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教会・山地民・伝統文化

−霞雲村でのキリスト教会に関する聞取りメモ−

(抜粋)

copyright : 青 木 敦

この文章は、『アジア農村研究会通信』Vol.1(2000年1月)から、一部を改訂して掲載したものです。このウェッブサイトから見られる内容は、参考のためのオンライン用の改訂版であり、原文とは違っています。引用される場合には、必ず原文にあたり、出典を明記して下さい。このウェッブからの引用は、慎んでお断り申上げます。はなはだ未整理のページで、見苦しく、お詫び申し上げます。


はじめに

 国民党政権が自らを中国全土の代表と位置付け続け、戦後、朝鮮戦争のころまでは台湾を専ら大陸反攻への基地としか見なしていなかったことは、台湾における“台湾サイズ”の国民統合を大きく遅らせる原因となった。例えば台湾の多様なエスニック・グループの統合などにそれは顕著に現れており、1990年代に漸く「原住民」アイデンティティに基づく政治運動が一定の隆盛を見せ始めたものの(その過程の代表的議論として、謝世忠1987)、原住民諸エスニック・グループは、教育、福祉等の面で長く取り残されてきた。ところが、かかる状況下で、その間隙を埋めてきた勢力に、キリスト教会がある。今日原住民のキリスト教比率は極めて高いが、その背景には、第一に戦後かれらがまだ極めて貧困であった時期に教会が戦後連合軍の経済援助を背景に布教を進めたこと、また第二に、こうした経済的援助なしに信者数を延ばした中国人系の真耶蘇教に顕著に見られるように、日本精神が突如消えて行った後の精神的空白を埋める事ができたこと、の二点が原因として指摘されている(黄応貴1986)。戦後の経済的状況は、今日では大きく改善され、またそれと同時にキリスト教徒の比率も下がりつつある。ではこうした経緯の中で現在、山地の原住民(本稿では、現地での用法も考慮して、「山地民」という一般呼称を用いる)社会の中で、キリスト教会は如何なる位置にあるのか。また教会という組織が果たす不可欠の役割、および行政・共同体その他の組織が果たし得ず、教会が代替的に果たして来た役割とはどのようなものか。一つの農村の社会構造を考える上でも重要なファクターとなるであろうこうした問題を、ここでは扱ってみたい。

 今回(1996年3月)のアジア農村研究会(桜井由躬雄氏主宰)の台湾桃園県復興郷霞雲村での調査では、かかる興味から村のキリスト教諸教会を調査し、また数人のインフォーマントから、霞雲村の教会の活動、信者の信仰生活などについて証言を得た。本稿はその際のメモである。この調査は半ば実習を目的とした調査であり、何らかの結論を得るに十分なデータは得られていない。また、文献的にもまだ収集すべきものがあるが、それでもいくつかの証言を通じて村の教会活動の一端はつかめたと言っていいので、本稿はあくまでメモという形で掲載することとする。

 教会調査にあたっては、筆者のほかに主に長友真理、国谷徹、松永リナ諸氏と聞き取りに当たったが、三氏の力なしには到底不可能であった。また本稿では、研究会の他班のデータも多く引用させてもらっている。文責は私にあるが、データは関係各位の努力によって得られたものであり、利用させて頂いたことを深謝する。霞雲村でインタビューに応じてくれた人々に、我々が深く感謝していることは言うまでもない。なお、聞取りがファミリー・ヒストリーのディスクリプション形式で行われる部分が大きかったため、インタビュー情報のソースは、実際の証言が配偶者等である場合も含め、戸主名により表記した。プライバシーにかかわることであり、個人名は略号化して[]内に記してあるが、初回登場時には略号に続いて、()内に性別,調査当時の年齢,職業,日常使用言語を可能な限り示した。ただ年齢は、生年からの逆算もあり、正確でない場合もある。なお、T氏(後出)の家族関係に不明な点が残った。派出所などからの聞き取りの場合は、ソースはそのまま[]内に記した。中でも最も多くの情報は、神召会のP氏(男,59,牧師,日本語)および長老派教会のQ氏(男,35,運送業の運転手,中国語。インフォーマントは妻のR,女,29,伝道師,中国語)から得られた。

1.台湾のキリスト教会についての基礎的事実

 台湾では17世紀オランダ統治時代以来宣教が行われ、日本時代にもカトリック教会、プロテスタント教会が存在した。日本時代には、総督府の一部には理蕃政策の一環としてキリスト教を山地民の撫育に利用しようという意見もあったものの(坂本1988)、山地民の神道への強制改宗も進められ、当局は概して教会に対して弾圧的だった。また在台湾の日本教会の布教も、殆ど在台日本人への布教に限られ、台湾人への布教はほとんど行わなかった。正確な数字は不明だが、キリスト教徒の対台湾人(日本人を除く)人口比は1930年、1945年ともに約1.1%と見られている(鄭1981)。戦後国民党政権となってからは、蒋介石・蒋経国・李登輝がいずれもキリスト教徒であり、また親米的なスタンスから、キリスト教会を巡る状況は好転し、1970年の統計でキリスト教徒人口は3.3%となっている。ことに光復後1956年までの教会設立数は飛躍的である(坂本1988)。しかし、福イ老人と山地民では、キリスト教徒人口比率には多きな差があり、70年の統計では、山地人のキリスト教徒人口比率は73%にのぼる。霞雲村でも、山地民のキリスト教比率は極めて高く、村全体における教会の持つ重要性を示している。

2.霞雲村における各種キリスト教会と山地民

 霞雲村には現在、長老派、神召会(日本のものみの塔の系統)、真耶蘇会(真耶蘇教)の教会があるが、復興郷には10年以上前からカトリックの教会がある[S(男,67,不明,タイヤル語・日本語・少し中国語)]。このうち我々が訪問調査をしたのは長老派、神召会の二教会である。三教会の中では、長老派が35−40人程の信者を有しており、最大勢力となっている[P,R]。神召会には少なくとも山の方に15戸ほどの信者家庭がある[P]。真耶蘇会は常駐の牧師はおらず、礼拝のある土曜日に牧師が大渓から出張する[T(59,不明,不明,中国語・日本語)]。なお台湾全体では、カトリック、長老派、真耶蘇会がキリスト教信者の大半を占めるが、カトリックがほとんど浸透していないこと、神召会が一定の信者を有していることが、この地域の特色と言える。

 筆者は現時点で村の正確な信者数を把握していないので対人口比での比率は算出できないが、P氏によれば山地民はほぼ100%がキリスト教徒だという。また山地民が大半がキリスト教徒であることは(当地では)一般常識であるとの、協力してくれた台湾・中央大学学生の証言もあり、当村の山地民全体におけるキリスト教徒の率は極めて高いと見て間違いない。だが、一方、村全体の若年人口が流出していることから、信者数が減るとともに、バランスとしても信者には比較的老人と幼少者が多くなっているという[Q](長老派以外も同様ではないかと思われる)。いずれにせよ、台湾全土の山地民のキリスト教比率との正確な比較は現段階ではできない。これに対して漢人は大多数が異教徒である。長老派教会では、漢人はクリスマスに遊びに来る程度である[Q]。しかし、福イ老人の夫を持つ山地民の妻・V氏(女,36,電子工業会社勤務,タイヤル語)が「教会は、自分は行かない。廟も行かない」という事例も見られ[U(男,38,不明、タイヤル語)]、家族に漢人がいる場合は教会へゆくことが少なくなることもある。逆にタイヤルの男と結婚した大渓出身の福イ老人女性は、2カ月前病気になるまで水、金、日曜日に長老派教会に通っていた[W(男,66,不明,日本語)]。カトリックその他の村以外の教会の信者の存在は確認していない。

3.伝導の開始時期

 これらの教会の建立は、いずれも戦後のようである。長老派教会は約30年前に建てられたが[U]、正確な年は不明。神召会は、現在も牧師であるPによって霞雲村にもたらされた。彼は1937年生、18歳(1955年頃)にキリスト教徒となり、はじめ長老派であったが、1961年に神召会に改宗、霞雲村の神召会教会は1974年山の上に建てられ、1995年に現在の位置に移された[P]。信者のX氏(49,不明,タイヤル語)も、当初長老派だったが、17−18年前、P氏に勧められて改宗したという[X]。真耶蘇会については不明だが、T氏はこの地で1967年に真耶蘇会に改宗したというから、そのときには既にあったと思われる[T]。

 なお、R氏からは比較的具体的に、キリスト教教育について情報が得られた。彼女は、花蓮の玉山神学院(台湾で最も著名な神学校)を卒業。最初の3年が予備科(預備科)、次の4年が本科で計7年通ったが、この制度は1989年改編され、高校卒業後本科7年となり、修士号を得られるようになった。神学院の課程は神学系、キリスト教教育系、音楽系の3つに別れ、彼女はキリスト教教育系を専攻。また玉山神学院には外国人の先生以外はすべて原住民という課程もあり、霞雲村付近の山地人の牧師はみなこの玉山神学院出身であるという[Q]。

4.財政

 長老派教会のQ氏の家の収入は、教会からの実入りが最も大きい。水道代や子供の学費はすべて教会の支出で賄われ、加えて寄付金「奉献」から可処分所得として得られる収入が月額2万元強となる[Q]。Uの義理の母・Z氏(女,67,なし,不明)の証言では、寄付は100元から多いときは500〜1000元くらいと言う[U]。仮に一度の1戸の寄付を250元、日曜に寄付をする信者戸数20とすれば月に2万元となるから、寄付金による収入はこの程度であろう。また特別な支出としては、キリスト教関係のものを個人で月に2000−3000元ほど買うという。家計支出としては自家用車の税金・保険関係がやや負担だという[Q]。ただ聞取りではQ氏自身は他に運転手としての職業を持っており、家計と教会財政との関連等について、課題が残った。

神召会の財政については詳しく聞いていない。しかし筆者の所見では、教会の建築、牧師の家の家具その他から見る限り神召会より長老派の方が裕福であり、顕著な差が見られた。伝道師が裕福な生活をしていることに対する一般信者の感じ方については、聞く機会がなかった。また、改宗時についての証言は不足している。

5.活動

 礼拝は
  神召会:日曜日午前9時〜12時
  長老派:日曜日午前10時〜11時
  真耶蘇会:土曜日

 長老派は日曜日に主日学校(日曜学校)、青年会、婦女会、一般礼拝の4つ。金曜日に祷告会、各家庭で水曜日よる7時から家庭礼拝。3カ月に一度、幹部会がある[Q]。神召会は日曜の礼拝の外に、水、金に家庭訪問があり、P氏が山の方の15軒の信者の家にバイクで訪問する[P]。なおP氏自身は数年前に交通事故で足が不自由となり、125ccの改造三輪バイク(身障者のためバイク購入には補助等の措置があるが、改造費は自前)を日常の足としている。真耶蘇会が土曜日に礼拝を行うのは、大渓から来る牧師が日曜は大渓で礼拝を行うためではないかと思われる。

 キリスト教徒は一般に、他宗派に対し、宗派が異なっても同じキリスト教であるという意識があるが、P氏ほか神召会信者は、神召会も長老派も、特に違いはないと述べている[P、L(男,不明,不明,日本語)]。

 このような礼拝、家庭訪問その他通常の宗教活動の他にもう一つ熱心に行われているのが、教育である。ことに山地語の教育について、霞雲国民小学校ではタイヤル語の教科書は準備中であるのに対し、既に神召会の教会では口頭でこれを教えている[学校]。長老派教会でも、主日学校で子供にタイヤルの言語・文化教育が行われている[Q]。

 教会が原住民の言語の継承に果す役割は大きく、長老派教会ではR氏がタイヤル語を用いて新約・旧約聖書を講義し[U]、また神召会では、信者はタイヤル名を用いるという[L]。現在神召会では国語を用いて聖歌を歌っているというが[L]、我々の訪れた礼拝堂には、ローマナイズしたタイヤル語の聖歌の本があった。近年の原住民文化保存の動きの中で、原住民言語のローマニゼーションの統一には多くの問題があるとされるが、教会が原住民言語の研究・利用に果たした役割の大きさは十分に想像し得る。村外も含めれば、復興郷のカトリック教会にイタリアから教えに来る人は、山地語もできるという[S]。また前述のように、玉山神学院には山地民が多く在籍しており、神学院が山地民の交流の場となっていると考えられ、事実、タイヤルのR氏は屏東出身のバイワンである夫のQ氏に神学院で出会い、1989年結婚した。以降、夫妻は豊元、新竹に勤務し、霞雲村に来たという。夫婦間では意志疎通に国語を用い、ある程度台湾語も理解する。しかし教会学校での子供達へのタイヤル教育は、タイヤル人のR氏があたっている[Q]。

6.内外の人的交流

 教会への参加の頻度につき、「毎日曜日、教会へ行く」という証言は複数あり[X、U]、中には週3回教会へ行き[W]、あるいは毎日夫婦で教会へ行き祈祷するというT氏のように[T]、熱心な事例も見られる。前述のように、村からの若年層の流出に伴い、信者に比較的老人と幼児が多くなっているものの、信者の教会への動員率は比較的高いようである。また祖先崇拝は、アジアにおけるキリスト教布教における重要な問題であるが、「キリスト教徒なので“拝拝”はしないが、清明節には一家で集まって墓の掃除くらいはする」(長老派)[R,男,31,室内装飾会社の大工、中国語]、「祖先を祭るのは1年1回。教会で。廟はない。我々の廟は教会だ」(神召会)[Y]などの証言によると、“拝拝”はしないが、神召会などでは教会自体がある程度祖先崇拝の場としての役割を果たしているようである。だが、平埔族のクヴァランやヤミ(タオ)族に関する調査で、キリスト教徒が実際には土着宗教から離れられずにいる現実もレポートされており(清水純1992、野林厚志1996)、霞雲村での証言がどの程度真実かは、未確認である。

 先に玉山神学院で結ばれたQ牧師夫妻について述べたが、信者T夫妻も1970年、真耶蘇会牧師の紹介で結婚している[T]。教会を通じての婚姻の成立は、教会が信者の生活に非常に深く関わっている例である。

 また教会関係で、村外から人が来る場合がある。前述のように真耶蘇会の牧師は大渓から来るし、村外から1年に数人のアメリカ人キリスト教徒が訪問しているとの話もある[派出所]。神召会関係ではP氏は以前西海牧師という日本人と交流があり(村外か?)、その関係で顔金龍なるものが4年間日本に留学していたという。P氏の自宅には、わりと最近のものと見られるものみの塔の日本語パンフレットがあり、日本の教会と連絡があることを示す。P夫妻は家庭内で日本語で話していたようであったが、その日本語は我々にはなかなか聞き取れなかった。

おわりに−原住民文化と教会

 冒頭に述べたごとく、台湾キリスト教は、当初経済援助を通じて勢力を拡大した。高度成長を遂げた今日、キリスト教徒数は減少しつつあるが、今なお山地民の極めて多数がキリスト教徒であり、かれらの多くが日常的に礼拝その他の活動に参加しており、また同時にキリスト教牧師自身が組織化された山地民によって構成されており、教会の山地民への高い浸透度と教会の山地民への一体化という緊密な関係が見られる。今回の調査では明らかにできなかったが、教会と山地民の関係がここ数十年でどう変化して来たか、さらに調査する必要があろう。また山地民中のキリスト教徒数の減少の理由としては、冒頭で述べたように単に教会の村への財政援助の重要度の低下や精神的支柱としての役割の後退が従来指摘されてきたが、むしろ、若年層の村外への流出という原因も重要で、これについても個人データに改宗時期・場所等の項目を加えるなどして再調査せねばならない。

 また特に強調すべき点は、キリスト教会が、失われつつあった山地住民文化の継承者としての役割を果たしているという事である。霞雲村のキリスト教会は、教会学校や礼拝を通じて山地民−−この村では専らタイヤル−−の言語・文化の教育の先駆的な役割を果たしている実態が少なくとも今回の調査のみでも見て取れた。国民党政権下、文化的にはエスニシティの多様性は殆ど顧みられず、むしろ中華中心主義的な教育に力点が置かれてきたが、現在はこのような政策は転換され、今後学校でも母語の時間が設けられることになっている。しかし福イ老語教育などと比べると、原住民言語・文化教育はまだ環境が整備されていないのが実態である。こうした状況下で、早くからローマナイズされた現地語を用い、また文化教育も行ってきた教会の役割は無視し得ず、台湾社会が多元社会として形成される中での教会の位置付けが改めて問われなければならない。

 同時にまた霞雲村のような一つの村の社会構造を考える際、教会が文化活動や婚姻を通じて、山地民に独自の生活領域を提供して来たという点が重要になる。山地民にとって教会が最低週1度は顔を合わせる出会いの場であり、自身の文化を共有するほとんど唯一の場となっている。なお、今回の調査には直接関連しないが、長老派教会の中には台湾独立運動をたたかってきたものもあるし、伝統儀式や歌などの伝承とともに原発被害告発の主体となっている蘭嶼ヤミ族(タオ族)の長老派牧師の事例なども報告されており(『毎日新聞』1996年8月14日)、教会が政治面での機能を発揮することもある。  このように今回の霞雲村の予備的な調査からは、教会が山地民農村内で文化的・社会的に一定の機能をもっていたことが明らかとなった。今後、この教会の機能を視野に入れつつ調査を続行するとすれば、今回の予備的な調査のデータの整理(団体活動の項目など)とともに、個人データ項目として宗教・宗派、改宗時期、活動内容、言語教育などを加えてさらに本格的な調査が必須である。ことに婚姻関係では突込んだ質問が必要だ。また台湾全体ではキリスト教信者数の比率はゆるやかな低下傾向を見せているが、ひとり信者数を伸ばしつつあるのが真耶蘇会である。真耶蘇会は聖霊降臨運動の流れを汲むと見られる中国人系の宗派で、再調査が可能であれば是非関係者へのインタヴューを実現したいところである。

 


参考文献(内容未確認のものを含む)

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坂本進  1981「中国福伝大会与日本福伝大会−経済和宗教」『鐸声』1981年4月号

清水純1992『クヴァラン族−変わりゆく台湾平地の人々』(アカデミア出版)

------  1987「中華民国台湾のキリスト教と国際文学宗教会議」『福音宣教』1987年3月号

------ 1988「台湾山地同胞 (旧台湾高砂族)とキリスト教」『宗教研究』62-3

野林厚志 1996「ヤミ族の社会生活についての予備的調査と今後の課題」『台湾原住民研究』1

水野誠 1988「普世的 (エキユメニカル)であるとともに郷土の民と1つ--台湾基督長老教会信仰告白の日文訳について」『基督教論集』31

森山昭郎 1992「日本統治下台湾のキリスト教」『東京女子大学比較文化研究所紀要』53

Gates, Alan Frederick 1979 Christianity and animism in Taiwan. San Francisco:Chinese Materials Center.

Rubinstein, Murray A. 1991 The Protestant community on modern Taiwan : mission, seminary, and church. Armonk, N.Y.:

M.E.Sharpe.

Tong, Hollington K. 1961 Christianity in Taiwan:a history.

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