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宋史選挙志訳註(考課北宋部分の一部)

青木敦

この文章は、『宋史選挙志訳註(3)』(東洋文庫、2000年3月)の考課北宋部分を、一部を改訂して掲載したものです。このウェッブサイトから見られる内容は、参考のためのオンライン用の改訂版であり、原文とは異なります。引用される場合には、必ず原文にあたり、出典を明記して下さい。ここからの引用は、慎んでお断り申上げます。また、条数は、本書のものとは異なります。直す時間はありませんでした、ごめんなさい。

 



   考   課


 考課は勤務評定による黜陟の細則を主な内容とする。尚書舜典の「三載考績、三考黜陟幽明」が中国王朝の考課制度の根本理念となっており、本志にも冒頭にこの記述が引かれる(1条)。これに基づいて、中国王朝ではいずれも任期中の成績によって黜陟を定める考課制度が設けられた。宋史選挙志ではリクルートや遷官に関する科挙の科目、銓選などが大きな部分を占め、考課は保任とともに本志の最後に位置するが、宋制でも任期中の評価項目が徐々に具体的に定められていった。
 太祖は勤務実績を重視する姿勢を取ったこともあったが(833条)、宋初には期間が過ぎれば自動的に昇進するのが基本だったようだ(832、834〜836条)。だがこうした「歳月叙遷の制」(832条)では実績が上がらないとして、やがて唐制に準じ、州県の戸口によって考を進めることとした(837、839条)。宋初は幕職州県官の昇任や改官に関係する記述が目立つ(835、836、844、845条)ものの、徐々に京朝官を含めて、「課」により官を勤務評定する考課制度が整備されて行くこととなる。宋初に県尉の課が定められたが(840条)、ことに神宗期には職(差遣)にはみな課を設ける方針が示され(864条)、知県県令、監司、守令、中央の郎官などの考課についても整備が進んだ(865、873条)。南宋初期には靖康の変による混乱を受けて、再び戸口の増減などによる監司や州県官の考課制度の立て直しや具体化が図られる(877〜885条)。
 この課とは「善」や「最」からなる評価項目の意である(864、865、873、973条)。宋制の下敷きとなった唐制では、守令は四善二十七最によって評価された。四善は「徳義有聞」など四つの徳目であり、二十七最はそれぞれの職務内容に関係した勤務姿勢などからなる(865条)。以降宋・金の考課法ではこの四善の徳目はほぼそのままに、具体的な職務の分野に則したいくつかの最を随時定めて考課基準とすることが多く、例えば北宋の県令は四善三最によって評価され、最には「獄訟無冤」(治事の最のひとつ)などの一〇項目の具体的な「事」が定められて、その内のいくつを満たすかで上中下の三等にランクされた(873条)。また、南宋の守臣県令は四善四最(973、976条)により評価されたが、監司や転運使はいくつか(南宋では一五)の事によって評価された(976条)。
 また、考課機関の沿革も、北宋の主要なトピックとなっている。幕職州県官の考課機関と京朝官のそれとは分立しており、京朝官については、太平興国六年設置の差遣院、淳化三年設置の校考京朝官院(考課京朝官院、磨勘京朝官院とも)があり、また幕職州県官については幕職州県官院(校考幕職州県官院、考課幕職州県官院とも)があったが、淳化四年、前者は審官院に、後者は考課院に改められた(848条)。考課院はその後、流内銓に併合され(851条)、煕寧に廃止される(868条)。
 だが実際には、自動的に年限を計算して昇進して行くことが多かったようで、実績を有効に考課して適宜昇進させることは難しかったようである。本章の北宋部分では、考課制度によって実際に黜陟などが行われた事例が幾つか記されているものの(842、847、852、854、858、863条)、特に北宋末から南宋にかけ、制度の空文化が問題となってきた(会要職官五九大観元年八月二十八日、容斎四筆七考課之法廃)。ことに監司による州県官の評価が行われず、混乱期ではあったが紹興年間の初めの五、六年で法令どおり監司による考課が行われたのは潼川路の一回のみであったともいう(要録一〇〇紹興六年四月庚子)。そのような状況下で、南宋中期には監司の按ずる所の多寡によって監司の殿最とする何溥の法(886条)や、淳煕臧否が実施されるに至る(892、893条)。公正な勤務評定が難しかったことは、考課制度の持つ根本的な問題点だったようだ。

832 考課。宋初、舊制に循い、文武の常參官(一)は、各ゝ曹務の閑劇を以って月限(二)と爲し、考滿(三)つれば即ち遷す。太祖謂えらく「名に循い實を責むるの道に非ず」と。歳月敍遷の制を罷む(四)。

   (イ)会要職官一一磨勘建隆二年五月十七日 (ロ)会要職官五九考課冒頭の欄上の建隆二年 (ハ)会要補編考課建隆二年 (ニ)長編二建隆二年五月己卯 (ホ)通考三九選挙考一二考課建隆二年 (ヘ)玉海一一八淳化考課院建隆二年五月己卯 (ト)山堂考索後集一五考課建隆二年
(一)「常參官」毎日参朝する資格を有する官。612条に「蓋し前代の朝官は一品自り以下、皆な常参官と曰い、其の未だ常参せざる者は未常参官と曰う。宋は常参せる者を目して朝官と曰い、秘書郎而下、未だ常参せざる者を京官と曰う」とある。また老学庵筆記八(周藤吉之編『宋史食貨志訳注』、東洋文庫)に「唐、相輔自り以下、皆な之れを京官と謂い、京師に官するを言うなり。其の常参する者は常参官と曰い、未だ常参せざる者は未常参官と曰う。国初、常参官の朝謁に預かるの故を以って之れを升朝官と謂い、而も未だ預からざる者は京官と曰う。元豊官制行われ、通直郎以上の宴坐に朝預するを以って仍お之れを升朝官と謂う。而して唐制を按じて、京官の名を去り、凡そ条制及び吏牘は、止だ之れを承務郎以上と謂うも、然れども俗には猶お之れを京官と謂う。唐の所謂丞郎は、左右丞・六曹・侍郎を謂うなり。尚書左右丞の上に序すと雖も、然るに亦た通じて之れを丞郎と謂い、猶お今侍従官と謂うなり」とあり、春明退朝録中には「唐の在京文武官職事九品以上は朔・望の日に朝し、其の文官五品以上・監察御史・員外郎・太常博士は毎日參ず。〔中略〕国朝諸ゝの在京文武陞朝官は毎日朝す」とあるように、参朝する資格のある升朝官(略して朝官という)を指し、宋代では文官は太子洗馬より以上、武官は内殿崇班より以上の升朝官(朝官)を言う。
(二)「月限」は、長編三建隆三年十一月甲子の条に有司の言として「京官月限の多少等しからず。三十六月を以って満と為す者あり。三十月を以ってする者あり」とあるように、勤務評定に必要な一定月数を意味する。612条(16)参照。
(三)「考満」年数が満ちること。一年で一考、三考で任満となるのが考課の基本理念だが(599条参照)、宋代では様々な計算法があり、実際は必ずしもそうではなかった(梅原郁二三四〜二三九頁)。
(四)「歳月敍遷の制を罷む」「歳月敘遷の制」は(イ)では「歳満敘遷の典」、(ロ)(ハ)では「歳満序遷の典」。(イ)に「太祖建隆二年五月十七日、右監門衛将軍魏仁滌等、酒[麹]市征を監臨するに、額外に羨利有るを以って、並びに命じて秩を遷す。故事、文武常参官は、曹事の繁省を以て月限と為し、考満つれば則ち遷す。慶恩止だ階勳・爵邑を転ずるのみ。太祖、名に循い、実を責め、労有る者に非ずんば、未だ嘗つて秩を進めず、と。是れ自り、歳満叙遷の典、復た挙げず」と、建隆二年五月十七日、魏仁滌らが酒[麹]商税を掌るに当たり、規定以上の成績を挙げたので昇進させたことに見られるように、太祖は個人の実績を重視し、一定期間を無事通過したものは自動的に昇格させられる制度が改められたことを言う。会要職官一一磨勘景徳四年七月四日には「詔す、審官の京朝官課績を考較するに、見任官三年已上の者は、方に引対するを得。特に考課せしむる者は、此の限りに在らず」云々とある。


833 審官院(一)を置き、中外の職事(二)を考課せしむ。受代(三)せし京朝官は引對・磨勘し(四)、勞績有るに非ずんば、秩(五)を進めず(六)。

   (イ)通考三九選挙考一二考課建隆二年(止斎陳氏曰)
(一)「審官院」設置時期と京朝官引対・磨勘の開始時期が、宋史本文、(イ)ともに太祖朝とあるのは誤り、淳化四年である。848、853条参照。
(二)「職事」ここでは差遣をもつ官人をいう。
(三)「受代」は任満ちて、差遣を交代すること。
(四)「京朝官は引對・磨勘し」京朝官の引対・磨勘は、第三代真宗の咸平四年四月十五日から始められた。853条参照。
(五)「秩」ここでは寄禄官のこと。
(六)「勞績有るに非ずんば、秩を進めず」832条(ホ)には「因りて歳月叙遷の制を罷む。労有る者に非ざれば、未だ秩を進めず」とあり、続けて(イ)の陳傅良の説明が「太祖[宗]審官院を置き、中外の職事を考課せしむ。受代せし京朝官を引對・磨勘す。蓋し序進の制を復す」とある。元来、審官院を置き中外の職事を考課したという本条の前半部分は、前条の太祖が歳月叙遷の制を罷めたことと、本条後半部分の労がなければ秩を進めなかったことに関連して通考に引かれた、陳傅良の説明である。なおこのころ、京朝官の引対・磨勘が盛んに行われているが、その例として会要職官一一磨勘咸平五年八月十六日の条に「秘書丞直史館判三司度支勾院孫冕を以って左正言と爲し、度支判官秘書丞孫航を監察御史と爲し、……職は故の如くす。是れ自り先、京朝官、中外職事に任じて受代せば、考課・引対して、多く敍遷を獲。而して計司・三館、茲の例に預からず。久次なる者有らば、内、姓名を出さしむ。故に是の命有り」とある。


834 其の後、法を立て、文臣は五年、武臣は七年、贓・私罪無くんば、始めて秩を遷するを得(一)。曾つて贓罪を犯さば、則ち文臣は七年、武臣は十年、中書・樞密院をして、旨を取らしむ(二)。

  (イ)会要職官一一磨勘咸平五年十二月十三日 (ロ)長編五三咸平五年十二月丙戌 (ニ)通考三九考課建隆二年 (ホ)建隆編
(一)「其の後……遷するを得」「文臣」について(イ)に拠れば、「審官院に詔す。京朝官を考較するに、今、任五年以上、贓・私罪無き者は、名を以って聞せしめ、當に議して其の秩を遷すべし。諸路の轉運副使[使副]は、中書をして進擬せしむ」とある。「武臣」については、長編六三景徳三年六月戊子の条に「三班院に詔す。使臣を考較するに、七年を以て限と爲す。嘗て徒以上の罪有る者は、赦されて自り後、年を理して考課す」とある。
(二)「文臣は七年……旨を取らしむ」会要磨勘天禧三年十一月十九日の赦書に、「京朝官、遷秩三年に及ぶ者は、並びに改官を与う。歴任して、曽て贓罪を犯し、七年を経たる者は、中書門下に委して、旨を取らしむ。掌事の三班使臣、磨勘の年限に及ぶ者は、並びに与に班行に改転す。内、曽て贓罪を犯し、十年を経たる者は、枢密院に委ねて、旨を取らしむ。掌事の殿直已下、供奉官に至るまで、閤門祗候を帯するは、自今、五年に及ぶも、未だ遷せざる者は、枢密院をして、考課して、以聞せしむ。其の三班使臣の年限、合該まさに磨勘すべきは、自今、外任に在りと雖も、並びに与に施行せよ」とある。


835 其れ七階選人(一)は、考第・資歴(二)に則し、過犯無く、或いは勞績有る者は遞遷せしむ。之れを循資(三)と謂う。

   (イ)通考三九考課建隆三年(止斎陳氏曰云々)
(一)「七階選人」選人は候選人、すなわち選を待つ人のことで、京官となり得る有資格者。科挙に合格して、直ちに京官となることができず、暫く地方の役職を歴任しなければならず、当時、幕職官が四等、州県官が三等の七階に区分されていた。訳注
(二)「考第・資歴」次条及び610条参照。
(三)「循資」この場合は、選人の七資を進めること。610条(四)、620条宋初文官改官遷秩表参照。


836 凡そ考第の法、内外の選人は、一歳を周るを一考と爲す。日を欠かば、考を成すを得ず。三考して未だ替わらざれば、更に一歳を周らし、書して第四考と爲す。已書の績は重計するを得ず(一)。

  (イ)通考三九選挙考一二考課
(一)「凡そ……得ず」(イ)では、「六年」(乾徳あるいは開宝)に繋けて、州県官の罷任に際し、治所の廨舎・倉庫の損壊や増修を考課に記すことなどを命じた詔があり、その末尾に本条の記事があるが、本条の具体的内容はすでに599条(乾徳二年)とその基本資料に見えている。


837 初め令に著す(一)「州縣の戸口、見戸に準じ、十分に一を増さば、刺史・縣令、考を進ましむ。若し一分を耗へらさば、考を降すこと一等(二)」と。建隆三年、又た科賦に欠有り十の一を踰ゆるもの、及び公事曠違し嘗つて制有りて罰を受くる者を以って、皆な戸口を耗らすが如く考を降す(三)。

   (イ)会要職官五九考課建隆三年十一月十日 (ロ)会要補編考課建隆三年十一月十日 (ハ)長編三建隆三年十一月甲子 (ニ)通考三九選挙考一二考課建隆三年 (ホ)山堂考索後集一五考課建隆三年十一月甲子
(一)「初め令に著す」の令は、考課令をいう。(イ)(ロ)には「有司上言す。考課令に準じ……」とある。
(二)「州県の戸口……、考を降すこと一等」『唐令拾遺補』は、通典十五考績、宋刑統職制律九、(ハ)、通考三五考課、日本養老令などから「諸州県官人……、各ゝ見在戸に准じ〔在は続資治通鑑長編、通考並びに无し〕、十分と為して論じ、一分を加うれば一等を進ましめ、刺史・県令、各ゝ考を進ましむること一等、一分を加うるごとに一等を進ましむ。……戸口の減損せし者は、各ゝ増戸法に准じ、亦一分を減ずれば一等を降し、一分を減ずるごとに一等を降す」云々として考課令を復元している。
(三)「建隆三年……如くす」基本資料によれば、当時すでに、前条に示された考課令に則った戸口の増減による昇進に際し、考帳の闕失を点検するのみですべて下考と書してしまう弊害に陥っていたため、有司の上言によってあらためて本条に見えるように科賦の欠と公事の曠遺が考課の基準として強調された。


839 吏部南曹(一)、又た周制(二)を擧げて請う「州縣官、戸を益し、税を増さば、受代の日に、並びに籍に書す。凡そ千戸以下、能く百戸を増さば、一選を減じ、減ずること三選以上に及ばば、令は章服(三)を賜い、主簿は秩を升し、階を進ましむ。能く逋亡の民を歸復せる者も亦た、之くの如くせんことを」と。

(一)「吏部南曹」は吏部員外郎。神宗期、流内銓に併合された。598、638条参照。
(二)「周制」周の戸口の増加による州県官の優遇措置について、五代会要二〇県令周広順元年二月条記載の勅に見える「罷任せし県令・主簿の招添し到る戸口、其れ一千戸以下の県は、増添し二百戸に満つる毎に一選を減じ、三千戸以下の県は、三百戸毎に一選を減じ、其れ四千戸以下の県は、四百戸毎に一選を減じ、万戸以下の県は、五百戸毎に一選を減ず」と、一千戸以下の県で一選を減ずる基準を百戸増加とする本条より厳しい。
(三)「章服」


840 是の年、縣に始めて尉を置き(一)、捕盜條を頒つ(二)。給するに三限を以ってし、限は各ゝ二十日。三限の内に獲うる者は、令・尉、等第して賞を議す。三限外に獲えざれば、尉は罰すること一月の奉、令は之れに半ばす。尉は三罰、令は四罰もて皆な一選を殿し(三)、三殿もて官を停す。令・尉、賊と闘いて、能く盡く獲うる者は、緋(四)を賜いて、升擢す。

  (イ)会要職官五九考課建隆三年十一[二]月二十二日 (ロ)会要兵一一捕賊建隆三年十二月十六日 (ハ)長編三建隆三年十二月庚子
(一)「縣尉」盗賊・闘訟に当たる県官。武挙・軍功・獲賊・奏補の出身者が注せられたとされる。(イ)の二十二日は十一月に繋けているが十二月二十二日の誤り、県尉が置かれたのはこの年の十二月九日である。金井徳幸「南宋における立廟と県尉」『立正史学』六八、一九九〇、柳田節子「宋代の県尉−土地問題に関連して−」(『宋元社会経済史研究』創文社、一九九五所収)、陳振「論宋代的県尉」(トウ広銘・徐規等主編『宋史研究論文集』浙江人民出版社、一九八四)、および498条注(一八)所引曽我部論文、羽生論文参照。(曽我部静雄「宋代の巡検・県尉と招安政策」『東北大学文学部研究年報』一四、一九六三、『宋代政経史の研究』)。
(二)「捕盜條」基本資料はすべて「捕賊條」とする。(ロ)には、有司の上った「捕賊條」を、この時詔して頒行したとある。内容は(ロ)に最も詳しく、巡検との協力、一任内に事がなかった場合の推賞、横領への罰則なども見える。(イ)はもと「令・尉、賊と闘いて……升擢せん」の部分を載せず、欄外に本志によって補う。この「捕賊條」は、開宝元年(乾徳六年)以降たびたび改定されている(曽我部前掲論文もう一度見直し)。
(三)「一選を殿し」は、前条839(三)の「一選を減ず」の反対で、候選年数を延長する処罪措置。荒木二八〇頁、内河久平「宋初守選人について−「選」の解釈をめぐって」『中嶋敏先生古稀記念論集』(上)、汲古書院、一九八〇参照。
(四)「緋」前条839(四)参照。章服中の四、五品の者が着る緋衣のこと。宋史一五三輿服志一〇六諸臣服下、宋会要輿服四公服などによれば太平興国ころまでは唐制に倣ったようである。五九九条、宋史輿服3565、燕翼詒謀録、五代会要、旧五代史一五〇一頁


841 乾徳四年詔す「諸縣の令・佐、能く招攜・勸課し、以って民籍を蕃庶するを致し、租額、其の元數を出づる有らば、一選を減じ、仍お一階(一)を進ましむ(二)」と。

  (イ)詔令集一八二政事三五田農乾徳四年八月勧栽植開墾詔 (ロ)会要食貨一農田雑録乾徳四年閏八月
(一)「階」寄録官階のこと。階官について595条注(四)、622条注(四)、620条注(四)など参照。
(二)「一選を減じ、仍お一階を進ましむ」(イ)に拠れば、「舊と一選を減ぜられし者は、更に一階を加う」(ロも略同)とあり、本条が減一選と進一階が同時に行われたとも解し得るのとは異なる。


842 太宗、勵精し、治を圖る。官を遣わし、郡縣に分行し、官吏を廉察せしむ。河南府法曹參軍(一)高丕(二)等(三)、皆な任に勝えざるを以って、官を免ず(四)。

  (イ)長編一八太平興国二年五月辛酉・壬戌
(一)「河南府法曹參軍」のちの四府の一である河南府の属官の一。
(二)「高丕」不明。
(三)「等」(イ)によれば、高丕のほかに伊闕県主簿羽隹リン[山隣]、鄭州ケイ[煢水]沢県令申廷温が同時に免官されている。
(四)「太宗……官を免ず」このことは(イ)によれば、「上、励精し、理を求む。前さきに転運使に詔し、諸州の凡ゆる諸職任を考案し、其の優劣を第す。尋いで復た使を遣わし、諸道に分行し」云々とあり、以下壬戌の日付とともに高丕・羽隹リン[山隣]・申廷温の記事が続く。


843 復た諸道に詔し、部内の官を察舉し(一)、其の優劣を第して三等と爲し、政績尤異(二)なるを上と爲し、職務粗治(三)なるを中と爲し、臨事弛慢、所@無状なる者を下と爲し、歳終に以聞せしむ。((@=サンズイ位))

   (イ)会要職官五九考課開宝九年十一月八日 (ロ)長編一七開宝九年十一庚午 (ハ)山堂考索後集一五開宝九年十一月庚午 永楽大典一二三〇八開宝九年一一月戊辰
(一)「復た諸道に詔し、部内の官を察舉し」 (イ)では「知州・通判・監臨事務官吏」を、(ロ)(ハ)では知州・通判・監臨物務の京朝官等を、転運使に評価させたとある。
(二)「政績尤異」 以下、(イ)では下、中、上の順に記し、「治状尤異、大有殊績」なる者を上とするとある。
(三)「職務粗治」 基本資料はいずれも「恪居官次、職務粗治」とする。


844 是れより先、諸州掾曹(一)及び縣令・簿・尉、皆な戸部南曹(二)、印紙・暦子(三)を給し、州郡の長吏(四)をして其の績用・愆過を書せしめ、秩滿つれば、有司に送り、其の殿最(五)を差わかてり。有司に詔して申明せしめ、其れ諸州、公據(六)を別給するは、之れを罷む。

   (イ)会要職官五九考課太平興国二年正月十一日 (ロ)長編一八太平興国二年正月壬申 (ハ)通考三九考課太平興国元年 (ニ)山堂考索後集一五考課太平興国二年正月十日 (ホ)玉海一一八淳化考課院太平興国二年正月壬申 
(一)「掾曹」 (イ)(ニ)(ホ)(ヘ)は「曹掾」、「曹掾官」などとする。州の幕職官。
(二)「戸部南曹」 吏部南曹の誤り。(イ)(ロ)ともに吏部南曹とする。
(三)「印紙・暦子」 略して両者を印暦、暦紙ともいう。吏部南曹より支給され、本人の考課が記される勤務評定書。告身、家状などとともに、官員の転官のとき必要であった。類似の勤務評定書には様々なものがあったようだが、(イ)に詔として「……応ゆる諸道の州府の曹掾官、及び県令・簿・尉、是れより先、吏部南曹、印紙・暦子を給し、州県の長吏をして其の績用・愆過を書せしめ、秩満つれば有司詳視して其の殿最を差[わか]つ。斯れ旧章なり。執事者、其れ之れを申明せよ」云々とあるように、南曹が印紙暦子を支給するという本条の規定−(ロ)では「書暦の制」−をこのとき改めて申明し、その他の州県官の考課にかかわる公拠・公憑(注六参照)は廃止された。古垣光一「宋初の考課について−太祖・太宗時代の整備過程を中心として」(『目白学園女子短期大学研究紀要』一〇、一九七三)、金円「宋代州県守令的考核制度」(『宋史研究論文集』、浙江人民出版社、一九八四)、曽小華「宋代磨勘制度研究」(『宋史研究集刊』、浙江古籍出版社、一九八六)、トウ小南七七頁参照。
(四)「州郡の長吏」 府州軍の長、すなわち守臣。
(五)「殿最」「最」は上功、「殿」は下功、あわせて成績の最もよい者、悪い者。
(六)「公據」 公の証明書。訳注(一)一四六条参照。(ニ)に「先ず、暦子より外に公據を給せる者は、之れを罷む」とあるが、(イ)はこの公拠を公憑とする。(ロ)には「壬申、公據を罷め、書歴の制を申明す」とある。


845 判吏部南曹董淳(一)言う、「有司の批書せる印暦(二)、闕略する所多し。令して一事を漏書せば一選を殿し、三事なれば一資を降さしめよ(三)」と。是れ自り職事官、州縣に依り南曹暦子を給す(四)。

  (イ)会要職官五九考課太平興国三年二月二日 (ロ)長編一九太平興国三年二月丁巳 (ハ)通考三九考課太平興国元年 (ニ)山堂考索後集一五考課太平興国三年二月
(一)「董淳」 後周広順二年進士、工部員外郎、直史館などを歴任、世宗実録、孟昶紀事、太祖実録の編纂にかかわった。宋史439に伝
(二)「印暦」 844条(三)参照。(イ)(ニ)の董淳の言では、前条の内容を受けて「諸州の録事掾・縣令簿尉、先に南曹暦子を給す。州吏の批書、闕略する所多し」と、南曹暦子について述べる。この州県官の暦子に書すべき内容について、(イ)では「館驛・義倉・官市牛皮・筋角・前代帝王陵寢・嶽涜河海祠廟、及監給麹・商税・[麦台][麦代]等」(全宋文六八六頁)が例として挙げられている。2条、252条参照。
(三)「一事を漏書せば……一資を降さしめよ」 基本資料にはさらに詳しい。(イ)によれば「敢えて一事を漏せし者は一選を殿し、三事なれば一資を降さしめよ。初めて令録に入りし者は、只だ本資に於いて降さしめ、州県の吏は笞責を加えよ」と、遺漏が一件で銓選の一年見送り、三選で差遣資序が一資進むので、遺漏三件では一資もどすが、入仕したばかりの令録は、それ以下の簿尉にまでは降ろさない。「選」については内河久平「宋初守選人について−「選の解釈を巡って」(『中嶋敏先生古稀記念論集』上、一九八〇)参照。「殿一選」については訳注(二)593、611参照。
(四)「是れより職事官……給す」 この句は基本資料に見えない。


846 天下の知州・通判(一)、京朝官の外そとに釐務する者は、給するに御前印紙(二)を以ってし、課績(三)を書せしむ。  

  (イ)会要職官五九考課太平興国六年二月一日 (ロ)長編二二太平興国六年二月癸巳 (ハ)宋大詔令集一九八太平興国六年正[二]月癸酉 (ニ)山堂考索後集一五考課太平興国六年二月 (ホ)玉海一一八選挙考課淳化考課院太平興国六年二月癸酉 
(一)「知州・通判」基本資料に見えない。「京朝官の外に釐務せる者」の例である。
(二)「御前印紙」 幕職州県官の考課が南曹暦子により行われたのに対し、地方に勤務する京朝官には、この御前印紙が給されることとなった。のち太宗は、みずから選んだ升朝官に御前印紙を給し、「満つる日に、自ら御前に齎赴」(会要五九考課淳化五年五月十九日)させたが、「朋黨比周し、迭相たがいに容蔽す」等々の弊害があったため、このとき詔で「自今、応ゆる出使臣僚、在任の日の労績、尤異なる者に非ざれば、批書するを得ず、曽つて殿犯有らば、隠匿するを得ず。其の余の経常事務は、批書の限りに在らず」とした(イ)。雍煕四年には、本条の方式を受け、さらに御前印紙に書すべき内容の拡充があった(長編二八雍煕四年三月庚辰)。844条注3所引諸文献参照。
(三)「課績」600、601条参照。


847 時に蒋元振(一)、白州(二)に知し、爲政は清簡、民甚だ之れを便とす。秩滿(三)つるや、衆輒ち部使(四)に詣いたりて留めんことを乞う。凡そ十有八年(五)、未だ受代せず。姚益恭(六)、清白にして才幹あり、[軍邑]州須城縣(七)に知す。鞭朴施さず、境内大いに治まる。淳化初め(八)、採訪使(九)各ゝの其の状を言う。詔を下して褒嘉し、元振に絹三十匹、粟五十石(一〇)を賜い、益恭に對衣(一一)・銀帶(一二)・絹五十匹(一三)を賜う。

  (イ)長編三一淳化元年十月乙丑・丙寅
(一)「蒋元振」崇禎廉州府志九−六、及び七−一〇。
(二)「白州」 広西博白県
(三)「秩滿」 はその差遣の任期が満了すること。
(四)「部使」 は部使者、宋代では監司。627、634条参照。(イ)には「頗る簡易を以って政を爲し、民甚だ之れを便とす。秩滿ち遷らんとするに、転運使、留めんことを乞い、凡そ七、八年、代わるを得ず」とあるが、「民数千人、三たび転運使を遮りて留めんことを乞う」と民が転運使にその留任を求めたという記述は、丙寅の姚益恭のこととして記されている。
(五)「十有八年」 (イ)は七、八年とする。
(六)「姚益恭」嘉靖山東通志二六−一二、万暦〓[六允]州府志三八−三三参照。
(七)「[軍邑]州須城縣」山東東平県。
(八)「淳化初め」(イ)によれば、淳化元年十月の乙丑に蒋元振、丙寅に姚益恭にこの下賜があった。
(九)「採訪使」 (イ)では、蒋元振、姚益恭いずれについても「采訪使、其の状を言う」とある。長編三二淳化二年九月庚子条によれば、王化基が献じた『澄清略言五事』の第三として貪吏を懲らすことが求められ、「望むらくは、諸路轉運副使に採訪使の名を兼ねしめ、令して部内州府監軍長吏を覺察せしめ……上、其の言を嘉納し、即ち大用に意有り」云々という。
(一〇)「粟五十石」 (イ)では「米五十石」。
(一一)「對衣」 両宋を通じ、しばしば金帯とともに、功臣に賜与された。
(一二)「銀帶」 銀の飾りのある帯。翰林学士承士李[日方]が詔を奉じて詳定した車服制度では、従三品以上は玉帯、四品以上は金帯(訳注(一)三二五条参照)、それ以下の升朝官と升朝官でなくとも紫緋を賜ったもの、内職諸軍将校は、服紅[革呈]金塗銀排方。升朝官であっても緑を着するものは、公服の上に銀帯をしめることができない、その他の官は黒銀方団胯及び犀角帯を服することができる、とされた(宋史一〇六輿服「帯」。および三四七一頁)。
(一三)「絹五十匹」 (イ)では「絹三十疋、粟二十石」。


848 四年、始め磨勘(一)の司を分置せしが(二)、審官院(三)は京朝官を掌り、考課院(四)は幕職州県官を掌る。差遣院(五)を廃し、審官をして之れを總べしむ。

   (イ)会要職官一一審官東院淳化四年二月 (ロ)会要職官五九考課淳化四年二月十八日 (ハ)会要補編尚書左選審官東院(冒頭)淳化四年 (ニ)長編三四淳化四年二月丙戌 (ホ)通考三九考課淳化四年 (ヘ)通考五二吏部員外郎淳化四年 (ト)山堂考索後集一五考課太宗 (チ)山堂考索後集一五考課淳化四年 (リ)玉海一六八淳化審官院 (ヌ)燕翼詒謀録二? (ル)省軒考古類編八銓選 (ヲ)稽古録一七
(一)「磨勘」宋初には考課と同じ意味で用いられることもあったが、やがてその用法は乖離してゆき、考課は成績、磨勘は考課とともに挙主などを審査して行くことを言うようになる(苗  頁)。
(二)「始め磨勘の司を分置せしが」(ハ)に「淳化三年、磨勘京朝官院を置く。四年、之れを改む」とあるように、前年には磨勘京朝官院(名称につき次注参照)が置かれていた。
(三)「審官院」この年、京朝官の考課を掌る校考京朝官院(前年設置)が審官院に、幕職州県官の考課を掌る幕職州県官院が考課院に改められた。さらに太平興国六年設置の、京朝官考課を掌る差遣院も、このとき審官院に併合された。ここでは京朝官考課の機関名として磨勘と考課は通用されており、(イ)(ロ)には、「考校京朝官院」とあるが、(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)では「磨勘京朝官院」等と記し、(ヌ)は「考課京朝官院」とする。(ニ)は磨勘京朝官院を審官院に、磨勘幕職州縣官院を考課院となした背景として「磨勘の名は典訓に非るなり」との金部員外郎謝泌の言を引く。一方、ソク水記聞二は、このとき中書の権をそぐべく、向敏中の請で官房に審官院が置かれたとする。833、868条参照。
(四)「考課院」それまで幕職州県官の考課を掌っていた校考幕職州県官院((ヌ)では考課幕職州県官院)が、このとき考課院と改められた((ロ)(ニ)(ホ))。廃止は煕寧五年(868条)。849´、851条にも見える。
(五)「差遣院」太平興国六年九月十二日に置かれ、京官・朝官の注擬および考課を掌ったが(612条参照)、このとき審官院に併入された。この差遣院の一文は独立させてもよいが、ここでは(ハ)(ヘ)を参照し、本条の一部とした。


849 乃ち詔す「郡縣に治行尤異・吏民畏服・居官廉恪・シ位事明敏・トウ訟衰息(一)・倉廩盈羨・寇盜剪滅・部内清肅なる者有らば、本道轉運司(三)は、各ゝ名を以って聞し、當に驛置(四)もて闕に赴かしむべし。親しく其の状を問い、旌賞を加えん。其の貪冒無状・淹延トウ訟・踰越憲度・盗賊競起・部内不治(五)なる者も、亦た其の状を條し以聞せよ。當に貶斥を行うべし」と。

   (イ)会要職官五九考課淳化三年十月十六日 (ロ)会要補編考課淳化三年十月十六日 (ハ)長編三三淳化三年十月戊寅 (ニ)山堂考索後集一五考課淳化三年十月戊寅 
(一)「トウ訟衰息」(イ)(ロ)(ニ)は「獄訟無滞」。
(二)「倉廩盈羨」(イ)(ロ)(ニ)は「倉庫盈羨」。
(三)「轉運司」監察区分である道(至道三年以降は路)を単位として置かれ、財政などを掌った機関。監察の任も重く、人事にも権限をもった。864条(五)の監司に関する諸文献参照。
(四)「驛置」駅站の制度・機構・設備。趙効宣『宋代駅站制度』(聯経出版事業公司、一九八三)参照。
(五)「貪冒無状……部内不治」(イ)(ロ)(ニ)では「貪猥自私・臨シ位無[(ロ)は毋]取・稽留犬干[(ニ)は狂]獄・叛離言[(ニ)は官]次・盗賊群起・賄賂公行」とする。


849 翰林學士錢若水(一)・樞密直學士劉昌言(二)を以って審官院を同知し、功過を考覆し、以って升降を定めしむ。又た判流内銓翰林學士蘇易簡(三)・知制誥王旦(四)等を以って考課院(五)を知せしむ。其の職を重んずればなり(六)。凡そ流内銓(七)は常調選人(八)を主り、考課院は奏舉(九)及び歴任し殿最(一〇)有る者を主る。

  (イ)会要職官一一審官東院淳化四年五月 (ロ)会要職官五九考課淳化四年五月二十日 (ハ)会要補編考課淳化四年五月二十日 (ニ)長編三四淳化四年五月丁未 (ホ)通考三九考課(端拱)四年 (ヘ)山堂考索後集一五考課?
(一)「錢若水」(九六〇〜一〇〇三)字は澹成、一に長卿。河南新安(県)の人。太平興国五年進士。宋史二六六に伝。
(二)「劉昌言」(九四二〜九九)字は禹言莫。泉州南安(県?)の人。太平興国五年進士。のち枢密直学士に任ぜられ、銭若水と同知審官院となる。宋史二六七に伝。
(三)「蘇易簡」(九三五〜一〇一〇)字は太簡。梓州銅山(県?)の人。太宗の時の進士。文章をもって知られる。淳化二年に知審刑院となり、吏部選を掌り、給事中・参知政事へ遷り、三年には出でて知〓州(トウ小平)となり、至道二年卒す。宋史二六六に伝。翰林学士承旨、何忠礼。(イ)によれば、本条の規定は蘇易簡の奏に従った結果である。
(四)「王旦」(九五七〜一〇一七)字は子明。大名府艸辛県(?)の人。劉昌言、蘇易簡同様、太平興国五年進士。地方官を歴任した後、知制誥となり、さらに知考課院となった。咸平四年参知政事。宋史二八二に伝。彼らが「考課院を知せしむ」とあるのは(ニ)では「同に兼知す」とある。王瑞来「平世の良相」
(五)「考課院」833条に示したように、設置は淳化四年二月十八日。その後流内銓に帰したが、その時期については851条参照。
(六)「其の職を重んずればなり」(ホ)の本条に続く部分で馬端臨は、唐では考課が吏部の考功郎中に委ねられるに過ぎなかったが、「宋興の初、祖宗特に其の事を重んじ」、王シ丐・謝泌など清望の官が特に命ぜられてこの任にあたり、また審官院・考課院の同知にも本条に以下登場するような名流貴官が長官に当てられた、と述べる。
(七)「流内銓」このころの流内銓については580〜582条参照。
(八)「常調選人」通常の循資によって昇進して行く選人を云う。
(九)「奏舉」前注の常調に対し、推薦などにより選人が昇進してゆくこと。610条(四)参照。
(一〇)「殿最」(ホ)には「奏舉、及び歴任し私累有る官は、考課院之れを主る」とあり、さらに(ニ)は「殿累」(悪い記録)とする。


850 明年、帝親しく京朝官三十餘人(一)を選び、自ら戒諭の言を印紙に書して曰く「政に勤め民を愛し(二)、法を奉じ姦を除かば、方はじめて書して勞績と爲す可し」と。且つ錢若水に謂いて曰く「法を奉じ姦を除くの言、諸臣の未だ喩らず、因りて事を生ぜんことを恐る。之れに語りて、『姦を除くの要は法を奉ずるに在り』と曰う可し」と(三)。

   (イ)会要職官五七俸禄淳化五年五月 (ロ)会要職官五九考課淳化五年五月二十七日 (ハ)会要補編考課淳化五年五月二十七日 (ニ)長編三六淳化五年五月戊寅 (((ホ)玉海削除))
(一)「三十餘人」大理正尹王己ら。(ロ)(ハ)は「二十餘人」に作る。
(二)「政に勤め民を愛し」基本資料ではいずれも「公務刑政、惠愛もて民に臨み」とある。
(三)「錢若水……曰うべし」と」錢若水については849条注4参照。(ロ)(ハ)では「知審官院錢若水をして之れを分賜せしむ」とあるのみ。(ニ)には、太宗が「法を奉ず」は「姦を除く」の要だと強調、これを尹王己らに諭した、とある。


851 至道の初め、考課院を罷め、流内銓に併す(一)。

(一)「考課院……併す」考課院が最終的に廃止されたのは、のちの煕寧五年(868条)。この至道二年には、考課院の幕職州県官の磨勘引対黜陟業務が流内銓に吸収された。宋史一六三職官三吏部に「淳化中、又た考課院を置き、幕職州県官の功過を磨勘し、引対・黜陟す。至道二年、其の事を以って流内銓に帰す」とある。580条(一)参照。


852 二年、使を遣わして諸道の長吏を廉察せしむ。八人(一)の〓水位事公正、惠愛及民なるものを得たり。皆な璽書を降し奬諭す。

  (イ)長編三九至道二年四月戊子
(一)「八人」 (イ)に「是れより先、遣使し、川峽諸州府弐の能否を采訪するも、治まらざるもの多し。独り知[キ]州袁逢吉・知遂州李虚己・通判査道・知忠州邵[火日立]・知雲安軍薛顔等七人、称職を以って聞こゆ。戊子、皆な詔書を賜い、奬諭す」とある。何忠礼二七五頁参照。


853 眞宗即位するや、審官院に命じ、京朝官の殿最を考せしめ、引對して遷秩(一)す。京朝官の引對・磨勘、此れ自り始まる(二)。是れより先、恩慶毎ごとに百僚多く序進を得たり。帝始めて之れを罷め、惟だ郊祀の恩、勲階(三)・爵邑(四)を加うるを許す(五)。

   (イ)会要職官一一磨勘咸平四年四月十五日 (ロ)会要職官一一審官東院咸平四年四月一五日 (ハ)長編四八咸平四年四月壬子 (ニ)通考三九選挙考一二考課咸平四年 (ホ)山堂考索後集一五考課真宗
(一)「遷秩」 寄録官を進める意だが(ハ)は「選秩」とする。遷秩は620条(四)参照。
(二)「京朝官の……始まる」833条にも「受代せし京朝官は引對・磨勘し、勞績有るに非ずんば、秩を進めず」というが、このころ徐々に京朝官の引対・考課が行われるようになったと考えられる。
(三)「勲階」 宋史一六三職官志吏部司勲郎中員外郎によれば、上柱国・柱国・上護軍・護軍・上軽車都尉・軽車都尉・上騎都尉・騎都尉・驍騎尉・飛騎尉・雲騎尉・武騎尉の一二の勲級があった。
(四)「爵邑」封号。宋には一二等があった。
(五)「帝始めて之れを罷め……許す」(イ)(ロ)(イロかどうか念のため再確認)には「舊制、郊祀の恩、百僚多く序進を獲たり。眞宗即位す。諌官孫何・耿望上疏し、之れを罷め、以って僥倖を塞がんことを請う。是に於いて止だ勲階・爵邑を加うるのみ。而して有司に命じて其の殿最を考し、臨軒して之れを黜陟す」とある。


854  帝、羣臣の聞望有る者を察し、刑部郎中邊肅(一)等二十有四人(二)を得、閤門(三)をして再び引對せしめ(四)、其の辭氣・文藝を觀る。並びに優升を得たり。

  (イ)長編五六景徳元年六月丙辰
(一)「邊肅」応天府楚丘人。字は安国。進士より入り、地方官を歴任。宋史三〇一に伝
(二)「二十有四人」邊肅以外に(イ)より殿中丞鞠仲謀・司勲員外郎朱協・比部員外郎陳英・〓[赤邑]太沖・李元・太常博士馬景・何亮・周絳・謝涛・衛太素・国子博士陳昭度・太常丞崔端・高謹徽・秘書丞趙湘・張若谷・姜嶼・殿中丞皇甫選・滕渉・陸元圭・李奉天・太子中允崔遵度・中舎(=中書舎人)曹度・将作監丞陳越の二四人。
(三)「閤門」(イ)では「閤門祗候をして崇政殿にて再び坐し引對せしむ」とある。閤門祗候は旨命を受けて乗輿・朝会・遊宴に供奉する閤門司の属官。
(四)「再び引對せしめ」(イ)によれば、真宗はまず密かに彼らを選び、このとき改めて引対した。


855 景徳の初め(一)、諸道(二)をして部する所の官吏の能否を辨察し、三等と爲さしむ。公勤廉幹にして、惠の民に及ぶ者(三)を上と爲し、事を幹なして廉譽無きもの、清白にして治聲無き者は次と爲し、畏懦貪猥(四)なるは下と爲す(五)。

   (イ)会要職官五九考課景徳元年九月五日 (ロ)長編五七景徳元年九月丙戌 (ハ)通考三九選挙考一二考課景徳元年 (ニ)山堂考索後集一五考課景徳元年九月五日
(一)「景徳の初め」基本史料によれば景徳元年九月五日丙戌の詔による。
(二)「諸道」(イ)、(ロ)、(ニ)には諸路転運使副、(ハ)では諸路転運使。
(三)「公勤廉幹、惠の民に及ぶ者」(イ)、(ニ)は「公勤廉幹、文武取る可くして、利を國に益し、惠の民に及ぶ者」とする。
(四)「畏懦貪猥なる」(イ)、(ニ)は「畏懦にして貪、公に慢なりて治らず、贓状未だ露われず、濫聲頗る彰らかなる者」とする。
(五)「諸道……下と爲す」(イ)では末尾に「右司諌高伸の請に従うなり」とある。


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