な記述を読むことにより、臧否制度の顛末を叙述してゆく。
(2) 李心伝の意図
本稿が主軸に据えるのは、上記李心伝の「淳煕臧否郡守」である。しかし、ここで注意せねばならぬことは、この『雑記』の記事と、淳煕臧否についてのその他の諸史料の記述態度は、必ずしも一致するとは限らない、という事実である。臧否について見方は、これを忠実に実行した蔡戡のものや、まったく批判的に受け止めた朱熹などのもので異なり、その差異については次章で論ずるが、ここでは李心伝の政治的立場・思想を従来の諸研究も参照しつつ再確認したい。
『宋史』の彼の伝(巻四三八)の賛に「其の志は常に川蜀を重んじて東南の士に薄し」云々、とあるように、李心伝は四川出身者を重んじ、また四川の事情について殊更詳しく記述する。この「淳煕臧否守臣」の記事にもその傾向は強い。蜀士の代表人物とも言える趙雄や句昌泰の動静に詳しく、全州、キ州路など、四川各地でのエピソードがいくつか挿入されている。しかし本資料は特定の政治勢力を批判的に描くものではなく、単に臧否制度自体が矛盾をかかえ、「私託」を助長し、廃止に至った経緯を説明するものだ。これは『雑記』全体に共通して言えることだが、李心伝が批判する対象は、制度・政治状況そのものであって、個人や政治勢力ではない。確かに臧否を巡っては後述のようにこれを全く無視しようとした朱熹や、協力的だった浙東学派の官僚などの立場の違いが存在し、李心伝は臧否に批判的であるという点では前者と軌を一にするものの、李心伝自身道学者ではなかったし、『雑記』で引用するのは朱熹などではなくむしろそれを弾圧した陳賈らの言説である。李心伝が『雑記』で臧否制度を取り上げた意図は、経世を目的とした、制度そのものへの批判である。この「淳煕臧否郡守」の記事の最後の部分で、李心伝は孝宗が黜陟に意を用いたにもかかわらず、「私徇の弊」によって臧否が失敗したことを述べ、
要は部使者[監司]を厳選することだ。そして台諌これを監察・評価すれば、大体宜しいであろう。
とする孝宗の言を引いてこの記事を結ぶ【603-6】。台諌を活用するという点は、彼がこの記事の中で必ずしも与しなかった朱熹にも共通する主張で、またこの時代全体の趨勢でもある。
(3) 『雑記』に見る臧否実施の顛末
孝宗は、紹興三十二年六月に即位したが、彼は「治民に留意した」こととて、改めてこの年の一二月丙寅(三日)、
・・・・其令諸路帥臣監司、限両月、悉具部内知州治行臧否、連銜聞奏。苟違朕言、令御史台弾劾。
と諸路の帥臣監司は二カ月以内に悉く部内の知州の治行の臧否を具し連名で聞奏するよう詔しており、これが、雑記の「淳煕臧否郡守」の冒頭を飾る【560】。この命令が以後の淳煕年間の臧否のさきがけとなるのである。ところで『宋史』本紀(巻三三〜三五)によれば、これを追うように、孝宗は乾道二年六月甲戌(三日)、六年閏五月壬午(三日)、九年一月中、淳煕七年七月癸丑(二日)と、監司・帥臣に守臣や県令の臧否を具奏させるよう、あるいはその不実を罪するよう、詔が出されている。しかしこれらは何れも本紀以外には、志、宋会要、両朝聖政などには記事が見えず、これらが実行に移された形跡は見当たらない。雑記も、上記の紹興三二年一二月の詔を掲げつつ、「後、多事を以て克(よ)く行われず」として淳煕八年までの事を省略していることからすれば、命令は実際に出されたにせよ、現実には行われなかったようである。
しかし淳煕八年閏三月に改めて
詔し、諸路の監司・帥臣は、年末に、各々管轄下の守臣を三ランクに分け、統治の実績が顕著なものを「臧」、貪ったり凡庸で過ちを犯すものを「否」、善政も悪政もないものを「平」とさせる。詳細に評価し、名を記して上奏させよ。その中から、「臧」「否」各々は裏付けを取り、もし[監司・帥臣による]評価が不公正であれば、御史台に命じて弾劾させる【560-22】。
と詔した。監司・帥臣が毎年府州郡の長官を三ランクで評価し、さらに上には御史台がこれを監督している形となっている。後出の蔡戡の「臧否守臣奏状」(淳煕八年末)には、この閏三月の詔が根拠として引用されていることから、これが実質的には臧否実施の基準となったと見てよい【560-21】。
しかしこの臧否制度は当初から躓く。孝宗の鳴り物入りで始まったわりには、淳煕八年の年末に至っても監司帥臣たちは守臣の臧否を来上しなかった。淳煕八年三月の詔によって実施してみると、たちまち臧否制度の持つこれらの問題点が明らかになったようで、九年三月一八日の臣僚の言には、
守臣の交代も常ならず、監司帥臣の好き嫌いも様々である。よって、その言にも正当なもの、不当なものがあり、既に離任して臧否に及ばなかった者もあれば、着任したばかりでもう臧否に遇った者もある・・・・・【560-23】
との指摘がある。後にも蔡戡の臧否文を分析するところで再び取り上げるが、当時守臣は、地方官本来の任期の三年弱をつとめ上げる者は稀で、諸地方志の題名の着任/離任の日付からも一見して明らかなように、実際の赴任期間はそれより短く、数カ月しかない者も多かった。そのような状況では、一年の治績を見る臧否は現実には不可能であることを、この臣僚の上言は意味しているのである。ここには任期の問題が存在したことに加え、監司が職務に忠実でなく有力者をかばい、無援のものをしりぞけることなどの弊害が伴うことが指摘されるが、続いてこの臣僚は
諸路の監司・帥臣は、今後部下を臧否し、必ずすべて一年の人数を総計し、すでに離任したか現任であるかを問わず、ただそのなかで区別せよ。もし「臧」とされたものが既に朝廷によって抜擢され任用されていたのなら、必ず「臧の次」を報告し、もし「否」とされたものが既に朝廷によって罷免されていたのなら、必ず「否の次」のものを報告せよ。もし臧否が不適切であれば、必ず調査させて上奏させよ
と提案し、ほぼ受け入れられている。とりあえず、管轄地域に在職するものについて、評価を行おうするものである。
以降、原文は省略するが、『雑記』『両朝聖政』の当該箇所から関連記事をたどって行くと、臧否制度が政争に巻き込まれて行った過程を見ることができる。一〇年四月には、九年度分の臧否は来たが、これによる黜陟は行われず、孝宗の督促によりこれが進呈された。しかしこのときも、臧とせられた者の多くはすでに陞擢せられれ、否は黜けられており、この臧否によって陞黜があたえられた守臣としては、諸史料には知常州范仲圭ら四人の名が挙げられているにとどまる。
翌一二年六月には、一一年分の臧否が来上したが、この時にいたるまで、浙東一路のみは聞奏がなかったため、浙東帥臣鄭丙と提挙句昌泰が降一官に処された。これに対し、衛国公趙雄は「まさに挙劾すべし。而して必ずしも之を臧否せず」、すなわち挙(推薦)
と劾(弾劾) が行われればよい、臧否による黜陟はかならずしも必要ない、と言ったという【560-24】。しかし、孝宗はこれに従わず、一一年分の黜陟が行われることとなった。
ところが、福建では監司帥臣の丹念な臧否により黜陟が行われたものの、大方の黜陟は九月になっても行われない。諸路の臧否の不公不実のものを、給舎臺諌に 駁論奏させるべきであるとする陳賈の請を受け、台諌を用いて黜陟を強行することとなった。すなわち監司により否とされた守臣は宮観を与え、違反したものを御史に糾弾させることとなった。これらの意見を取り入れ、さらに四川・嶺南には時間的余裕を持たせる配慮が一二年一〇月癸亥の詔によりなされ【560-25】、この臧否の法は完成を見た。『慶元條法事類』に引かれる考課令には
帥臣・監司は、年末に、各々管轄下の知州を総計し、交替した者は勘定に入れず(初めて着任したものはこの限りに非ず?)、1年分の人数を勘定し、3段階に分けて評価せよ。統治の実績が顕著なものを「臧」、貪ったり凡庸で過ちを犯すものを「否」、善政も悪政もないものを「平」とする(「臧」「否」は裏付けを取る)。四川・両広は翌年5月までを期限とし、その他の路は3月までを期限とし、上奏させる。もし情に徇じて事実を言わなければ、御史台に弾劾させる。【560-255】
と定制化されているが、これは前出の「統治の実績が……」以下の基準により三等に分けて奏上させ、御史に監督させた淳煕八年閏三月辛己の詔と、川廣および餘路の期限を定めた一二年一〇月癸亥の二つの詔に淵源している。
そして諸史料には、一二年から一三年にかけてこの臧否によって一連の人事異動があったことが記されている。青神県(成都府路眉州)の蒲杲が入見し、「自分は監司に無実の罪を着せられただけで、人民に対しては罪がない」と言ったため、孝宗はこれを直としたとある。この事実を『雑記』が記すのは、臧否制度が現実には私情に左右されていた事を強調する為であろう。しかしこれにより、知瀘州の史皐が漕臣岳霖により否とされて罷免された。知瀘州史皐は潼川府路安撫使を兼任しており、同じ路で帥臣が転運使に臧否で「否」とされ、罷免されるという、監督関係の上から言って、混乱した事態が伝えられている【603】。また湖南では、知全州趙昌裔が帥臣林栗、提刑宋若水、張柳、管鑑らによって連年否とされ、孝宗は一度は昌裔の奉祠を命じたものの、陳賈の言によりこれを取り消した。しかしここに至ってもいまだ官僚たちの全面的な協力的は得られなかった。一四年には江西提刑であった馬大同と楊輔が臧否の遅れにより降された。その結果ようやく全国の監司が同調したという【603-5】。
この後李心伝は「しかし十余年にわたってこれを行ってきたが、循私の弊を免れなかった」と続け、先にも引用した、孝宗自身その失敗を認めて輔臣に対して言った「要は監司の人選にあり、台諌がこれを監督すればよい」という淳煕一五年のコメントを引用してこの記事を結んでいる【603-6】。
そしてその後も臧否は法令上は存続してはいたが、後出蔡戡の言によれば、光宗期にはこの臧否にもとづいた黜陟は全く行われなくなったという【604】。そして『雑記』では、後カンタクチュウ時代に勢力を張る右正言陳自強の言により最終的に臧否が廃止されるのが、慶元五年である【604-5】。
以上、煩を厭わず淳煕臧否の概要を述べてきたが、まず指摘できることは、淳煕九年の改正の過程にも見られたように、この法にはもともと無理があったということである。つまり周知の如く地方官が一つのポストに三考、すなわち二年数カ月止まることはむしろ稀であり、多くが数カ月ごとに任地を替えながら成資を待った当時の状況の中で、毎年一路の守臣全員の勤務評定を行うことはもともと不可能であった【605】。すでに擢用あるいは罷黜されていた場合は次点の者を挙げるとする淳煕九年の臣僚上言はこれに対応したものである【606】。しかしこのような強制的な部下の評価は、監司と守臣との間の政治的な関係を露呈させることになり、もしかりに監司が努めて公平に評価したとしても、痛くもない腹を探られたり、守臣に対して恩や恨みを売るなどの結果にならざるをえない。『雑記』が述べつらういくつかのエピソードや、以上見て来た様々な奏議は、これを危惧するものであり、李心伝が結論づける「循私の弊」もこれを指すものであろう。事実、当初は孝宗の主導によって始められたと推定されるのではあるが、大方の消極論にもかかわらず罰則付きで臧否を強行しようとした淳煕九年あたりから、道学者に対する弾圧が始まってゆくのである【606-02】。
もう一点、以上の経過を追うことによって明らかなことは、常に御史・諌官による弾劾が利用されたということである。臧否制度自体は、任期の短さなどの技術的な問題から、なかなか行われなかった。たとえ臧否が来上したとしても、それによって黜陟もまたなかなか行われなかった。しかし陳賈の請による淳煕一二年の定制化前後から、御史台の弾劾規定を利用して臧否は強引に推し進められた。次稿で詳しく述べるが、宋では法令の末尾に、違反者に対する弾劾規定を設けることが盛んに行われ、弾劾は有効な法令実行の手段と考えられていた。趙雄の主張は、臧否によって人物評価を行わなくとも、推薦と弾劾が行われれば、地方官の評価は可能だとする。また、『雑記』と並んで『宋史』「選挙志」が伝える孝宗の「要は監司の人選にあり、台諌がこれを監督すればよい」とする言も同様である。さらに後述の朱熹も、臧否の実行を拒否し、弾劾を熱心に行っている。弾劾による罷黜は常に盛んに行われており、その意味において、黜陟制度としての弾劾は生きた制度であった。
第三章 朱熹と蔡戡
前章で見た李心伝の『雑記』は、臧否制度の不備な側面に焦点をあてて書かれたものであった。事実、臧否制度は孝宗時代に一時的に試みられただけで、その後に受け継がれておらず、この制度に何らかの積極的な意義を認める文章は、なかなか見出し難い。また、この制度の賛否を巡って何らかの党派の間で論争が行われたのかどうか、それも現存の史料に跡づけることは出来ない。しかし、臧否について書かれた幾つかの文章の中には、明確に対立的な型をとるのではないものの、個別に賛意を示すものもあるし、批判的なものもある。これらを比較することにより、当時の官僚制がはらんでいた問題点を指摘することができるように思われるので、本章では消極派と積極派それぞれの議論の事例として、臧否について論じた朱熹の上奏文と蔡戡の上奏文とを、比較検討してみたい。
(1)朱熹の消極性
さて、本稿でもすでにしばしば言及しているように、朱熹は、淳煕臧否が本格的に実施された淳煕八〜九年にかけては、浙東提挙常平という監司の地位にいたにもかかわらず、この命令を頑として拒否し続けた。彼の淳煕臧否に対する批判的な見解は、『朱文公文集』巻二一に載せられている淳煕九年三月三日の日付朱熹の「論臧否所部守臣状」に綴られている。
前章で述べたように、淳煕八年分の臧否が未だに提出されていないことから、改めて一月一三日、三省が聖旨を奉じて、この指揮を遵守して即日に聞奏すべき命令が下った【606-25】。ところがこれに対して、朱熹は、三月三日には次のように上奏し、臧否の実行を拒否する。
照対するに、私は去年一二月六日に[浙東路提挙常平に]着任したばかりで、本路諸州の守臣の去年の臧否を見きれておらず、また加えて、近ごろ衢州の守臣、李タクを按劾したのに朝廷には[黜降を]施行してもらえなかった。私は全く人材が軽薄であり、信用もできない者であるから、どうしてこの上人物の臧否を評価することなどできましょうか【561】。
つまり、着任して時間的に十分な間もなく、また自分は他人を評価する器ではないとして、臧否の上奏を固辞してしまう。監司であるからと言って、通常の任に当たる部下の地方官ひとりひとりを評価するのは僭越である、というのが朱熹の言い分である。 しかし、注目せねばならぬことは、李タクの弾劾を含め、彼が活発に弾劾活動を行っている事実である。事実彼は浙東提挙に就任してのち、この知衢州の李タク以外にも、盛んに部下の弾劾を行っている。衢州守臣李タクなどを次から次へと弾劾した朱熹の上奏は『朱文公文集』巻一六〜一九に残されているが、これらは個々人の不正についての記述が主眼となる朝廷への上奏で、「弾劾文」「弾文」と称すべきもある。しかしそれ以外にも、地方の実情や荒政の提案を述べた上奏文の中で、地方官の不正を指摘する場合があり、これも弾劾の効果を持ったであろうことは言うに及ばぬ。また数はずっと減るが、これとは逆に地方官の善政を指摘する文章もある。これらの文章を含め、朱熹は地方官時代中、地方政治の実務に拘わる提案を積極的に次から次へと打ち出しており、具体性・詳細な知南康軍や浙東提挙であった時の上奏文は、我々に社経史の史料としても一級の情報を提供してくれていることは言うに及ばない。特に彼は極めて熱心に現地視察を行い、浙東提挙時代、常平司の治所のある紹興府【562】から府下の[山乗]県、諸曁県を経、ブ州へ入っては浦江から義烏、金華、武義の諸県を歴り、蘭渓県より衢州へ至り、竜遊、西安、常山、開化、江山の諸県を巡回していったん紹興府に戻り、次には[山乗]県から台州へと足を運ぶ【562-5】。その過程で、現地の地方政治が抱える問題を次々と上奏し、その中には誰某は良くやっている、誰某は不正を行っている、という記述が必然的に見いだされる。彼が臧否制度に対して否定的な態度を取った反面、積極的に行っていた人事評価とは、このような実地に検した地方政治の上奏であり、かれにしてみれば、時間的にもこれで監司としては精一杯であったという印象を与えられる。確かに彼は、同路内の処州や温州については、十分な現地での情報収集に及んでいないが、これは短い任期の内では致し方のないことである。
朱熹の行動を振り返って見るとき、彼が幾つかのことに執拗なまでの義務感と拒否感を示している。彼が徹底して行ったのは、地方政治についての上奏であり、そこには弾劾が含まれる。
(2) 蔡戡による評価
これに対して、積極派は、どのような論拠からこの臧否を推進しようとしたのであろうか。実はこれについては実はあまり十分に資料が残されていないし、秦桧没後、そもそも直接地方官一人ひとりの資質を把握しようとする孝宗自身の発案によって開始されたものであったためか−−この点が幼い万暦帝を補佐した張居正の考成法との違いであるが−−、積極派に対する消極派の表立った批判が存在するのでもない。しかしすべての官僚が朱熹のように臧否制度に消極的であったわけではない。対照的に、実際に行った臧否の文章や、制度上の問題点を挙げつつ改善策を提案し、朝廷の命令に従って部下の臧否を定めた上奏文も残されている。蔡戡なる人物の文集『定斎集』に残された「臧否守臣奏状」がそれである。
蔡戡について我々が知り得る所は、残念ながらそう多くはない。『定斎集』や、『宋元学案補遺』巻五(−三九下)その他の記事によると、彼は乾道二年の進士、乾道八年には呂祖謙・唐仲友らとならんで秘書省正字として牒試に当たり、淳煕には広東運判、湖南提刑、淮西総領、紹煕(?)には司農卿兼知臨安府となって韓タク冑の時代に引退している。学術的には浙東学派とされていて、『定斎集』に残された奏議には、用兵・財政など、朝廷が抱えていた目前の諸問題に対する議論が多く、特に送迎費などの額をも記すかなり現実的な路財政についての記述は、財政史料としても他に得難い。その彼が、地方官人事について残した記録として、二つの「臧否守臣奏状」、そして臧否制度を論じた「論臧否状」がある。いずれも『定斎集』巻二に載せられている。蔡戡は淳煕七年分、八年分と忠実に臧否の上奏文をしたためたが、これはむしろ例外であり、殆どの監司帥臣は朱熹と同様、臧否の上奏を行わなかった。
まず、蔡戡の臧否制度に対する見方が最も端的に現れている、「論臧否状」を見てみよう。彼は信賞必罰に実を上げた前漢の宣帝を、『漢書』「徇吏」を引きつつ称揚したのち、以下のように言う。
おもうに、陛下は政治に励み、はるか漢の宣帝にまさる。名と実を賞罰に際しても、もっとも留意しているのは天下の官吏である。・・・・しかし未だ一人として、政治が抜群でキョウ黄の如くであると書すべき者がいたとは聞いていない。そこで私は、これを「名実未だ綜核を尽さざれば、賞罰未だ信必を尽さず」と見る。故に百官は、未だその職分を尽くしていないのである。今、朝廷は守令の優劣を知ろうとして監司にその臧否を定め、報告させている。これは甚だ盛典である【562-6】。
と言う。
これだけの記述から導き出せる「積極派」の理論はそう多いものではないが、制度改革(臧否制度の実施)によって、当面の諸問題を解決し、帝国を維持しようとする彼の議論は、浙東学派の面貌を躍如たらしめている。この「名実未だ綜核を尽さざれば、賞罰未だ信必を尽さず」とは、前漢の宣帝が、臣下の人事について「信賞必罰、綜核名実」を行っていたことに対比させ蔡戡が他にもしばしば用いた言い方で、「官吏の名実が未だすべて明らかにされておらず、信賞必罰が実現されていない」現状を意味する【606-5】。これは一言で言えば、皇帝が法制と信賞必罰を通じて百官を把握する、ということであり、法制上の位置が明確でなく、幅広く、自由に行われる弾劾とは、逆のものであると言い得よう。「盛典なり」とは、かかる法制が完備している状態を称えた表現である。
宣帝を引合いに出しつつ蔡戡が評価する臧否制度とは、陛下の耳目たる監司に守令を臧否させるという、完全に官僚制の階層制に則った形での、「天下の吏」の把握である。中央−監司−守令の官僚制のヒエラルキーへの信頼がその前提となっている。 この二つの「臧否守臣奏状」はそれぞれ、彼が広東転運判官であった淳煕六年、および湖南提刑であった淳煕八年分の部下の守臣についての臧否であり、そこには一人一人の治状が手短に記され、評価されている。このうち、ここでは前者を中心に見て行くが、その冒頭に概略次のように述べる。
前職の同路の提挙常平茶塩公事として、南雄州の州境にて職務を引き継いで入境して以来〔足掛〕二年この方、民間の利害得失や守臣・知県の臧否を調べた結果、一、二を粗知した。この度の指揮[臧否奏上の尚書省指揮を指す]に従うが、この間に聞いた事にも、なお未だに確かめていないものがあるので、私に軽々しく信を置いてしまってはいけない。[本年]九月には、自ら肇慶府、徳慶府、封州などを巡り、士・民に話をきいて来た。これまで聞いた事を参酌し、後に述べる【606-55】。
と前置きし各府州への俸給の支給状態について述べた後、今回臧否を奏上すべき守臣について述べられる。すなわち、広東に、肇慶・徳慶・英徳の三府と、潮、梅、循、恵、南雄、韶、広、連、新、南恩、封の一一の州があるが、このうち、監司が臧否を定めるのは、安撫使の担当となる広州を除く一三府州である【301】。しかし英、連、封、新の四州は当時守臣が欠員となっており、残る九つの府州が広東運判である蔡戡の評価の対象となる、という。そして以下、一葉半にわたって、この九人の守臣について一人ひとり評価が行われる。その概略は別表の通りである。
「論臧否所部守臣状」を提出して臧否の命令を拒否した朱熹の主張と比較するとき、ここには臧否を忠実に実行した場合に生ずる幾つかの問題点が浮彫りにされており、興味深い。これらを整理して考えてみると、まず第一に指摘できることは、一路の守臣全員の臧否を考察するのがこの制度の主眼であるにもかかわらず、現実には到任後の時間が短く評価が不可能であったり、欠員であったりして、十四人中七人つまり丁度半分が対象に含まれない。これは蔡戡が湖南提挙(?)時に残したもう一つの「臧否守臣状」においても、九州中、監司が臧否を行うのは、帥臣の潭州、守臣が朝廷の罷黜に遇い新任がまだ到任しない衡・道二州を除いた【305】六州である。遠方の州県官に欠員が少なくなかった当時の実情の中では、評価対象の地方官自体が不在のことが多々あった。特にこの衡・道州のごとく、朝廷の罷黜という、考課・臧否制度と競合する(後述)人事制度が行われたことによってかえって臧否が困難になったのは、孝宗にとって皮肉な結果と言ってよいであろう。また第二が、任期の問題である。先に淳煕九年三月一八日の「守臣の交代も常ならず、監司帥臣の好き嫌いも様々であるから、その言にも正当なもの、不当なものがある。既に離任して臧否に及ばなかった者もあれば、着任したばかりでもう臧否に遇った者もいる」とういう臣僚の言に言及した段でも述べたが、当時、守臣の任期は極めて短く、「着任後日が浅く、評価できない」という事例は決して少なくなかったのである。臧否制度は冗官問題などから任期が短期化して行くという、構造的な問題を孕んだこの伝統的な官僚制に対して、不適合と言える【305-2】。第三にこの制度のもとでは監司が十分に守臣の政治を検討しきれないという点がある。蔡戡が確実にその地を訪れているのは広東では南雄州、肇慶府、徳慶府、封州であり、湖南では不明である。そして臧の最となっているのはむしろ遠く離れた位置にある潮州・恵州の守臣であり、逆に否の最を与えられた陳トウの徳慶府には、彼が実際に足を運んでその悪政を調査している。つまり臧否制度の実行に際して、一部の府州郡については、路という行政単位の管轄範囲と、一年という限られた期間からして、どうしても不十分のまま守臣を評価せざるを得ない。これは本来的に強制されず、不正を発見した時に随時行われる弾劾とは、対照的である。そして最後に、弾劾文と臧否文の表現の差異にも着目したい。先に挙げた蔡戡の淳煕七年分の臧否上奏の文章の冒頭に見られる「いまだ確認が取れないものもあるので、この臧否についての過信してほしくない」という調子の自信のなさは、弾劾文にはたえて見られないものである。蔡戡自身が記した弾劾文が残されておらず、比較できないのが残念であるが、朱熹の弾劾文などは、衢州の李@に対する弾劾も受け入れられなかったのに、自分は他人の臧否を調べる器ではない、とした「論臧否所部守臣状」とは対照的に、実に確信に満ちた、激烈とも言うべき調子である。朱熹は、著名な一連の唐仲友に対する弾劾を
私のような賤しい者でも、誤って御恩を蒙り、一路の「耳目の寄」[監司]となったからは、敢えて緘黙せず、使職としての任を負う【306】
と始め、唐仲友を罷黜せねばならぬことを繰り返し説き、
病上がりで精力が回復していないにもかかわらず、奔走して骨を折り、[唐仲友の罪状の実地調査のため]束の間の休息も取らなかったのは、誠に陛下の知遇の深さによるのであり、それに万分の一なりとも報いようと考えたからである【307】。
など、実地での調査と弾劾に万全を尽くしたことを強調している。
また、蔡戡のそれぞれの守臣に対する寸評を見てまず第一に指摘できることは、これらが専ら地方政治についての評価であるということである。なかには知雄州韋千能のように「賦性狷急、不能容物」云々とその人格に対する評価がないではないが、他はほぼすべて現地での具体的な政情に関することであり、これは個人の人物評価を言った南北朝時代の「臧否」の用法とは隔世の感があり、完全に地方監察の一部となったことを示すものである。そしてこの蔡戡の臧否状から見る限り、臧否の主眼は決して財政のみにあったのでい。過剰な税負担の軽減・雑税の廃止(潮州、恵州、肇慶府、南恩州など)、胥吏の下郷の禁止(潮州)、用刑の苛酷さ(循州)、地方社会での評価(徳慶府)など、治安を含めた地方政治全般にあったと見なければならない。特に「愛民」「愛民之心」という語をしばしば用いられて(恵州、循州、湖南での「臧否守臣奏状」中の興国軍)、守臣評価の基準としているのは、任地の民衆全般との関係を重視する所以であろう。これは張居正の考成法が地方財政の把握を主眼としていたとされるのとは対照的であり、また朱熹の唐仲友弾劾や「黜降官」に幅広く見られるように、守臣の弾劾が、多く現地での不正によっていたのとは共通である。唐以前の状況は史料不足で十分には知り得ないが、かかる守臣に対する人事評価基準の傾向は南宋の史料一般に見られる特色の一つと言ってよいであろう。
なお、蔡戡と朱熹の内容の対立を、浙東学派の政治思想と、朱熹の政治思想の差異に重ねて理解することも可能かもしれない。しかしいわゆる浙東学派の論客である葉適は、地方官に対する管理強化による財政確保には必ずしも肯定的ではないし【307-02】、また逆に、朱熹を宗とする真徳秀が理宗の時代ではあるが、臧否実施に肯定的な意見を述べているところから【307-03】、一概に臧否に対して肯定的か否かが浙東学派と朱子学派の間の差異であるということは不可能である。また、南宋中期の主要な政治対立と認められる道学をめぐる政争も、活発化したのはむしろ淳煕臧否の後の寧宗の時代である。淳煕臧否に対しては、当時、それぞれの政治家が個別に対応したと言ってよい。
おわりにかえて
臧否と弾劾
本稿で得られた結論とはまことに些細なもので、南宋には考課方式の人事評価制度は実施が難しく、朱熹らが主張した弾劾・薦挙といった非形式的な方法に頼るしかなかったということである。宋代とくに南宋の人事制度では、期限や定員などに拘束されぬ、非形式的な面が強かったことは指摘せざるを得ない。
そして、ここで忘れてならないのは、この時期には決して王朝が秩序維持の機能を失って、各地方の分権化に進むという傾向は見られなかったという事実である。官僚制における形式性は、かならずしも「中央集権的」な、つまり皇帝を中心とする伝統的な中華帝国の一体性維持の要件ではない。この非形式的な人事評価の方法にたよりつつ、王朝の体制の秩序、延いては伝統的な中央地方関係たる大一統を保つ上で最終的に重要になるのが、地方官一人ひとりの個人的な態度・資質である。弾劾に熱心な朱熹の興味がこの内面的な部分に向けられていたことは、改めて指摘するまでもない。南宋以降の地方官制を支えていた広義での「制度」は、法典に記された官僚制度の体系から、より理念、道徳など、思想的な分野に比重を移して行ったものと思われる。 臧否が中央の朝廷による強制的・定期的な制度であったのに対し、弾劾は、全くの任意で、目に余る官僚を見つけた時にだけ、行えば良い。しかも、形式も厳格ではなく、政治一般についての議論の中で特定の人物の行為に話題が及ぶといったものから、まさに「按唐仲友状」など、弾文(弾劾文)の形をとる上奏文もある。さらに、伝統的にはこうした弾劾や政治議論は、御史・諌官などそれを専門に行う官のみならず、より広い範囲の人々に期待された行為であった。たとえば、宋代で言事に関して
言われた もかかわらず、彼らのみに許された行為ではなく、一般の臣下、さらに草莽の匹夫に至るまでに許された権利であり、義務であった。これは南宋でも同じであり、『両朝聖政』には留正の言として巻五一
乾道八年二月丙辰には
臣留正等曰く、古えは、およそ臣子たるもの、みな以て言事するを得。孟子、[虫抵]の士師となるを責め、數月にして未だ士師刑官を言わざるなり、と。【307-]
としている。この弾劾を含めた政治についての議論、さらに別の言い方をすれば「言路の開広」(オープンな言論)は、少なくとも建前上は、歓迎された行為だったのである【5】。
とすれば、この臧否を巡って二つの方向に意見が別れた背景には、どのような理由が考えられるだろうか。淳煕年間に、人事制度を、定期的・義務的な臧否という方法によって行うか、非形式的かつ「およそ臣子たるもの、みな以て言事するを得」の伝統を持つ、弾劾や薦挙という方法によって行うか、意見を分けた要因は何だったのだろうか。
一つの考え方は、中央の地方に対する締付けと、地方の自律的な秩序維持の動きの間の対立、つまり地方中央間の綱引きが存在したとするものである。こう考え得る根拠は二つある。まず第一に、臧否に抵抗した朱熹が、近年指摘されているような、より地域社会の秩序に関心を示すようになった南宋士大夫の代表的存在ということである。朱熹やその弟子たちは、王朝の制度を多く論じた葉適などとは対照的に、義荘、社倉、書院など、地域の利益を志向する分野−公共的な領域−に対しより多く関心を注いでおり、これは人口増大に対応する「行政の地方化」と一致する動きと考えられている【6】。この動向が、中央の臧否の指令に抵抗し、実地調査に基づいて執拗とも言える弾劾文を中央に送り続けた朱熹などの消極派の行動を動機づけていたと予測することは、可能であろう。また、第二に、臧否制度のように朝廷が全国画一的な勤務評定制度を実施しようとし、反対勢力が地方からの非形式的な制度運営を主張してこれと対立する、という図式は、明末にも存在するという事実である【7】。張居正の考成法を、東林党は「言路の開広」を主張して批判した。張居正の考成法の第一の眼目が財政管理にあったとされ、後述のように南宋の臧否が治安・地方官個人の資質なども含めたより総合的な判断基準をもっていた点は明末とは明確に異なるが【8】、時として人事制度に、中華帝国の中央−地方の対立が噴出すると言うこともできよう。中央による人事考課と、地方の輿論を反映する弾劾・言事の対立を軸として取れば、淳煕の孝宗の臧否を万暦の張居正考成法になぞらえることは、さほど難しくないように思える。
しかし、この中央−地方の枠組みだけでは、必ずしも捉え切れない面もある。例えば、ひとくちに「言路の開広」といっても、運用次第で、必ずしも地方分権的なものとなるとは限らない。また明および清初の、一君万民的な体制教学の基礎を提供した朱熹自信が、臧否施行の消極派に回り、むしろ弾劾活動に積極性を示している。本稿では思想史的分野に立ち入る余裕がなく、この問題を十分に論じることはできないが、最後にもう一度この点に立ち返ってみる予定である。
注
【1】長吏は原文では百納本、殿本ともに長史。後漢書六七党錮列伝五七(2204)「漢官儀曰、三公聽採長史臧否、人所疾苦、還條奏之、是爲舉謠言也、頃者、舉謠言、掾屬・令史都會殿上、主者大言、州郡行状云何、善者同聲稱之、不善者黙爾銜枚」。しかし、後漢書六〇下蔡[巛邑]伝五〇下の李賢注には「漢官儀曰、三公聽採長史臧否、人所疾苦、條奏之、是爲舉謠言者也」と長史を長吏に作る。党錮列伝から、これが地方の治状を調べるためのものであることが明らかで、さらに同二四百官一の李注には漢官儀の編者応邵の言として「毎歳、州郡聽採長吏臧否、民所疾苦・・・、主者大言、某州郡行状云何」云々と三公ではなく州郡が長吏の臧否を聴採するという記事もある。とすれば、三公の属官である長史とする党錮列伝に従うよりも、県の長吏の臧否を聴採することによって地方政治の状態を判断しようとしていたと考えるべきであろう。
【2】たとえば正史をざっとみても、人物の臧否を好んだという挿話は魏晋南北朝時代に集中して見える。この時期の事例として以下の八名を挙げることができる。 ◎「幼くして孝行あり、少[レイ厂萬]清節」であったが、人物を臧否するを好んだ魏末の劉毅(『晋書』巻四五劉毅伝)。 ◎ともに豪侠にして酒に耽り、人物を臧否するを好んだ西晋の裴[テヘンに邑]・裴[殼の左が士ワ一王]兄弟。兄弟は裴憲の二子。(『晋書』三五裴秀伝付裴憲伝」)。 ◎南朝宋の人、謝曜。人の短所を口にしなかった弟の謝弘微とは対照的に、人物を臧否するを好む(『宋書』五八謝弘微伝、『南史』二〇同伝)。 ◎南朝宋の人、謝霊運。人物を臧否するを好んだ(『宋書』五六謝瞻伝、『南史』一九同伝)。 ◎南朝宋〜斉の丘霊鞠。飲酒および人物を臧否するを好んだ(『南斉書』五二丘霊鞠伝、南史七二同伝)。 ◎元嘉二八年から三〇年仕官した虞[王元]之。「人物に於て臧否するを好む」(『南斉書』三四虞[王元]之伝,『南史』四七同伝)。
◎北斉の盧詢祖。人物を臧否するを好む(『北斉書』巻二二、盧文偉伝付盧詢祖伝、『北史』巻三〇盧觀伝付盧詢祖伝)。 ◎北斉・北周の交の宋孝王。容貌は醜かったが人物の臧否を好む(『北史』巻二六宋隠伝、『北斉書』巻四六循吏伝)。劉毅や謝曜、宋孝王の事例から見る限り、人物を臧否することは、清節さや人の短所を言わない態度、容貌の醜さとは多少対立的な、ある意味で僭越な行為とも窺える。これは後出の朱熹の臧否に対する姿勢とも共通する。
【3】(開皇一三年)「五月癸亥、詔人間有撰集國史、臧否人物者、皆令禁絶」(『隋書』巻三八「帝紀
第二高祖下」、『北史』巻一一「隋本紀」同)。
【4】明末には陳潛夫(明史7104、崇禎9年挙)、李三才(明史6064、講学東林、好臧否人物)などの例もあるが、「人物を臧否するを好む」ことが肯定的に語られる事例は、ほぼ消滅する。
【5】宋朝における臧否は、本稿で扱う、監司帥臣が守臣を評価する孝宗朝の淳煕臧否のほかに、寧宗慶元年間に提案された監司帥臣が知県を評価する慶元臧否がある。李心伝によれば後者は張君量が広西帥臣であったとき実施を請い慶元二年六月に受け入れられたもので、その内容は守臣に対する淳煕臧否とほぼ同内容の評価方法を知県にたいして行うものだが、結局これによって黜陟が行われることはなく、翌年には張君量自身が台諌官となったために監司による監察を推進する立場ではなくなり、沙汰止みになったという。李心伝『建炎以来朝野雑記』(以下『雑記』)甲集巻六「慶元臧否県令」に記事がある(「慶元中、張君量帥広西、請令監司帥守各於歳終以所部縣令、分臧否上中下三等、合平而爲士、次春上奏、頒之考功、・・・」)。現実にはまったく行われなかったばかりか、その後の諸史料もこれについて述べるものは皆無に等しく、本稿でも臧否制度といえば淳煕の守臣臧否を指すこととする。趙升『朝野類要』は宋の臧否を説明して「臧否
監司歳具所部官美惡奏上、謂之臧否。奏若某員、功過倶無者不具」という(巻四)。
【6】J.W.Chaffee.“The historian as
critic : Li Hsin-ch'uan and the dilemmas of statecraft in Southern Sung
China." in R.P.Hymes and C.Schirokauer eds., Ordering the world :
approaches to state and society in Sung Dynasty China. University of
California Press, 1993. p.323.
【7】「敕具官某等。周以歳會攷四國、漢立殿最郡縣。我孝皇帝設臧否攷察郡守事實、皆良法也」(『鶴林集』巻七「李イ{火偏に偉の右}特授朝請大夫、周文虎特授朝請郎制」)。呉泳は理宗朝の人。李イも周文虎も、四川の税減免に功があった。
【71】一部の社会学者や経済学者の間で、「制度が重要である institutions matter」と言われて久しい。この「制度」の意味に対する問いかけは、中国前近代でも、例えば身分法、思想史、市場経済論を扱う一部の研究者の意識の底流に存在し続けてきたと思われるし、中国社会論で注目されている秩序問題もやはり制度論と密接にかかわる。しかし、中国王朝史で制度というとき、思想、慣習やモラルなどを含まないという点において、例えば経済学で使われる「制度」とは意味が違う。本稿でも制度と言えば法典に記された規範や詔勅などであり、思想などは含まないが、敢えてより広い意味において制度に言及するときはカギカッコを付す。なお、南宋期の官僚制を扱う本稿とは直接には関係しないけれども、拙稿「ポスト・ワルラスからのアプローチ−−要素賦存・労働力配分・時代区分論−−」『宋代の規範と習俗(宋代史研究会研究報告第五集)』(汲古書院、一九九五)は、経済学の制度論と中国経済史の制度変革の接点を整理しようと試みたものである。
【8】「監司帥臣臧否所部、深得考功課吏之意」(『皇宋中興両朝聖政』(以下『両朝聖政』)巻五九淳煕九年三月戊子)。
【9】「雍煕間、上嘗閲班簿、故擇用人而患不遍知群下之材、始詔徳驤以群臣功過之跡、引與倶對。・・・・」(『元豊類稿』巻四九「考課」)
【10】「初知諌院陳昇之言。生民休戚、繋郡縣政之得失。今天下州三百、縣千二百、其治否、朝廷固不得周知、必付十八路轉運使。而預選者、自三司副使省府判官提點刑獄或以資序或以薦引、才不才因以混淆、一旦付以一道按察之寄、雖知其不勝任、必重退之」(『宋会要』職官五九−七嘉祐二年七月)。
【11】考課、磨勘についてはトウ小南「北宋文官磨勘制度初探」『歴史研究』一九八六−六、梅原前掲書二九〜三一頁などすでに多くの研究がある。
【12】 梅原前掲書二六頁、トウ小南「北宋文官磨勘制度初探」『歴史研究』一九八六−六、
【13】トウ小南前掲書。
【14】「守令以成郡縣之治、立四善四最、以爲考課之法。毎守令替移、令諸監司參考其任内課績、以定優上・中・下之等。優上者有賞、其下者有罰。然爲監司者、或歸於親故、或狃貴勢。而甚者至於以貪爲廉、以暴爲良、既上・下之等不實則賞罰遂至於失當。其爲負陛下耳目之奇、孰甚焉。欲乞毎歳將諸路監司所定守令考課等第、令御史臺重行審察、如有不當重加黜責、不以赦原、庶幾考課得實、人有勸懲、上以稱陛下勵精求治之意」(『宋会要』職官五九:一三大観一年八月二八日)ここで注目せねばならぬことは、地方官考課を実行する担保として、中央の御史台がこれを監視させている点である。
【15】転運の胥吏に賄賂が横行し、北宋末の臣僚上言に、「今、 選官之在吏部者、以尚書侍郎典之、別無他職。而八路則委運司。所謂使副判官者、以軍儲吏禄、供績支移、爲已責、而以差除爲末、務乃付僉廳。所謂主管文字者、又以勾稽簿書點檢行移之冗、爲先。而不暇究於差注、乃付士案之。胥吏比年以來、賄賂公行、以選爲貨。視闕之得否、惟[貝求]之多少」(『宋会要』職官五九−一六政和八年四月五日)。
【16】【10】【14】【15】参照。唐においても、同じ現象が見られるが、それについては【51】。
【17】 【13】ではこれを北宋仁宗朝の「慶暦・皇祐中」のこととして伝え、考課の「制度がいつから廃れてしまったのかは分からない」と述べている。北宋もこの時期には冗官問題が深刻になり、その後宋代を通じて官僚人事制度の様々な問題が始まったから、考課の形骸化も州県においてはあるいはこのころ深刻化したのかもしれない。
(「宋名臣奏議」巻七二「上哲宗乞行考課監司郡守之法」)という所からすれば、監司に対する考課はそれよりもなお続けられ、哲宗の頃には乱れていたようだ。
【18】「殿中侍御使周秘言。國家以十五事考校監司、以四善四最法校守令。保奏有違限不實者、有罪。而五六年間、惟成都潼川路一嘗奏到、其餘諸路課績並不申奏。法令廢弛能否無辨。欲望特命有司儉其考課條令申、嚴行下責諸路監司州縣、自命□限保明。其累年輒不申奏者、亦乞取間因依仍乞自今從朝廷審度歳取殿最各一、二人、重行賞罰。詔令吏部嚴行下諸路常切遵守、如違仰御史臺糾劾以聞、餘依奏」(『要録』卷一〇〇紹興六年四月庚子、『宋会要』職官五九−一九
同月三日)。
【19】前注参照。
【20】「高宗以公天下之心、擇太祖之後而立之、乃得孝宗之賢。聰明英毅、卓然爲南都諸帝之稱首。可謂難矣哉」(『宋史』巻三五孝宗紀)。「公天下之心」については『文献通考』巻二六〇「封建考一」の「先公曰」参照。
【21】 一一六〇年代一一七〇年代は水利の改修も広く行われ、揚子江下流域での開墾の隆盛もみられた(斯波義信『宋代江南経済史の研究』八五頁)。これには、臨安が行在として確定し、諸制度の再建が進んだことがあげられるが、とくに孝宗即位は金の世宗即位と時をほぼ同じくし、金の海陵王による積極的な南進が止み、両国は内治に専念する方向にむかった。また、反秦桧派の人事をもたらす、太祖七世の孫孝宗が位についたことで、秦桧の密室政治の影響が払拭されたことも、制度の運用にプラスの働きをしたであろう(寺地遵『南宋初期政治史研究』四二六〜四八三頁)。
【22】 梅原前掲書二〇九頁。
【23】「孝宗初、詔内外有專法、辟闕並仍舊」(『宋史』巻一六〇「保任」)
【24】「今日涜亂朝綱、滋長吏蠧、莫甚於此。祖宗朝、雖六院亦隷銓選、今者縱未能遠跡前憲。亦近攷孝廟朝、凡不繋堂除差遣、皆令銓曹、依條注授、妙選天官長貳使率、其屬以綜核人才、不惟可以息奔競之風、塞僥倖之路」(杜範『杜清獻集』卷五「軍器監丞輪對第一剳」(端平二年秋))。
【25】 梅原前掲書五一頁
【26】拙稿「南宋の羨余と地方財政」『東洋学報』七三−三・四(一九九二)にも引用したが、趙翼『廿二史箚記』巻二四「宋初厳懲贓吏」は、乾道淳煕間には、賄賂・苞苴(羨余に類似した進納)を恥としたとする真徳秀の言を紹介する。朱子学者真徳秀の評価に限らず、朱熹が活躍した孝宗時代を高く評価する傾向は否めない。
【27】『雑記』甲集巻五「淳煕慶壽禮」,李昴『文溪集』卷一〇「請諡李韶方大[王宗]」参照。
【28】 方大[王崇]『鐵菴集』卷一九「本軍張守」。その他本稿では総括しきれないが、『雑記』甲集巻五、乙集巻三、一四、一五には、科挙制度や官制の改革、福建経界法の実施など、孝宗朝での施策が数々載せられている。
【29】『歴代名臣奏議』の中でも地方官人事関係の記事の大半が含まれる「治道」の中で、南宋各皇帝に割かれた巻数と、彼らの在位年数を比べてみると、次のようである。
廟号 合計巻数 高宗(在位約三五年間) 約四 孝宗(在位約二七年間) 七 光宗(在位約五年間) 二 寧宗(在位約二九年間) 三 理宗(在位約三九年間) 四【30】
高宗朝には長い時期秦桧の当国が続き、またこれ以降は、韓☆胄・史彌遠・賈似道と、南宋末まで間断無く権臣の時代が続いた。また元の朱子学者方回も「慶元・嘉泰・開禧、一權臣也。非趙忠定公[趙汝愚]朱文公[朱熹]之徒鮮不屈而媚韓[☆胄]。嘉定・寳慶・紹定、一權臣也。非真文忠公[眞徳秀]魏文靖公[魏了翁]之徒不屈而媚史[彌遠]。端平・嘉煕・淳祐、迭相不一微革前弊」(『洞江續集』卷三二「送葉亦愚序」)と、たえまない南宋権臣の弊をあげつらう。慶元の朱子学者弾圧を批判する立場であろう。
【31】徐誼が太常丞に上った孝宗朝末期には「孝宗臨御久。事皆上决、執政惟奉旨而行、羣下多恐懼顧望」(『宋史』卷三九七「徐誼」伝)と、孝宗朝の主導権が皇帝に握られていたことを脱脱は伝える。
【32】高宗朝には長い時期秦桧の当国が続き、またこれ以降は、韓☆胄・史彌遠・賈似道と、南宋末まで間断無く権臣の時代が続いた。宮崎市定「南宋政治史概説」『アジア史研究』第二に詳しい。寺地氏によれば孝宗擁立には秦桧の体制(「紹興一二年体制」)からの脱却を意図する高宗の意志が働いたという(『南宋初期政治史研究』四三二頁)。筆者なりに南宋史料を見る限りでも、壮年三五にして帝位についた孝宗のもとで権臣が勢力を振るった状況はないようであるから、孝宗朝にはひさしぶりに朝廷の主導権が皇帝に戻ったようである。『宋史』卷三九七「徐誼」伝の「孝宗臨御久。事皆上决、執政惟奉旨而行、羣下多恐懼顧望」という記事も、主導権が皇帝に握られていたことを伝える。
【33】『定宇集』巻七「問呂成公博義朱子不以爲然」
【34】「問:『或言、孝宗於内殿置屏風、書天下監司帥臣郡守姓名、作掲貼於其上。果否?』
曰:『有之。孝宗是其次第英武。・・・・・』」(『朱子語類』巻一二七「孝宗朝」)。
このことはまた『皇宋中興兩朝聖政目録』官職門「監司郡守」にも見えるが、『兩朝聖政』本文の方はもともと乾道部分を欠いており、この記事は今日見られない。
【35】Chaffee氏前掲論
【35】『建炎以來朝野雜記』卷五「淳煕臧否郡守」。以下、本節において『雑記』とのみ記してあるのは、すべて同所からである。
【36】高・孝宗時期のことを編年体で伝えるこの史料の由来については撰者を含め不明な点が多い。孝宗自身の◇◇が付せられていたとも伝えられるが、ただ、その記事内容は、『雑記』や『宋会要』とかなり重なる部分が多く、成立年は不明である。
【37】前掲【6】論文で、チャフィー氏は、『雑記』甲集に代表されるある時期までの李心伝の作品では、李心伝は道学を、今日的な問題に対する解決策と考えていたと指摘する。そして臧否を含む地方官人事制度がかなり批判的に書かれている点を重視するが、確かに孝宗末年から寧宗時代にかけての政治対立の基本軸であった道学とその反対者という構図は、この部分の記述には見られない。なおチ氏は臧否を
tsang-fou と音写するが誤りで、 tsang-pi が正しい。「否」は「〜にあらず」(fou)ではなく「善くない」(pi)の意、現代中国語でも臧否は
tsang-pi と読まれる。否の音は「鄙」、意味は「不善」なりとは北宋末の王観国の言である(『学林』巻一「臧否」)。
【38】「要在精擇部使者而以臺諌考察之庶乎可也(上語在十五年七月丙午、事具宣諭聖語)」(『雑記』)。このことは『宋史』巻◎◎選挙志「考課」にも見える。
【39】「孝宗留意治民。紹興三十二年十一月丙申、首詔。諸路帥臣監司、毎日悉具部内知州治行臧否、連銜聞奏」(『雑記』)。『宋会要』職官四五−二三にはより詳しく、『雑記』では同年一一月丙申とするが、『要録』『宋史』孝宗紀の該月にはこの記事はない。『宋史』三三孝宗紀には、『雑記』に記す一一月丙申の三〇日後に当たる一二月丙寅のこととして「詔、帥臣監司、具部内知州治行臧否、以聞」とある。また『宋会要』職官四五−二三も、丙寅とする。『雑記』は恐らく一二月を一一月と誤り、三二年一一月に丙寅がないところから丙申としたのであろう。あるいは、これ以降の監司帥臣への臧否の命令がいずれも月初め、しかも三日の日に出されていることも、一一月の三日ころにあたる(☆☆☆☆☆☆)丙申とした理由かも知れぬ。『雑記』はまた、「諸路の帥臣・監司、毎日悉く部内知州の治行の臧否を具し・・・」とするが、毎日は会要の両月に従う。北宋に定められた所では、監司の部内守臣に対する課績は毎歳末であった(『長編』卷一七葉二〇開宝九年一一月庚午、第1章第1節「◇宋考課制度の特色とそのゆきづまり」参照)
【560-22】「詔、諸路監司・帥臣。歳終、各以所部郡守分三等、治効顕著者為臧、貪刻庸謬者為否、無功無過者為平。詳加考察、具名来上。内、臧否各著事実、如考察不公、令御史台弾劾」(『両朝聖政』五九。『雑記』および『宋史』巻三五「孝宗紀」にも略述。三者いずれも淳煕八年閏三月辛巳とする)。
【560-21】『定齋集』卷二「臧否守臣奏状」に「行在尚書吏部符淳煕八年閏三月五日三省同奉聖旨」云々としてこの内容を引き、それにしたがって臧否を行っている。【560-23】「頃詔『監司・帥臣臧否所部、歳終以聞』。然郡守更易不常、監司・帥臣好惡不一、則言有當不當、有已去而不及臧否者、有近到而已遇臧否者。或取辧事而不言其害民、或喜其彌縫而不言其疎謬、或畏其彊有力而不議、或以其疎遠無援而見斥」(『宋会要』職官四五−三二、淳煕九年三月一八日)。
【560-24】重要なので引用すると、(不必臧否之)。「挙劾」という語は、弾劾のみを意味する用法と、推薦と弾劾の双方意味するのと二通りある。例えば『慶元條法事類』卷二九所載の衛禁勅申明に、州県并びに
場官が違戻した場合、帥漕司に挙劾し、朝廷に申奏せしめ、重行停降すべきとしているのは前者の例であるがこれは例外的で、普通は薦挙および弾劾を意味する。
【560-25】『雑記』はこれを淳煕一二年一〇月癸亥とするが、『宋史』三五孝宗紀も同日条に「詔諸路臧否以三月終、四川二広以五月終来上」とあって『雑記』の記事を裏付ける。
【560-255】諸帥臣(原文は帥已に作る)監司、歳終、各以所部知州、不以去替(初到任人非)、總計一分ママ歳人數、分爲三等、考察。治效願著者爲臧、貪刻庸謬者爲否、無功無過者爲平(臧否仍著事實)。川廣限次年五月以前、餘路限三月以前、聞奏。如徇情不實、御史臺彈奏(『慶元條法事類』卷五「考課」)
【603】「時青神蒲杲代還入見。上問之。杲曰『臣得る罪於監司、不得罪を於いて百姓』。翊日上諭輔臣曰『蒲杲誠直、可取』。十三年、潼川路漕臣岳霖、奏知瀘州眉山史皐爲否。皋帥臣也」(『雑記』)、。眉山は成都府路にあり、瀘州は潼川府路の安撫使の所在である。この事件についての詳細は不明であるが、眉山県は青神県のある眉州の治所であるから、蒲杲に罪を着せた監司が、知眉州にあった史皋であるとも考えられる。後考に待つ。なお史皋は『宋会要』職官七二:五〇「黜降官」では、一三年五月一六日に高齢などの理由で知瀘州を罷免されている([淳煕一三年五月一六日]「知瀘州史皐放罷。言者論皐年踰七十、筋力弗任、苛刻害民、繆害事、乞並賜罷黜、故有是命」(『宋会要』職官七二−四四。
【603-5】『雑記』
【603-6】宋史選挙志にも見える。
【604】「臧否之令、行之十六年矣。以臧之最而超擢者、誰歟?
以否之最而黜責者、誰歟? 二者皆臣所未聞也。朝廷不過爲虚文・・・・」(『定齋集』卷二「論臧否守令剳子」、また『歴代名臣奏議』巻一八九にも「光宗時、蔡戡上奏曰」として見ゆ)。
【604-5】「・・・・明年[慶元五年]三月甲午、右正言陳自強復以爲言、於是、臧否遂罷」(『雑記』甲集卷六「慶元罷臧否」)。なお『文献通考』巻三九に「光宗初、言者謂、臧否之法、多由請託謬者營救・・・・、願詔各舉所知而罷臧否」とある言者は右正言陳自強ではないかと思われる。
【605】唐の考課法においても同様の問題が見られる(築山治三郎「唐代地方官僚の遷転と考課について」『(京都府立大学学術報告)人文』第一三号(一九六一)。宋の地方官の任期については梅原郁前掲書(注一)二三五頁
【606】後出の蔡戡「臧否守臣奏状」(『定齋集』卷二)では、到官後日が浅いとして論評されていないから、
【606-02】この計画が本格的に始動した淳煕八−九年は、朱熹による唐仲友弾劾が行われ、道学の党争が始まった時期に一致している。またのち、臧否に非協力的であった鄭丙や四川官僚の句昌泰らが降され、かつて蜀士の筆頭であった趙雄がこれを弁護したこと、当初は反道学の勢力がこれに批判的であったことなどを考えあわせれば、少なくとも淳煕一二年ころまでについては、この法が芽生えてきた反道学の党に対する粛正手段であったという推測も成り立ち得る。しかし一三年以降は陳賈が主導権を握るなど反道学の巻き返しも見られる一方、朱熹に対する立場を異にすると思われる林栗や宋若水が同じく轄下の守臣を攻める場合もあり、おそらくは道学の党争や四川官僚への制肘という政治抗争が、相互にこの臧否の法を利用したという見るのが妥当と考えられる。
【606-25】朱熹の「論臧否所部守臣状」冒頭にそうあるが、これは『宋会要』職官四五−三二、九年三月一八日条に「・・・・先是、正月三日、詔諸路監司帥臣、淳煕八年分歳終各合臧否所部守臣、令日下聞奏」とあってこれを裏付ける。【561】『朱文公文集』巻二一「論臧否所部守臣状」
【562】梅原二七一頁【562-5】『朱文公文集』巻◇◇〜◇◇。
【606-5】論臧否郡令箚子の冒頭で、孝宣を称える
【562-6】「・・・・恭惟陛下励精為治、遠邁漢宣。于賞罰名実之際、尤所加意天下之吏。固当たる澡心ジョウ(あらい、サンズイに條)慮、殫知竭力、以承休徳。然未聞有一人治行卓然可書如キョウ[龍共]黄者、以臣観之、「名実未盡綜核、賞罰未尽信必」。故百吏未尽称職也。今朝廷欲知守令優劣、俾監司第其臧否以聞于朝。甚盛典也。・・・・」(『定斎集』巻二「論臧否状」)。
【606-5】
【606-55】「臣前任本路提舉常平茶鹽公事、自淳煕五年十二月二八日于南雄州界首交割職事入境以來、詢究民間利害與夫守令臧否、迄今二年、粗知一二。伏準今降指揮、臣恐其間所聞、夫實不敢輕信。臣于九月内躬親巡歴、至肇慶府・封州等處、訪問士民參酌、向來所聞、
具列于後、・・・・」(『定斎集』巻二「臧否守臣奏状」(第一))。
【301】ここでは安撫使の担当は治所のある広州のみである。次稿で再論するが、監司と帥臣の関係を考えるとき参考になる。
【305】朝廷の罷黜に遇った二人は、知衡州趙彦恂、知道州趙善言であるが、前者は『宋会要』「黜降官」職官七二−三〇によれば、淳煕八年八月二三日、「民に苛取し、魚利を拘カク([木確]、拘は大漢和5-157)し」たことにより、知衡州を放罷となっている。なお趙善言が知道州を罷免されたことについては、この名が誤りでなければ「黜降官」には記載されていないが、これは淳煕九年前後から淳煕一一年半ばまで同記事の採録があまり行われなくなっているので、この「黜降官」採録不十分の期間に行われたとも考えられる。
【305-2】考課型の人事評価制度が、任期の短期化という問題と相いれなかったことは、唐代の考課制度運用についてもそのまま当てはまる(篠山治三郎「唐代地方官僚の遷転と考課について」『京都府立大学学術報告・人文』一三、一九六一)。
【306】「臣竊見、本人[唐仲友]近蒙進擢、而臣蹤跡、方此孤危、較權量力、實犯不[是韋] 。顧以疏賤蒙被誤恩、實當一路耳目之寄、不敢緘黙、以負使令。・・・・・」(『朱文公文集』巻一八「按知台州唐仲友第一状 貼黄」)
【307】「臣猥以疏賤叨被使令、雖衰病之餘、精力不逮、而駈馳勞瘁、不敢頃刻自安者、誠以陛下知遇之深、而思有以仰報萬分也。・・・・・」(『朱文公文集』巻一八「按唐仲友第五状」)
【307-02】葉適は、朱熹とは対照的に王朝全体の財政運営などに積極的に提言したが、必ずしも人事管理を徹底して財政確保を目指したのではない。彼はむしろ南宋の地方財政が上供銭物のノルマに圧迫されていた状況を財政悪化の原因の一つとして憂慮している。葉適の財政論については岡元司氏の近論参照(「葉適の宋代財政観と財政改革案」『史学研究』一九七(一九九二))。
【307-03】真徳秀も「己巳四月上奏箚一」の中で上言した四説の中で、 「比者、固嘗リン{隣のツクリにシンニュウ)}監司之選、重贓吏之罰、而守令貪残之者尚多苞苴餽遣者未{口耳戈}。臣願陛下明詔大臣推行臧否之令、申厳賄賂之禁、庶幾民漠可廖而天変弭也。...」(『西山先生真文忠公文集』巻二)【307-5】「臣留正等曰:古者凡爲臣子皆得以言事。孟子責[虫抵][圭黽]爲士師而未士師刑官也。」
【777】拙稿「ポスト・ワルラスからのアプローチ」『宋代の規範と習俗』(以上五二)
【607】(文集あるいは『歴代名臣奏議』「去邪」などに見られるこうした“弾文”は、宋代においては「按〈某〉」「論〈某〉」とはじまる題の奏状や剳子が多い
【609】『兩朝聖政』卷五一 乾道八年二月丙辰臣留正等曰。古者、凡爲臣子皆得以言事。孟子責虫抵爲士師、數月而未言士師刑官也 ……。
【605-05】梅原郁【605】と同じ内容。
】【610】33−2従来から指摘されている如く、『朝野類要』卷三「外台」に 安撫轉運提刑提舉、實分御史之權。亦似漢繍衣之義而代天子巡狩也。故曰外臺と解説されるこの語は、中央の御史即ち内台に対して、監司を指す呼称としてしばしば用いられる
【613】『建炎以來繋年要録』卷一七〇紹興二五年一二月乙酉、何溥の言(後出)
【614】『宋会要』職官四五:二五「監司」乾道元年正月一八日(後出)
【615】崇寧の監司互察法については沈家本『歴代刑法考』「律令六」に紹介があり、また『慶元條法事類』卷五所引職制勅に「諸監司考課事。應互申而不申、若増減者、各徒二年」
とあって、同所の考課令にはこの「互申」に「謂轉運司事提點刑獄司申之類」との双行説明を付す。その他相互覚察・互相按挙などがあるがここでは省略する。羅文氏も監司の互察の原理について論及されている(前掲論文)
【616】『宋会要』職官五九:七「考課」嘉祐二年七月二一日
【617】『水心別集』卷一四「監司」
【618】『宋会要』職官四五:二五「監司」乾道元年正月一八日
【619】葉適前掲文章については、宮崎市定氏の訳注になる「監司」(『水心文集』卷一四)が『中国政治論集』(……)に収められている。
【620】何溥は翌二六年正月から高宗は反秦桧派の湯鵬舉、 哲らとともに台諌に迎えられた。当時の政治状況については寺地遵「紹興十二年体制の終末と乾道・淳煕体制の形成」『南宋初期政治史研究』渓水社(一九八八)参照。右正言
哲が上饒知県を弾劾したさい、ふたたび監司の監督責任についての議論がなされた(『要録』卷一七四紹興二六年八月丁酉)。
【621】『建炎以來繋年要録』卷一七〇紹興二五年一二月乙酉
【625】朱健『古今治平略』卷一七「宋考課」
【627】趙翼氏は『二十二史剳記』卷二四「宋初嚴懲贓吏」において、高宗の按察官の殿最の実例が見られないことを示唆。『朝野雑記』巻六「建炎至嘉泰申厳吏之禁」では【46】以下『清獻集』卷五「軍器監丞輪對二剳」
【630】『宋史』卷四〇七同伝、『清獻集』末尾の年譜などによる。なお、以下本稿で『清獻集』とは南宋杜範のそれの謂である
【631】以下『清獻集』卷五「軍器監丞輪對二剳」【632】この約一〇年後、右丞にあって具した上奏の中では杜範は名指して何溥の法を実施すべきことを論じているので(同卷一三「相位条具十二条」)、彼が何溥を意識していたことは明らかである。
【633】趙翼氏は『二十二史剳記』卷二四「宋初嚴懲贓吏」において、高宗の按察官の殿最の実例が見られないことを示唆されている。また上注で言及した右丞時代の杜範は、何溥の法の内容を概説して
今宜舉而行之。然近世多有按察官好惡徇私、論劾不實、動以贓誣人者。と続け、さらにこの法の実現を期して、路の監司(郡守の按劾に対し)あるいは隣の路の監司(監司の按劾に対し)、また臺諌が風聞によって弾劾した場合も監司といった中立的第三者に勘證を行わせて、しかる後に責罰または反坐の処分を行う制度改変を勧めている。
【48】【49】『建炎以來繋年要録』卷一七〇紹興二五年一二月乙酉
李心伝が地方エリートの抵抗と官僚制内部の反対に遭って失敗したことをいう李心伝は
【301】後の湖南の事例も併せて考えれば、一般に、安撫の治所となっている府州軍の守臣は、安撫が臧否を行い、他の諸府州軍について転運など監司が行うようである。広東では安撫使の治所は広州とされているが、転運司は梅原氏によれば広州、羅文氏によれば広州あるいは恵州とされている。【22】に引いた詔令(一二年一〇月癸亥の詔による臧否の法)からは察し得ないが、これを見る限り、武闕−帥臣/その他−監司など銓選の区分との対応は見られず、提挙使が全員の守臣についてコメントを加えている。おそらく転運や帥臣も別個に全員の臧否を行ったものであろう。【302】上供銀の代納は巻一「乞代納上供銀奏状」
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