はじめに

第1節　弾劾の多寡による殿最　

１　何溥の法

２　その他類似の施策

第２節　人事を巡る杜範の議論と孝宗の政策

１　杜範の位置

２　堂除問題

３　監司問題

おわりに

 

 

はじめに

　　　　　　

帝政時代の中国王朝には信賞必罰を旨として、全国の官僚の成績を考課して人事に反映させる制度が受け継がれ、また成文化されない実力行使に近い形も含めて、常に望ましい言動があれば抜擢され、望ましからざる言動があれば弾劾される可能性があった。特に不正行為に対する監視の制度は怠りなく整備され、御史台（或いは都察院）に代表されるいわゆる監察機関が常に存在し、しばしば激しい政治闘争と絡み合いつつ、極めて頻繁に弾劾が行われてきた。例えば12〜13世紀のある資料では、全国に300前後ある州の長官以上の官僚は、誰かがほぼ数日に1人の割合で弾劾され、降格されていたのである[1]。また一方、随時の監察ではなく、任期中の成績を勤務評定する制度も伝統的に受け継がれてきた。例えば官僚制の中で古来から存在した考、校などの諸概念を現実に運用するための考課制度は殆どの王朝にあった。特に漢の考課法[2]、唐考課令、明・張居正の考成法[3]などが著名であるが、実際には事勿れ主義的に「中の上」などという評価が慢性化し、なかなか、制度の忠実な運用は困難だったようだ。

ところが、こうした王朝の制度には、時期によって大きく変わらない、本質的な側面と、時代を下るに従って変化してくる側面とがある。大きくは変化しない側面とは、例えば「考」の概念を軸とした考課制度[4]の理念的な部分だ。「考」という語は、もともとは官僚の治績の評価、つまり勤務評定を意味するが、普通、単に任期を計算する上での期間の一単位としても使われる。『尚書』舜典の「三載考績、三考黜陟幽明」（三年で成績を考（評価）し、三考で昇降を行う）という記載がこの考の理念的淵源で、この通りに運用すれば三年で一考、つまり三考で九年という長い期間ポストに留まった後、人事異動を行うことになる。この『尚書』の一ポスト九年というのは現実には極めて長い期間と言え[5]、晋や北魏の初期、唐などその後の中国王朝では一年で一考（つまり三考で昇降なら一ポスト三年）を基礎とする場合が多かった[6]。

一方、時期によって大きく変化するのは、地方における制度運用の担当官署である。長期的な視点から見ると、中国王朝の地方制度には、一定のトレンドが存在する。つまり財政、治安維持等に関わる王朝の管轄領域内において、ほぼコンスタントな人口増や市場拡大は存在するから、王朝組織もこれに対してはある程度の対応を余儀なくされている。道〜省級機関の発達と州、県長官の地位の低下というR.ハートウェル氏が指摘する行政の地方化[7]はそうした傾向性と対応しており、その一側面である宋の監司の地位については筆者も近論で触れた[8]。こうした地方制度の変化に伴って、人事、監察方面の組織も変化することは言うまでもない。地方組織の漸進的な変化は、千年一日の如く営まれ、議論されてきた考課制度に、多少の彩りを与えている要素の一つである。

そこで本稿では、この監司問題を、南宋の地方官考課制度に関わる制度改革や議論の中に見出し、あわせて堂除など人事上不可分の問題についても一見しておきたい。

 

第1節　弾劾の多寡による殿最　

 

１　何溥の法

 

筆者は最近、『宋史』「選挙志」の北宋部分を訳出したが[9]、これによって宋朝における地方官考課の制度的な流れについて通観する機会が得られた。そこからまず指摘すべきことは、宋朝三〇〇年間にわたり、我々が「考課」という項目のもとに知ることの出来る様々な法令、議論の論点は、時期により重点が移るということだ。以下「選挙志」の解読から指摘できる点を若干並べれば、北宋初期には、職務の繁閑によって決められた必要出勤月数を無事通過すれば自動的に昇給でき、統治の実績はあまり重視されない「歳月敍遷の制」（或いは「歳満敍遷の典」など）からの脱却が主眼だった。しかし筆者も以前指摘したように、考課というものは、制度に即した一律の運用というのは官僚制の中ではかなり難しいものであり[10]、慶暦に行われた范仲淹、張方平らの考課関連の献策も、概ね機能しない考課制度を如何に機能させ、官吏の能力を人事に反映させるべきか、という点に集約される。また宋初には考課と磨勘は、官署名の一部としても、選人改官における審査という意味に於いても殆ど同義に使われることもあったが、次第に考課の目的としては京朝官に差遣を与える際の治績評価という面が重要になってくる。ことに神宗期には、知県県令に関する詳細な評価項目が示され、その後も監司、守臣などについて治績を評価するための制度が整備される。この神宗期煕寧年間には、差遣にはすべて課を設ける方針が立てられるが、この課とは多くの場合、唐以来の四善、幾つかの最からなり、それが上、中、下などと考第されて、人事への反映が期待された。『宋史』｢選挙志」や、同じく宋朝国史の資料に多く基づき、『宋史』と非常に近い関係にある『文献通考』(以下『通考』)などを見ると[11]、こうした宋初太祖太宗期の人事考課への意気込みや、慶暦新政における華々しい議論、神宗新法時期の細かい制度的締め付け、更に南宋初期の制度復旧などに記述上の力点が置かれているのが分かるが、これとはやや別系統の『宋会要』などを眺めるとき、『宋史』『通考』では等閑視されている徽宗朝における、私情の蔓延、制度の機能不全、そして提挙学事司その他の監司の怠慢に対する度重なる対処の努力が、かなり行われていたことが知られるのである。ただ、南宋になると、こうした議論の展開は比較的平板になってきて、人事上の議論はいくつかに絞られてくる。その一つが監司の怠慢であり、南宋全期を通観したときに、南宋初期以来の地方官監察の建て直しの努力が紹興二五年、秦桧死亡直後の何溥の考課法に結実し、それがその後も影響力を持つことが知られる。そこで本節では以下、この何溥の監司殿最の法を中心とし、また同内容の提言を行った理宗朝の杜範の人事に関する議論をも検討することにより、南宋朝で議論された地方官監察の重要な問題点が監司の機能の問題、そして考課と弾劾の関係にあったことを指摘したい。

 

　この殿最の法というのは、秦桧派粛正にともなう一連の台諌強化の動きの先駆けとして紹興二五年一二月乙酉行われた、何溥の以下の上奏である[12]。

恃みて以て周く天下を知(おさ)める所の故(もと)は、内は則ち之れを臺諌に寄(たの)み、外は則ち之れを官司に寄む。故に監司の權は臺諌と等しきなり。陛下勵精求治し、台諌を尊用し、言は従わざるなし。今茲、朝廷の治は、肅と謂う可し。而るも臣竊かに怪しむらくは、�@州縣の間、貪吏虐を為し、良民を搏噬すること、豺虎より甚しきも、監司問わず、郡守訶(とが)めず、往往にして佞巧を甘受し、其の餌を先食す。是れ足るに陛下耳目の寄に当たるを以てせんと為さんか（是爲足以當陛下耳目之寄哉）。臣愚以謂らく、�A州縣の貪吏、郡守治めずして監司以て之れを按ずるを得ば、則ち郡守當に縱容の罪に坐すべし。監司按ぜずして臺諌以て之れを劾するを得ば、則ち監司當に失察の罰を受くるべし。而して、又た�B毎歳其の按ずる所の多寡を校し、以て殿最の課と為せ、是の如ければ則ち惟だ監司の匿奸において容さざるにあらず、而も貪吏亦た將に斂迹して敢えて犯さざるべし。此れ臣の意度して説を為すにあらざるなり。比居、田里に親しく見る所なり。故に敢為して陛下に（敢て陛下が為に？）之れを言う、伏して望むらくは睿慈もて斷じて以て必ず行い、實惠民に及び、天下幸甚ならんことを。

ここで述べられている点は、監司と台諌が内外の政治の要となっているが、�@監司や郡守（知府州軍）はまるめこまれて、州県の官吏の不正を監督する役割を果たしていない。�A郡守が懲治すべき州県の貪吏を懲治せず、かわりに監司が弾劾しする結果となった場合には、郡守は甘すぎの罪を負い、監司が弾劾すべきものをせず、台諌が弾劾する結果となった場合には、監司は監察しそこないの罪を負う。そこで�B一年での弾劾の回数を監司[13]の人事の評価項目とする。こうすれば監司が悪者を匿ったり貪吏も慎むだろう、というものである。ここで使われている語について少し説明すると、�A、�Bに言われる「察する」「按ずる」とは、通常「監察」などと訳されるが、宋代の法令でしばしば「監司は覚察し、台諌は按劾せよ」と言われる「覚察」「按劾」[14]さらに「劾する」「論ずる」などと同様、具体的には非時に上奏して罪を論じること、すなわち弾劾することを言う。一年を単位にその回数を校つまり比較評価して、昇任，降格のための評価項目の一つとした[15]。

　これは一言で言えば、弾劾の回数を考課基準とすることで、地方官に対する管理徹底を図る試みだ。弾劾とは元来、必要のある場合にのみ随時行うべきものであって、多ければ良いというこの方法はかなり強権的である。この法が提案された背景には、南宋朝が秦桧体制から脱却し、新体制が確立する過程で台諌，監司を軸とした人事刷新があった。紹興末年には死亡した秦桧の勢力が次々と退けられたが[16]、何溥もこの上言の翌二六年正月から、反秦桧派の湯鵬舉、凌哲らとともに台諌に迎えられた。秦桧体制当時、全国の地方の優良なポストには秦桧系の人材が配されていたと考えられるが[17]、紹興二五年一〇月丙申の秦桧死亡直後から、高宗自身を中心に監察強化の政策が発せられる。一二月に入ると、甲戌には「最近は台諌は権力者とぐるになり「耳目の寄」の役割を果たしていない。今後は公明正大な人物を選び、以前の弊害を改めることとする」（要録一七〇同日条）との手詔が発せられて台諌刷新が図られ、その一一日後に何溥の上奏がある。恐らくは、強権的に弾劾を活発に行わせ、人事の入れ替えを促進しようとしたものと思われる。

　だがやはりここで重視すべきことは、人事考課を用いて監司―郡守―州県官という地方政治の刷新を図ろうとするとき、監司がその中心となるということだ。州県官が貪るなどの不正を行い、台諌が直接その州県官を弾劾するに至ったとき、監司もいわば職務怠慢の罪を問われる。�Aで郡守も同様の責任を指摘されているが、�Bで考課の評価項目に組み入れられているのは監司である。監司が地方政治の責任をとる形となっている。

 

２　その他類似の施策

　監司に州県の貪吏に対する監察の責任を負わせ、台諌が監司の頭越しに州県官吏を弾劾した場合に、管轄の監司の罪を追求する規則は、実はこの何溥の著名な法が初めてというわけではない。紹興五年に張致遠が、「監司郡守は唐の按察刺史にあたる。県令に不正があって監司が直接これを弾劾すれば郡守・通判の責任だし、郡守に不正があって台諌が直接これを弾劾すれば監司の責任だ」等と述べた上で、

　　臣愚欲すらくは、欺庇を按発するを以て、有司の殿最と為さんことを。若し一県監司に按ぜられれば、則ち一州を罪し、一州台諌に按ぜられれば則ち一路を罪す。

などの提案を行い、「刑部に詔し、立法し尚書省に申せしむ」となっている（『要録』八六紹興五年閏二月乙卯）。だがその後秦桧専制期を通じて、後の何溥の法や淳煕臧否などのような特に積極的な政策は見られない。全体的に史料が少ないこともあるが、この専制期に特に大きな人事政策上の変化がなかったのではないか。だが、紹興末年から様々な制度変革が試みられるようになり、その中に何溥の提案、さらに他にも監司郡守の監督責任に関する議論が目に付くようになる。以下二、三挙げる。

（一）紹興二八年一二月、高宗は

　　近ごろ、州県の官吏、曾経て臣僚論列せしも、而して監司郡守、按発に于いて失せしは、已に一、二を行遣すると雖も、其の余の待罪の者は皆な放(ゆる)さる。公然として姦贓の吏を容庇し、忌憚する所無きを恐る〔辛丑〕。自今、其の軽重を量り、必ず責罰を行い、待罪を許さず〔壬寅〕。

 

として、州県の官吏が臣僚論列[18]の対象となったにもかかわらず監司郡守が摘発の義務を果たしていなかった場合も、僅かな事例を除いて監司郡守の多くが待罪、つまり処分をまぬかれていることを嘆き、これにより待罪は許さぬ指揮が発せられた[19]。

無論、このような提案・立法は、現実にはなかなか遂行されないからこそ、度々発せられるのである。三二年一二月戊辰、高宗は侍従台諌に「方今の時務を条具」せしめたが、これに対し殿中侍御史胡沂などと並んで（宋史三八八胡沂伝）、周必大は三日後の辛未に行った一〇条からなる上奏の第九条で大略、「紹興二十八年十二月十六日聖旨によれば、監司・郡守が、州県官の貪残不法を馴れ合いで即時摘発せず、臣僚論列となって初めて待罪となるのでは甚だ無責任だ、今後は其の軽重により必ず責罰を行い待罪は許されない。この指揮が降されて以後まもなく、興化軍の守臣の汚職が議論となったのに、当該路の監司は摘発せず、罰せられてもいない。これ以上待罪しないと、この指揮はますます無視される。ここで二十八年の詔を厳しく実施すれば、監司も部吏もしっかりするであろう」（『文忠集』一三四「条具弊事」の第九条）と言っている。

（二）応武は1214-1215ころ、右正言、殿中侍御史、右諌議大夫など台諌のキャリアを積み上げる中で、盛んに弾劾活動を行った。特に1214年の6月から1216年の6月にかけては、胡衛、趙汝厦、周綸、李ﾁｮｸ(直の下に土)何汝、楊宏中、翁潾、魯興文、兪灝、陸峻、周墍、趙師〓(興の下に心)、張仲舒、張孝忠、趙崇祉、趙筠夫、楊朱拱、銭衛といった、地方官を主として多くの人物を次々弾劾しており、台諌による権力行使の中心となった[20]。

　その応武が、寧宗年間、

臣嘗て承平の旧制を考するに、御史台に於いて別に考課の職司一司を立て、刺挙多き者を以て中と為し、刺挙する所無きを以て下と為す。蓋し監司察を受ければ、則ち郡守苟安するを得ず。郡守振職せば則ち僚属敢えて自肆する莫からんか。陛下に願わくば、遵いて之れを行い、其の令を申厳し、歳終に各ゝ能否の実を以て上に於て聞せしめ、詔を以て陞黜す。其の貪墨昏懦にして台諌の奏劾を致す者は、監司郡守を坐するに容庇の罪を以てす。[21]

との上言を行った。監司郡守の弾劾の回数によって考課を行い、台諌が直接（州県官を）弾劾した場合は，その管轄の監司郡守を罪する、という基本構造は、何溥の法と同じである。全国で徴税・獄訟などにおいて不正を行う州県官を、杭州の台諌が直接弾劾する事態が日常的であった中で[22]、その場合に本来監察に当たるべきにいる直属の監司や郡守を罪しないというのは―上に見たように現実には罰しないことが多かったようだが―、監司郡守本来の職務から見ておかしいという議論となっている。

なお、少し横にそれるが、こうした議論では、陛下の耳目の寄として、中央における台諌、地方における監司が取り上げられ、何溥の法や、次に見る杜範の議論でも、監司についての規定が主眼となることが多い。だが監司郡守と記される場合も多い。郡守にも刺史の監察官の伝統があるにせよ、郡守の中には安撫使を兼任し、大きな権限を持ったものもおり、宋代には知府・知州はまだそれだけの地位を持っていたから、幕職州県官を含めた末端の「州県官吏」とは区別される存在なのである。

 

第２節　人事を巡る杜範の議論と孝宗の政策

 

１　杜範の位置

　以上、法令の面では、南宋の地方官監察問題の基調は台諌―監司―郡守という上下関係の維持にあったが、それと表裏しつつ州県官の不正を監司が弾劾できず、台諌の地方の州県官に対する直接的な弾劾を招くという現実(ﾌﾟﾗｸﾃｨｽ)が存在した。考課を用いて監司や郡守に弾劾活動を怠らせない上記の幾つかの法令は、南宋の地方官人事の問題の象徴である。そこで次に、これに関する一人の典型的な南宋の論者の議論を見てみたい。

以上論じてきたような監司の地方官監察における問題や、それと密接にかかわる官制上の問題点についての議論を見てゆこうとするとき、朱熹の弟子で数々の革弊の建言を行った人物として，杜範が挙げられる。また彼の議論は、卑見では、南宋の地方人事についての標準的・最大公約数的な言説であると思われる。以下、南宋の地方官監察議論のひとつの典型として、彼の議論に着目してゆきたい。

　『宋史』卷407〜414、『宋元學案』卷66、『清獻集』末尾の杜範年譜などにより、彼とその時代背景について以下概説的に述べると[23]、杜範は淳煕９(1182)年の生まれで、朱熹に師事、嘉定元年に満26歳で進士となった。しかし史彌遠が相にあった嘉定半ばより(1213〜14年前後)、連年蒙古に河朔を荒らされ、陝西で必死の防衛を迫られる金は、血路を南に開こうと河南から淮南にかけ宋に頻繁に進攻、目を覆わんばかりの宋の弱兵を圧迫し、これが為に宋は会子濫発によるインフレに陥っていた。かくて史彌遠は不評を買いつつ紹定６(1233)年没し、理宗の親政となるが、彌遠の甥の史嵩之も要職にありその党は未だ勢を保っていた。翌端平元(1234)年、女真人忠臣の必死の抵抗もむなしく金が宋蒙連合軍に蔡州で敗れた年、史彌遠と結んで理宗擁立に与った太学出身の鄭清之が眞徳秀、魏了翁、李直土、王遂、袁甫らの朱子学者を起用して「端平の更化」(あるいは「小元祐｣）を開いたが、このとき杜範も軍器監丞に除された。ちなみにこの官での輪對剳子から『清獻集』に杜範の奏文が記録されるようになる。しかし眞徳秀は入内するや帝に自著『大学衍義』をすすめ、ひたすら「誠意正心之学」を説くのみでインフレは一向に収まらず、仕掛人である史嵩之や鄭清之は、輿論の支持を失うが、これに乗じたのが杜範であった。

　自ら道学者である彼は、漸く聞こえてきた眞徳秀らを非難する声には与せずに、専ら史彌遠の影のある鄭清之や史嵩之を排撃した。監察御使に任ぜられた彼は、鄭清之や史嵩之の息の掛かっていた臺諌を「權臣用ふる所の臺諌、必ず其れ私人なり」として非難、さらに自ら弾撃した知常徳府の何炳の罷免が寝されると、「一守臣の未だ罷されざるは其の事小、臺諌の言の行はれざるは其の事大」とて臺諌官を攻撃し、大いに怒った鄭清之と非難の応報が始まった。おりしも清之が河・洛方面に送った軍が兵民とも死者十数万という大敗を喫すると、史−鄭に対する非難はますます高まったが、杜範はこの輿論を背景に、人気がないといっては侍従近臣を、貪暴害民なりといっては監司郡守を次々に論斥していった。彼は嘉煕４（1240）年権吏部侍郎兼侍講に遷ってから淳祐４(1244)年ころにかけ、中書に集中した銓選の権を吏部に戻すべく、徒にふえた堂除闕を部闕に戻すことをたびたび上言、また理宗の命に応じ、時弊を革すべく監司や臺諌の責任を明らかにするべしなど22事を奏した。その彼がようやく右丞となったのは淳祐４年であるが淳祐５(1245)年に没している。このように彼は大体において下僚に在り、同世代の真徳秀や魏了翁と比して決して華々しい経歴ではなかったが、公輔の望はあつかったという。

　このような、輿論を味方に御史臺・中書やそれと結んだ監司郡守を弾撃した杜範のさまざまな議論や提案は、古律詩歌５卷，雑文６卷，奏稿10卷，外制３卷，故事５卷，経筵講義３卷からなる『清獻集』に豊富に盛られている。これらを見てみると、たとえば同じ端平之更化の眞徳秀の『西山先生集』と較べると、全体量では少ないものの、比重として官僚制人事に関することが多いようであり、また『鶴山先生集』に見られる魏了翁の奏文や他の文集に比しても、とくに軍器監丞時代の剳子などは、問題の現状分析に長じているという印象を与える。本稿で取り上げた所以である。

　本稿で参照する彼の奏文は、地方官の人事権を扱った次の３つを中心とする。すなわち、

(１)端平２年の軍器監丞輪對２剳（卷5）

(２)淳祐元年ころ吏部侍郎にあって上奏した剳子（卷10）

(３)淳祐4〜5年に右丞にあったときに帝が宰執に命じて利弊を論じさせたさい、彼がおこなった12事の論のうちの一部（卷13）

である。

 

 

おわりに

 

　このように南宋の地方官人事問題は、何溥の考課法を軸として転回してきた。これは本来必要に応じて行われればよいはずの弾劾を、考課基準にするという、かなり強引な弾劾への誘引付けである。その中で、上下が結託する、評価に私情が絡む、あるいは怠慢であるなど官僚制が必然的にはらむ構造的な問題点まで含めて、その責任はしばしば監司に押付けられてきた。その本質的な原因を敢えてここで指摘しようとするならば、10世紀に成立したこの王朝が、監司という広域地方行政を扱う官署の位置付けを確立できていなかったことを挙げないわけにはゆかない。軍事財政的要素を持つ総領所の設置に、地域財政維持のための機能があったとしても、それは南宋朝の対処療法に過ぎず、むしろ祖宗の制がこれに対応できていなかったことの裏返しでもある。杜範は吏部や戸部（或いは三司）、監司といった祖宗朝以来の「公」たる機関が然るべき役割を果たすべきことを主張し、堂除、総領所といった比較的新出の制度を批判した。地方制度について言えば、こうした監司への不満は宋朝の地方制度をめぐる政治議論の基調の一つでもあった。周知のとおり、元明以降現代にいたるまで、中国王朝には、人事・監察から財政・刑獄に至るまで広い権限を持った省という地方機関が存在する。12、13世紀には、そうした常設の機関は、監司という些か中途半端な制度であり、その中途半端さこそが杜範ら宋朝の官僚たちが地方制度に関して共有していた感覚であろう。