宋代の監司の語義について
青木 敦 |
『歴史学研究』753(2001年9月)を一部書き改めたものです。引用してくださる場合は、必ず『歴史学研究』から引用をお願いいたします。当サイトの文章は参考用のものですから、ここからの引用はご遠慮ください。
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はじめに 1.監司の史料的範疇 2.従来の研究における四司説と三司説 3.三司説の根拠と帥臣の地位 おわりにかえて−監司と帥臣 注
はじめに 古来、中国の地方行政制度は、州(府)県を軸としたが、明〜現代にはその中間区画として「省」が存在する。宋代、この省に相当したのが「路」である。その路を統括するもの(明清で言えば総督巡撫、現代では省長にあたるもの)を「監司」といい、これは転運(漕運等)、提点刑獄(獄訟等)の機関の総称であるが、ここに従来、大きな誤解が存在した。即ち、監司とは転運、提点刑獄、提挙司、安撫司の四つだ、とされてきたが、実は安撫司は含まれていない。この誤解は、日本では『支那官制発達史』、"諸橋大漢和"、宮崎市定氏、梅原郁氏の諸研究に始まり、訳注、辞典その他、すべてに及んでいる【1】。中国語圏、英語圏でも以前はそうだったが、1970年代のW.ロー氏以降、金圓氏など、安撫を含まない理解もわずかに現れて来ている。だが現状としては、相互参照や史料の掘り出しが殆ど行われておらず、共通認識はないといっていい。そこで本稿では、従来の見解を、安撫を含むか否かによって四司説・三司説の2つに整理した上で、金圓論文に指摘された三司説支持の3史料の再提示、安撫を含まないことを指摘する新史料の提示、筆者が以前行った監察制度(淳煕臧否)研究の敷延などを通じて、四司説は排除されるべきことを証明する。また監司とは具体的に何を指すのか。監司は行政機関なのか、監察機関なのか【2】。監察において、中央官−御史諌官、地方官−監司、と考えられてきた役割分担の図式は妥当か【3】。いずれも、再検討が必要なのである。そもそも、監察官の意味合いがある監司という呼称は古来あるが【4】、一方宋代のその内実はといえば、監察のみならず漕運、刑獄、財政関係までを広く扱う、行政事務機関としての性格を多分に持つ。だがその伝統は比較的新しく、監司の中心的存在の転運使でさえ、その制度的沿源は唐先天2(713)年の水陸発運使李傑あたりまでしか溯れない【5】。監司を行政機関と位置づけるべきか、地方官監察は監司が担っていたのか、などの問題については、まだまだ従来の諸研究を整理し、見落とされて来た史料を紹介するなどの作業が必要だろう。だがここではその中でも基礎的な部分に属すると思われる、語義の問題を取り上げたい。すなわち監司が宋朝のどの機関を指すかという問題について、従来紹介されて来た2、3の史料の再検討および若干の新出史料をもとに、ことに制度的に安定して来た南宋期を中心として考察したい。そして、監司すなわち転運司(漕司)、提点刑獄司(憲司)、提挙司(特に提挙常平司−倉司)、安撫司(帥司)の四司である、という少なくとも我が国では定着してしまった理解が誤りであることを示すのが、本稿の目的である。
1.監司の史料的範疇 監司が何を指すか、はっきりしない理由の一つは、『宋史』その他の宋代の基本的な制度史料に監司の項目がないからだろう。宋代史料を読めば、おおよそ転運司、提点刑獄、提挙常平あたりを指すであろう事は見当がつく。だが例えば『宋史』巻167「職官志」には、監司の項目がないばかりか、転運や提刑(提点刑獄)、提挙常平司の項目にも、監司という説明すら皆無に等しいし【6】、『文献通考』や『玉海』といった制度史料にも監司の項目はたてられていない。一方『宋会要輯稿』(以下『宋会要』)には、職官45に「監司・提挙郡守」との項目が立てられているが、同時に職官42〜44に転運司、各種提挙司などが立てられており、組織図として見ると整合性がない。それでも『宋会要』に監司の項があるのは、詳細かつ網羅的な会要としての編集上の要請に基づき、「監司」の語によって多くの法律や命令・議論が出されているという現実に対応した構成となっているからである。なおこの『宋会要』当該部分は、『永楽大典』巻1109「司」字「監司」から採録されている。 また、監司の具体的内容がはっきりしないもう一つの理由は、周知のように、路級の機関が固定的ではなく、目まぐるしく変遷することにある【7】。特に路の提挙某々と言われる諸官司の沿革は極めて繁雑で、例えば提挙常平官と言っても、王安石時代に置かれた提挙常平広恵倉兼管匂農田水利差役事を指す場合も、提挙茶塩と統合された後の提挙常平茶塩公事を指す場合もある。路を基本単位とした提挙学事司や提挙坑冶司、東南の提挙市舶司なども置廃が繰り返され、これらのうち監司と呼ばれた事例があるのはどれかなど、正確に知ることは極めて難しい。
2.従来の研究における四司説と三司説 こうした背景があってか、従来は漠然と、監司は上述の転運司、提点刑獄司、提挙司(特に提挙常平司)、安撫司の四司を指す、とされることが少なくなかった。この理解は、恐らく我が国では、『支那官制発達史』の宋代の章(中嶋敏氏筆)に始まり【8】、『大漢和辞典』(諸橋轍次氏)【9】、宮崎市定氏【10】、梅原郁氏【11】と受け継がれ、一般に受け入れられるようになったものと思われる。また海外でも、監司が四司であるとするものは少なくなく、銭穆氏、方豪氏、譚其驤氏、E.A.Kracke,Jr.氏などがこうした理解をされている【12】。宮崎・梅原両氏を始め、どの研究も監司を四司とするに際して史料的根拠を示しておられないが、中嶋氏は趙昇『朝野類要』巻3の「外台」を引かれており、察するにそこから監司=外台=四司と考えられたのではないか。中央を監察する御史台が内台と呼ばれたのに対して、在外の監察官を外台といったが、『朝野類要』はこの外台を説明して、 安撫・転運・提刑・提挙、実まさに御史の権を分かつ。亦た漢の繍衣の義に似たりて、天子の巡狩なり。故に外台と曰う。 つまり安撫司、転運司、提点刑獄司、提挙司は外台として御史の権限を分かちもつ、と言う。だがこれはあくまで外台に関する説明であり、監司のことを言っているのではない。確かに安撫司は外台に含まれるのだが、監司がこの四司ということは意味されておらず、監司がこれら四つを指すという根拠はない。 これに対し、ウィンストン・ロー(羅文)氏は1974〜75年の研究で、監司を転運、提刑、提挙官の三司であるとされた【13】。つまり安撫は含められていない。しかし日本語、中国語を通じてみても、管見の限り、台湾の謝興周氏を除くとその後の研究の中でこのロー氏の所説が参照されることはなかった【14】。さらに言えば74年から1982年に至る間、宋朝の地方行政、特に路制について最も包括的な検討を加えたのがロー氏の諸研究であるにもかかわらず、それが主に英語であったが故にか、この分野の研究者がロー氏の一連の研究を参照することは皆無に等しかったのである。中国では金圓氏をはじめ、最近ようやく三司説が取られることも少なくなくなった【15】が、いずれにおいてもロー氏の研究は参照されない。唯一の例外である謝興周氏は、ロー氏の研究にも触れつつ転運司について一連の研究を行っており、また宋人が監司というときに三司を指す、という見解を示されているが、やはりそこでもこの問題について、十分な史料的根拠が挙げられた上で議論が展開されているわけではない。つまり現状では、監司の理解の方向として、日本において定説化しているように、安撫を含めた四司と考えるか、ロー氏・謝氏のように安撫を除外した諸司と考えるか、の2つの立場が存在する。監司がどの官司を指すのかというこの監司の語義の問題は、宋代史料を読解してゆくうえで、どうしても明確にしておかなければならない課題であろう。
3.三司説の根拠と安撫司の地位 監司と言った場合、それが転運、提刑、提挙あたりを指していることが宋代史料を読んで漠然と分かることは既に述べたが、監司とは何かをはっきり述べた史料が、南宋期に入ると少なからず存在するようになる【16】。まず『慶元条法事類』巻7「監司知通按挙」に引く職制勅の 諸て監司と称するは、転運・提点刑獄・提挙常平司を謂う。按察官を称するは、諸司の通判以上の官(発運・転運判官、同じ)及び知州・通判の、各の本部に於いて職事相い統攝するものを謂う。 という説明が、法の条文として明確に監司が三司であることを示しており、また謝維新『古今合璧事類備要』後集巻66も 国朝の監司、転運使・副・判官有り、之れをして官吏を按察せしむ。又た提点刑獄有り、武臣同提刑有り、又た提挙常平茶塩司有り。 と述べ、これもまた官吏の按察にあたる転運使・転運副使・転運判官を中心に、提刑、武臣提刑、提挙常平茶塩司が監司であるとする。さらに林{馬冂口}『古今源流至論』続集巻7「監司」も『古今合璧事類備要』と同様に 我朝の監司、始めは則ち転運使・副・転運判官有り、後には則ち提点刑獄・武臣提刑有り、又た其の後には提挙茶塩・提挙常平有り。此の三者、論ぜざる可からず。 と述べ、転運−提刑−提挙司は順次成立してきたが、監司は少なくともこの3つを指すとする。四司説を取る宮崎氏自身が訳・解説された【17】『水心文集』前集巻3「監司」において、葉適が監司として議論するのも、転運・提刑・提挙の三司であり、監司が三司であると認識が最も一般的だった事実は、動かしがたい。 ただ史料によっては、紛らわしい事例もある。南宋初期の劉才邵『檆溪居士集』巻6「賜科挙誡諭記」には 外に在りては漕臣及び監司に委ねて按察せしむ。内に在りては主司をして覚察し、御史台をして糾劾し、以聞せしむ。 とあり、「漕臣および監司」に按察させる、という言い方は、あたかも漕臣(転運)と監司は別物であるが如くであるが、これは「転運およびその他の監司」の意か、あるいは提刑・提挙あたりをまとめて「監司」と称しているかのいずれかであろう。また『慶元條法事類』巻37庫務門「勘給」所引廐庫勅には、 諸て、提挙・提点司(監司に非ざる者を謂う)属官、令に於いて給せんことを請う。違う者有らば、違制を以て論ず とあるが、これは双行細字注(カッコ内)が少々分かりにくい位置にあるに過ぎず、本来「属官」の説明として、「提挙司・提刑司の属官、すなわち監司ではないもの」を意味している。特に北宋初期には、監司、転運などの語の意味は流動的だったが【18】、転運、提刑、諸提挙司の成立とともに、監司=三司が定着したというのが、上記『古今合璧事類備要』『古今源流至論』の理解である。 ここで強調したいことは、四司のうちの帥司、つまり安撫司は決して監司には含まれなかったということだ。前述の提挙某司など、どの範囲までが監司と言われたか不明な点が残るが、少なくとも安撫司は含まれないのであり、四司というのは誤りである。安撫使が置かれた地理区画には様々な経緯があり【19】、最終的には路を単位として置かれるようになり、その意味では確かに監司と同様に路の機関ということができる。それでも監司は三司であって、安撫は含まれない。従来紹介されなかったが、これについて述べている史料があるので、紹介したい。 高宗期の綦崇体『北海集』巻3「武功大夫忠州刺史淮南西路提刑馬識遠可除右武大夫知寿春府兼淮南西路安撫使制」には、 勅、監司・帥守、職と為りは同じからず。然して恤民・禦冦し、獄訟を平亭し、所部を經略し、不虞に逆待え、時の艱難に方うに於いて、其の責任は均しきなり。 と、監司と安撫司は、ともに地方の安定維持にあたるが、その職は別だ、と明確に述べている。帥守とは大郡の守臣が兼任した安撫使、つまり帥臣のことである。これに対して、監司に帥臣を含めた記述は管見の限り存在していない。『古今合璧事類備要』後集巻69では、監司門に安撫使の項を立てているのが、一見安撫使を監司に含めるように見える事例だが、上述のごとく同書は巻66では明確に監司を三司と規定している。 そして宋代史料を眺めて無数に見いだされるのが、「監司帥臣」「帥臣監司」という言い方だ。安撫が監司の一部なら、このような書き方はしないであろう。 監司といっても、そこには地方の様々な行政事務や官吏の監察といった職務が課せられており、これについては前出ロー氏の研究に詳しい。だがここでは、監司と帥臣について、監司帥臣の最も基本的な職務である監察に関して、実例を見ておきたい。 南宋淳煕8(1181)年閏3月、孝宗は全国の監司と安撫使に、守臣の勤務評定(臧否)を命じた(李心伝『建炎以来朝野雑記』甲集巻5「淳煕臧否郡守」、『皇宋中興両朝聖政』巻59淳煕8年閏3月)。 詔す。諸路の監司・帥臣、歳終、各ゝ部する所の郡守を以て三等に分け、治効顕著なる者を臧と為し、貪刻庸謬なる者を否と為し、無功無過なる者を平と為せ。考察を詳加し、名を具し来上せよ。内、臧・否は各おの事実を著し、如し考察公ならざれば、御史台に弾劾せしむ。 というものである。このときの一連の命令では、監司のみならず安撫にも勤務評定の命令が下されている。果たして現実に行われた勤務評定を見てみると、一路の勤務評定は監司が行っているが、一路の最大の府州の長官が兼任する安撫使に対する評価はない。この淳煕臧否については別稿ですでに詳しく述べたのでそちらを参照されたいが【20】、たまたま残された、この淳煕臧否の実態を伝えてくれる蔡戡なる人物の臧否状(勤務評定の上奏文)を見ると、彼が広東転運判官の地位にあった時の臧否状には、広東14府州のうち、人事異動の関係で評価不能な4つの州と安撫司が所在する広州を除いた諸府州の守臣の評価が書かれている(別稿参照)。湖南でも同様、全9府州軍のうち、提刑の蔡戡が勤務評定を行ったのは、永・全・邵・郴州、武岡軍、桂陽監の6府州軍であり【21】、評価対象となる長官が着任していなかった衡・道州と、安撫司の治所の潭州が対象外である。「監司・帥臣」に臧否を命じた淳煕8年閏3月詔は、監司(運判、提刑)によって行われる場合には、知州が安撫使を兼任していた州以外の府州軍に限られていた。すなわち、淳煕臧否の実例においても、監司と帥臣の間では、区域が異なっていたのである。
おわりにかえて−監司と帥臣 以上を要するに、監司を転運(漕)・提点刑獄(憲)・提挙常平(倉)・安撫(帥)の四司とする根拠が見いだされず、これに対して監司を漕・憲・倉の三司とする規定が『慶元条法事類』その他に少なからず存在し、「監司と帥守の職は同じではない」という言明まで見られるという事実からすれば、従来の監司=四司説を支持するわけにはゆかない。しかも単純に監司(三司)と安撫司の関係を、同じ外台だから同質だ、とか、宋代の路の機関だから監司と本質的な差はない、と言い切れないのは、やはり安撫には、その路の最大級の州の守臣が兼任するという、それなりの地位があったからである。これに対して監司は、その治所も明確でない場合が多く【22】、古来の刺史や監察御史よろしく一道(路)を行部して監察にあたる。漢の部刺史にしても、唐の監察御史にしても、綱紀を粛正する大役を担っているとはいえ、比較的低い官品に甘んじて広域を巡回せねばならなかった。特に宋代、監司などより、むしろ由緒ある知州ポストのプレステージが高かったことはすでに梅原氏が指摘されている通りである【23】。確かに帥臣という呼称も雅ではないが【24】、現実には有力州の長官である安撫使自身を、監察官の匂いの強い監司の名で呼ぶとすれば、それはやはり違和感を感じさせずにはおかないことだろう。監司と帥臣は原理的にステータスの異なる面があった。 本稿がことさら監司の語義にこだわったのは、単に従来の四司説が、史料を読んで行くうえでの躓きの石になることを恐れたからではない。府州の長官の地位の長期的な低落、そして監司−省(督撫)といった広域行政の確立という、中国王朝の地方制度史の大きな流れ【25】の中で宋の地方制度を理解しようとしたとき、有力府州の守臣たる安撫使と、さらに広く財政・刑獄等の様々な行政事務を扱うようになった監司の位置づけは、重要な考察課題の一つであるように思われたからである。 注 【1】これら全てが意識的にこの誤りを犯してきたわけではない。殆ど意識されなかったというのが適当であろう。 【2】行政と監察、という概念を用いて考えるのであれば、例えば梅原郁氏は監司という語の語源を意識され、「よく事典などで、路を行政区分と定義しているが、監司の呼称でも明らかなように、厳密に言うとそれは……監察を任とし、したがってまた路も漢十三州と同様に監督区分にほかならなかった。路は……建前上は宋一代監督区分の座を守り続けた」(『宋代官僚制度研究』同朋舎、1985、267頁)と、監司の行政機関ではない監察機関としての機能をことさら強調される。だが一方、転運、提刑など監司の具体的職司の機能を詳細に検討し、監司が監察機関の地位を脱し、名実ともに行政機関たる性格を有していること、中央−監司−府州軍/中央−府州軍の2系統の統属関係があることを明らかにされたWinston
Lo(羅文), Circuit Intendants.“Circuit and circuit intendants in the territorial
administration of Sung China." Monumenta Serica, 31, 1974-75.(特に“Part
Two")、同 An introduction to the civil service of Sung China : with emphasis on
its personnel administration. University of Hawaii Press, Honolulu,1987,
p.41の議論をはじめとして、路を行政区分、監司を行政機関と捉える見解も少なからず存在する。 【3】台諌(御史・諌官)とは百官を監察する官職であり、南宋には台諌による州県官の監察が特に重要になる。地方−監司、中央−台諌という監察のイメージは妥当ではないので、他日再検討の予定である。 【4】渡邊久「転運使から監司へ−宋初における監司の形成−」(『東洋史苑』38、1992)は監司の起源について詳しい。また呉曽『能改斎漫録』巻2事始「監司之職」も『晋書』巻91「徐邈」伝を引用し、魏晋以来あったとしている。 【5】転運司の起源に関しては青山定雄「唐宋時代の転運使及び発運使」(『唐宋時代の交通と地誌地図の研究』吉川弘文館、1967)、鄭世剛「北宋的転運使」(ケ広銘・酈家駒等主編『宋史研究論文集』河南人民出版社、1984)、渡邊前注論文などがある。なお水陸発運使李傑の記事は唐の先天2(713)年が妥当で、『職官分紀』巻47「諸路転運使副使判官」の開元2年は誤りであろう。 【6】紹興年間、提挙茶塩官は提挙常平茶塩公事に改充されたが、「旧法に依り」監司の扱いとして転運判官と同じく叙官したなどとある(『宋史』巻167職官志「提挙茶塩司」。『宋会要』職官43-29「提挙常平倉農田水利差役」紹興15年12月28日にも見える)、これが『宋史』職官志では具体的な官職を指して監司と称している唯一の箇所である。 【7】こうした諸官司の詳細について現在最も包括的な解説を提供しているのは龔延明『宋代官制辞典』中華書局、1997、第9編、地方官之類「路官」)である。 【8】中嶋敏「宋」(和田清編『支那官制発達史』中華民国法制研究会、1942、のち『中国官制発達史』汲古書院、1973。p.174、198)。 【9】諸橋轍次編『大漢和辞典』(大修館書店、1956)巻3「安撫使」の項にも史料の引用なしに、「宋に至って監司となり」云々とある。 【10】宮崎市定「宋代官制序説−宋史職官志を如何に読むべきか−」(佐伯富編『宋史職官志索引』、東洋史研究会、1963、のち『宮崎市定全集』別巻、岩波書店、1993)。 【11】梅原前掲書(p.269,278)。さらに渡邊前掲論文もこうした見方を受け継ぐ。 【12】銭穆『中国歴代政治得失』(香港、1952)、方豪『宋史』中国文化大学出版部(台湾、1979、p.40〜42)、譚其驤編『中国歴史地図集
宋・遼・金時期』(地図出版社、1982、「遼北宋時期図組編例」)、E.A.Kracke,Jr. Civil service in early Sung China, 960-1067 :
with particular emphasis on the development of controlled sponsorship to foster
administrative responsibility. Cambridge,Mass.,1953
pp.50-53,同Translations of Sung civil service titles, classification terms,
and governmental organ names.
San Francisco : Chinese Materials Center, 1978。 【13】Winston
Lo(羅文),前出論文p.82、羅文「宋代中央対地方施政之路的区画」(『大陸雑誌』49-5、1974)。氏の言われるサーキット・インテンダントは、安撫使を含むという点において、監司とは異なる。 【14】◆◆謝興周「宋代轉運使 之立て置及其在路制中之地位與影響」『東呉歴史学報』3(1997)。氏は、通常監司は四司を指すが、宋人はこの三司を指して監司とした、という。 【15】金圓「宋代監司監察地方官摭談」(『上海師範学院学報(社会科学)』1982-3)、同「宋代監司制度述論」(『上海師範大学学報』1994-3)。『中国歴史大辞典・宋史』(上海辞書出版社、1984、徐光烈著「監司」の項)、賈玉英『宋代監察制度』(河南大学出版社、1996、p.301)、前出龔延明『宋代官制辞典』(p.478)など。 【16】以下の『慶元条法事類』、『古今合璧事類備要』、『古今源流至論』の3史料は、前出金論文などですでに指摘されている。 【17】宮崎市定訳注「監司之害」(『政治論集』朝日新聞社、1971)参照。 【18】渡邊前掲論文参照。 【19】安撫経略と路の関係については譚其驤「討論宋代分路与張家駒書」(『長水集』人民出版社、1987)、李昌憲『宋代安撫使考』(斉魯書社、1997、特にp.10〜33)。李昌憲「簡述宋代安撫使制度発展的歴史進程」(上)(下)
『大陸雜誌』94-5,6(1997)も同様の見解。 【20】青木敦「淳煕臧否とその失敗−宋の地方官監察制度に見られる二つの型(1)−」(『東洋文化研究所紀要』132,
1997)参照。安撫と監司の管轄が分かれているという結論には変わりないのだが、前稿で筆者が、安撫の治所の守臣は安撫が評価する、としたのは適切でなかった(前稿p.22)。監司が一路の臧否を行う場合、淳煕臧否の事例から知り得ることは、安撫の州の守臣(即ち安撫使自身)が監司(運判や提刑)の評価対象から外れている、という事実だけである。なお、『宋会要』職官64〜75「黜降官」の中にある事例を、監司、帥臣の各機関が主にどの府州軍の州県官を弾劾していたかという点から分析すれば、それぞれの役割分担がさらに明確になると予測される。今後の課題である。 【21】蔡戡『定斎集』巻2「臧否守臣状」 【22】梅原前掲書p.271〜2、ロー前掲論文p.60。 【23】梅原前掲書p.215。 【24】帥臣の語は唐代に節度使を意味して使われた事例などもあるが、台湾中央研究院計算センターのデータベースで検索しても、南北朝以前の正史に用例は皆無である。 【25】Robert
M. Hartwell.“Demographic, political, and social transformations of China,
750-1550". Harvard Journal of Asiatic Studies, 42:2,1982,p.395 |
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