(抜粋) copyright : 青 木 敦 この文章は、宋代史研究会研究報告第5集『宋代の規範と習俗』(p.119-154,汲古書院,1995年10月)から、一部を改訂して掲載したものです。このウェッブサイトから見られる内容は、参考のためのオンライン用の改訂版であり、原文とは異なります。引用される場合には、必ず原文にあたり、出典を明記して下さい。このウェッブからの引用は、慎んでお断り申上げます。 |
はじめに 労働価値説から根拠づけられていたこれまでの中国前近代史像は、人口成長と土地の稀少化という前近代の基礎的な要素賦存のトレンドと、かなり整合的に理解し得る。だがこれまでの中国史では技術先行的、労働価値説的なパラダイムで、かなりの研究が行われて来た。とすれば恐らく戦後中国史学で奴隷制的社会から地主制社会へという図式を支えた個別的な事実の多くは、生産要素の相対価格変化や、収穫逓減法則から説明し得るものなのではあるまいか。 本稿の議論は、ceteris paribusの原則から出発したために、非常に単純化されており、要素賦存(つまり人口と耕地面積)、支配者は稀少な資源を支配しようとするという見方、取引費用という3つの要素しか考慮していない。これだけ単純であるにもかかわらず、この生産力上昇→人身解放という図式は、理解可能なのである。無論農業労働者の地位が、労働が貴重な資源であった古い時代においてむしろ高く、後代には低下が起こったという理論的結論は、従来の一般的見解とは異なる部分である。筆者はそれ以上別に何か主張があるわけではない。本稿が新しく提示し得た歴史的な事実は皆無であり、本稿の様な理論からのアプローチは、必ずしも新たな知見を開くものではない。
これまで宋以降近世説・中世説が対立し、結局決着がつかなかったのも、西欧モデルの時代区分論をプロクルステースの寝台的に中国王朝史に適用しようとしたからにほかならず、今日我々が、中国伝統社会が西欧や日本の伝統社会と必ずしも同一ではないことを前提とする時、このように中国王朝史の特定の時期を欧州や日本のある時期に比定するという方法は、決して中国理解にとって有効な方法とは考えられないのである[1]。しかしながらこのことは、中国の前近代史に何らの経済・制度的トレンド(趨勢)も存在しなかったことを意味するものではない。時代区分論の核となった、身分制・土地制度・税役制度などの諸問題についても、奴隷制↓農奴制↓近世という西欧型の発展の図式に限らなくとも、変化の方向性を見いだそうとする努力は無意味とは言えないであろう。では、現在我々が前近代の農業社会の制度の長期変動について考えようとする場合、どのような理論が参照可能なのであろうか。制度や社会経済を結び付けて理解する有用な理論とはどのようなものであろうか。かかる視覚から、制度や経済の変化についての若干の理論を紹介することが、本稿の課題である。
ところで、経済と制度、およびその変化の理論化は、現代経済学が追求しつつある新しい課題である。一九九一年には市場・制度の理論の古典的諸文献を著したロナルド・コースが、さらに一九九三年には、制度史、計量経済史の大家であるダグラス・C・ノース、ロバート・フォーゲルという二人の経済史家が、ノーベル経済学賞を授与された。特に後者については、理論的・数理経済学的方面が有利とされる同賞としては異例のことであり、一種の驚きを以て受け止められた[2]。このうち本稿でもしばしば参照するノースの諸研究は、制度の変化を理論化し、世界史を読み解こうとするものであり、英語圏を中心に経済史研究に広汎な影響を与えつつあるものである。氏の研究には後述のようにいくつか未解決の問題も含まれており、今後どのように評価されるのかは未知であるが、少なくとも経済史研究全般において、労働価値説に基づいた階級アプローチのみではなく、このように現代の経済学の方法を意識した研究が現在よりも増えることは確実であろう[3]。本稿では、上記の問題意識のもとに、前半でこのような経済学の諸理論、および様々な地域の経済史における類似のアプローチを筆者なりにまとめ、後半では中国史への適用の可能性を探る予定である。ただ後半では特定の制度を叙述するのではなく、むしろ前半で紹介した経済理論からアプローチを開始した場合、これまで我が国の中国史研究の中で描かれて来た時代像、発展の図式を、どう再解釈し得るのかという視点から議論を進めたい。
制度をめぐる経済理論 水は人間にとって不可欠な資源であるけれども、それが豊富である限り、水争いは起こらない。しかし、水が稀少であると、それを巡って争いが起こる。石油や土地など、限られた資源については、常にその配分が問題となる。さして役に立たないダイヤモンドでさえ、稀少であればその所有権は大きな問題である。そして人間社会は、このような稀少な資源を巡る争いを解決あるいは緩和するための、様々な「制度」の上に成り立っている。無論、そうした制度取決めは、国家の法制の形を取るとは限らない。慣習やモラルも、インフォーマルな制度である。しかしいずれにせよ、この紛争回避の機能が、経済学での「制度」の本質である。
ところで、生産において最も不可欠であり、その供給が限られている資源−これらはしばしば「本源的な」生産要素と呼ばれる−は資本・労働力・土地などであるが、そのうち前近代の農業生産において重要なのは、労働力と土地である。つまり、どのような農耕社会も、労働と土地を配分する何らかの制度のうえに成立していたのである。農業を生産の基盤としてきた前近代中国社会も、他の農耕社会と同様、労働力と土地の配分を定め、さらに生産財を分配する諸制度を持っていた筈である。そして中国前近代の労働力や土地の配分を決める諸制度、それには慣習も含まれるけれども、そのうち我々が確実にアプローチできるのは、文献史料に残された法制である。たとえば労働者の地位を定める身分法、土地関係の諸制度、そして民間の労働や土地から得られる所得を政府に移動する税制(徭役労働をも含めて、税役制度)などである。あらためて言うまでもなく、これらは戦後の社経史に於いて最も重要視されて来た諸制度である。では、それらの制度が変化するとき、そこにどの様な原因が考えられるのか。こうした問題を問い直すときに参照に値すると思われる経済理論およびその問題点の幾つかを紹介するのが、本章の目的である。
ここで紹介するそれらの理論は、現代の経済学の主流である新古典派経済学の価格理論を基礎に置きつつも、実際の取引に存在する様々な市場の阻害要因を考慮することにより、より現実に近い世界を描こうとする、ポスト・ワルラスの理論である[4]。ただ、その基礎となる人間像は、合理的な選択と最大化行動に特徴づけられる、まさに経済学の人間像であり[5]、たしかにその点は一つの限界かも知れない。しかし数百年あるいは千年紀の単位での長期変動を考えようとするとき、史料ハンデは大きく、我々は中国人の行動モデルの変化について共通した見解をもっていない。また身分や制度、王朝の支配理念などを扱うに適した分野は、経済学よりも社会学か人類学、思想史であるかもしれないが、筆者の準備不足もあり、税制などの長期変動を説明するに足る社会学等の理論を見いだし得ていない。そこで本稿に限ってはとりあえず、ceteris
paribus(他の条件は一定とする)の原則に従って、こうした問題に深入りせず、ポスト・ワルラスの経済理論からアプローチを開始したいのである。 さて、さきに稀少資源を巡る紛争の回避という制度の本質を述べたが、それだけではいささか漠然とし過ぎている。少し具体的に、ものの交換、生産の場において、諸制度が如何なる機能を持つものであろうか。この点について今日行われている議論を、筆者なりにまとめると、大体以下のように言えるのではないか。
現在の経済史理論で、制度や制度変革に対する理解の核となるのは、取引費用経済学である[6]。レオン・ワルラス(一八三四〜一九一〇)を祖として発展してきた現在の新古典派学説での市場の均衡は、実は多くの仮定の上に成り立っている。例えばすべての財貨について普遍的に市場が存在し、常に市場を通じて取引が行われ、規模の経済性(規模についての収穫逓増)が存在せず、各の経済主体が競争的な取引を行う、などの仮定である。またこうした事が保証されるためにも、取引費用、すなわち財に関する情報や、交換の確実な実行についての費用は、ゼロでなければならない。これらの仮定が実現されてこそ、市場は均衡を保ち、資源は最も効率的(パレート効率的)に配分されるのであり、さらに政府によってどのような負担原則の所有権制度が施行されていようとも、交換を通じていずれは資源配分の最適化が実現されるとさえ言われている(コースの定理)。しかしそれは言わば無摩擦の世界のように現実には存在しないものである。実際には、人は取引しようとする相手の意図や財についての完全な情報を持ってはいないし、相手が距離的に遠ければ取引はしばしば難しい。また契約が守られなければ救済措置が必要となるし、自己の権利が第三者に侵害されるかもしれない。このように市場機構の阻害要因が多く存在するとき、市場の代替物として、公権力や“制度”の働きが期待されるのである。ノースは、n人の囚人のジレンマというゲーム理論を用いて、制度的制約の必要性を説明する。つまり、取引費用(=相手の意図を知るコスト)が高い状況下では、協力解(=効率的な交換)に達するには第三者の強制が有用であるというのである。それは公権力の実施する法にかぎらず、習慣、モラルといったインフォーマルな“制度”をも含むのであるが、これら法や習慣は、経済的に見れば規制という市場的取引阻害の要因となり得ると同時に、取引の不確実性を取り除き、逆に交換を容易にする役割をも期待し得るという点で、パラドクシカルな存在と考えられている。このようなノースに代表されるポスト・ワルラスの制度論に対しては「新制度主義」という呼称がしばしば用いられており、開発経済学、経済史研究においても近年急速に採り入れられている。その中でも我々中国前近代史研究者が注目すべきものとして、経済史家・理論経済学者のE・L・ジョーンズが、比較的国家権力が有効に機能した宋代こそが中国前近代における成長のピークであり、国家が後退した明清には、経済はむしろ停滞したとを指摘する近論を挙げることもできよう[7]。
ところで、ここで留意しておかねばならぬことは、土地、労働という二つの本源的な生産要素については、完成財の市場と異なり、ワルラス的な市場が成立しにくく、反面、効率的な配分において公権力や制度の果たす役割が特に重要になって来るという事実である。つまり土地と労働の取引は、商品市場や金融市場と異なり、市場経済の外部の力が作用する「非市場」的な形態での取引がまま見られる領域であり[8]、ヒックスの表現を借りれば「市場制度は比較的支配しにくい領域」[9]ということになるのである。つまり効率的であるにせよないにせよ、労働が稀少であるときに、競争的な市場でない一見規制的な所有権制度が存在していることは、むしろ稀少な生産要素の分配のシステムがその社会経済に適合的な形で行われていたことを示すものである[10]。とすれば、市場が発達していなかった経済−特に過去の時代の経済−における生産要素の配分の制度として、どのような形のものがあり得たのであろうか。特に、市場が未発達で取引費用が極めて高く、市場による効率的な資源配分が期待出来なかった経済において、限界生産が高い生産要素についてどのような配分の制度が存在していたであろうか[11]。
以上のような観点に立つとき、奴隷制や農奴制といった不自由労働制度は、どのように意味付けられるだろうか。奴隷制のような人に対する束縛は、換言すれば、労働力に対する厳格な所有権制度である[12]。とすればこれは、市場が未発達であり、かつ労働力が他の生産要素−農耕社会においては、特に土地資源−に対して、極めて重要であるような(労働力の相対要素価格が高い)経済に見られる制度ではないか、という予測を立て得るのである。換言すれば、要素賦存において労働力が稀少であり、労働の限界生産力が高い経済では、労働の用役に対する所有権を厳格に(排他的に)設定する奴隷制のような制度が存在し、逆に人口増大などにより労働/土地比率が上昇し、労働の限界生産力が低下し(収穫逓減)、土地が稀少財となり一筆の土地が高い価値を持つ(土地の限界生産力が高い)経済となれば、土地の所有権は厳格なものとなる。権力(交渉力)を持った者は、前者のような経済においては自己の下に労働力を集め、奴隷主となり、後者のような経済では土地にその権力の基礎を置く地主となるであろう、という考え方である。実はこのような考え方は、現在では経済史でかなり広く行われているけれども、これは必ずしも現代的な経済理論から演繹的に導き出されたものではない。むしろ、現実の観察が先に存在したのである。
束縛的な労働と低い労働/土地比率の相関関係の指摘は、新大陸奴隷制や革命前ロシアの農奴制について、同時代的な証言が存在し[13]、特に北米では、フロンティアが消滅し、他の資源に対して労働力がもはや稀少ではなくなった以上、奴隷制は早晩廃止されたであろうという議論が存在した(自然制限論
natural limits argument)。その後、より厳密な経済学的論証を経て、南北戦争時には奴隷制はそこまで収益を低下させていなかったとする『苦難のとき』が出され、むしろ定説化しているが、このように奴隷制の存在を経済学から説明しようとする方法は、現在ではかなり一般的になっている[14]。八〇年代には北米やロシアのみならずカリブ、東欧、アフリカなどの奴隷制的な制度についても比較史的に議論が行われ、現在ではアジア史においてもかかるアプローチが見られるのである[15]。そしてここで留意しておきたいことは、こうした奴隷制研究が、一九六〇〜七〇年代を通じて、制度学派の初期の核であったプロパティ・ライツ(財産権・所有権)理論の展開の一翼を担いつつ進められて来たことである[16]。経済学においては異端にすぎない経済史、しかも奴隷制・農奴制という分野が、現在の取引費用経済学の進展に少なからぬ貢献をしてきた、という事実は、我が国ではもっと注目されてよいであろう。こうした経済理論的なアプローチを具体的に見る目的で、敢えて冗長になることを恐れず、二、三の地域経済学者、経済史家の業績をここで顧みたい。
まずタイのチャクリ改革に関する、原洋之介氏の経済学的解釈を引用したい[17]。タイでは周知のように、現ラタナコーシン朝のラーマ五世(位一八六八〜一九一〇)のもとで、中央集権的、近代的な国制を目指したとされるチャクリ改革と呼ばれる一連の改革が施行された。私有奴隷(タート)が存在し、プラーイと呼ばれる農民が王族・貴族に賦役労働を提供する身分制度が廃止され、また一九〇九年より、土地所有権を確定する地券(チャノート)が発行されるようになった。原氏は、一八五五年のイギリスとの修好通商条約(ボーリング条約)締結による米需要の増大により、それ以前の人口が稀少で土地が豊富であった経済から、土地が稀少資源である経済へと変化したこと事実を念頭に置きつつ、次のように端的に述べている。
〔アユタヤ王朝における奴隷制・賦役労働制度は〕、土地の支配を軸とする統治ではなくて、人間ないしその労働能力そのものを支配する形態であった。この支配形態を経済理論的に説明してみると、〔……〕まず、最も基本的な生産要素の賦存状態の点で、相対的に土地が過剰で自由財に近くて、人間が希少な状態だった事実に着目する必要がある。農民による農学的適応という言葉が端的に示唆しているように、農民が少しの資本投下だけで、例えば水牛を飼う程度のコストで、デルタに移り住んで生産をおこないうるといういうように、耕地を拡大しうる余地がまだまだあった。そういう段階では、最も希少な基本的要素は人間の数つまりは労働力であったといえる。この時、王家にとっては、この最も希少な要素を「支配」しておくことが統治上もあるいは経済利益の確保のためにも必要となってくる。ここに、人間の支配形態として、奴隷制がでてくるし、また自由民に対しても強制労働的なものを課すといったことが生じたのではないだろうか。
そして、断片的な地価のデータが示すように、ボーリング条約による米需要の増大が土地の経済的稀少性を急速に高め、「土地がもはや無制限に与えられている資源ではなくなったことを意識し始めるとき、農地の占有権ないし所有権を巡って土地争いが発生してくることは避けられ」ず、二〇世紀初頭に地券発行が行われた。またこれとともに奴隷制や自由農民の賦役労働が漸次廃止されたのは、「人間ないし労働力がもはや最も希少な経済資源ではなくなったので、それらに対する支配がもはや最も効率的な支配形態とは言えなくなっていた」からであるとする。
この労働制度面でのチャクリ改革の事例では、タイの米作が世界市場に組み込まれたことに起因する土地の稀少性の急激な増大が、「支配」の対象が人から土地へと変化する背景となっている。ところが、労働に対する土地の相対価格の上昇が、人口成長と土地の稀少化によって引起こされたとすれば、米の商品化という直接的な契機がなくとも、やはり同様に、労働の稀少性の低下と土地の稀少性の増大という変化を結果する。このように人口成長や労働の収穫逓減の視点から過去の農耕社会の制度や技術の変化を巨視的に理解しようという試みは少なくない。例えば人口過剰が農業技術革新をもたらすことを説いて農業経済学、人口学、歴史学等に多大な影響を及ぼしたボーズラップはその代表例と言えようし[18]、農業経済学や開発経済学においてはこうした需要先行型の理論の適用がもはや不可欠になっている[19]。経済史においても、近年経済史研究では資源賦存の変化を技術革新や制度変革の原因として重視する研究がますます一般化しつつあり、S・ファン・バート、M・M・ポスタン、ルロイ・ラデュリエ、E・A・リグリィ、また日本近世史における速水融、斎藤修諸氏らの研究は、かかる需要先行的なパラダイムを共有している[20]。そうした中で、ここでは人口成長と諸資源の稀少化が、社会・経済体制全体を変化させて行ったとする、巨視的な見方を行うR・G・ウィルキンソン、大島真理夫両氏の議論を挙げておこう。これらは必ずしも十分な実証を背景に展開されたものではないけれども、数千年単位にわたる経済体制の長期的トレンドを考えようとする場合には、興味深い視座を提供してくれる。
技術進歩、近代化を、増大する人口と資源の稀少化の唯一の解決策の結果と捕らえるウィルキンソン氏は「階級区分が資源基盤と関連しているのは、支配階級はまず社会の拠って立つ稀少な資源を統制することから権力と影響力を引き出すからである」として、労働が豊富になるとともに、森林・土地資源が枯渇し、さらに石炭・石油などの鉱物資源を利用せざるを得なくなるというように、新たな資源の稀少化が見られ、それに伴って技術革新が誘発され、支配の形態が変化するという観点に立ちつつ、人類史をダイナミックに捉えなおそうとする[21]。氏によれば過去の文明の「遺跡や創作物の壮大さ」も、労働に対する階級的統制力の反映であるとする。すなわち多大な労働投入による古代遺跡は、むしろ労働が貴重であった時代の、支配者の衒示的な営為の名残ということなのである。そしてウィルキンソン、原氏の上述の議論を紹介しつつ、大島真理夫氏は以下のように述べる。近世の税制について租(土地賦課)と庸(労役義務)の系統があり、「近世初期の年貢(石高制)と夫役(役家制)もこの二系統につながるものと言えるが、一般的に言えば、夫役も石高基準となり、しだいに貨幣化されて、石高制への一元化に近づいて行」くが、これは中国の一条鞭法↓地丁銀という土地税への一本化と共通する[22]。そして「農業社会について言えば、各地域の気候風土の中での農業のあり方はさまざまなヴァリエーションを示すとはいえ、一般的に土地が過剰で労働が希少である状態(労働の限界生産性が大)から、土地が希少で労働が過剰な状態(土地の限界生産性が大)へと変化して行くといえるのではないか」と考えられるところから、「経済体制も、人間支配から土地支配へと変化する」[23]。
これらの議論は、いずれも人に対する制度的束縛を、(土地との対比において)労働の高い限界生産力に求める点で共通しており、労働配分の制度に対する限界生産力アプローチと言うことができるであろう。無論、今後経済学のタームを用いてさらに厳密な理論化が必要であることに異論はあるまい。また奴隷制について、モデル化は行われており、その代表的なものであるドマー仮説については次々節で問題点とともに概要を示すが、後に中国前近代史を考えるときに特に問題となる、労働力配分の制度としての身分制と、税役制の関係について、次節で簡単に述べておく。 身分と税制、社会成層と国政などの関係は、様々な社会によって大きく違うし、それ自体にも大きな問題であってここで論じる余裕はない。しかし、その長期変動のトレンドについては、労働の収穫逓減を原因と考えることにより、奴隷制から自由労働制への移行と、徭役労働、人頭税的な税役体制から土地税への移行を、統一的に考えることができる。つまり、政府による労働力の調達に、二通りあったとしよう。割り当てによる賦役労働と、労働市場から調達する形態−前近代中国の用語を用いればそれぞれ差(科)と募−である。賦役労働には徴発・役使に際して、強制・監視・評価コスト等がかかるから、労働供給が増加して労働市場における賃金が十分低下した場合には、雇用による労働調達の方がより低廉となる。
また王朝政府が領域内の人あるいは土地を把握して、税役の収取制度を確立させようとするとき、所得の高下に応じて課税することは効率的な税収確保につながるであろうから、政府の所有する限られた財政・人・機会などの資源を、より多く人の把握へ振り向けるか、あるいはより多く土地の把握へ振り向けるかの決定は、等しい費用によって把握し得る数量の人と土地のどちらがどれだけ多くの所得を生み出すかによっても左右されるであろう。逆に言えば、徴税額の限界コストの低い方に税体系は設定される。であるから、人口成長などで労働供給が増加し、労働の限界生産の高い経済から土地の限界生産の高い経済へ移行したとすれば、労働市場での賃金の低下に対応して賦役労働は廃止の方向へ誘因づけられ、税体系においても人基準ではなく土地基準の方に設定した方が徴税コストが低廉となる。つまり贅言するまでもなく、人口増大という長期的トレンドを有する農耕社会においては、前出の「人の支配から土地の支配へ」の変化という仮説は、人基準から土地基準へという意味において、税制面では理論的には考え得ると思われる しかしこれらの議論には、若干の問題点が残されている。まず第一に指摘されるべきことは、交渉力のジレンマである。もし労働が貴重な経済資源であるならば、労働者は地主に対して強い交渉力を持つはずである。しかしなぜ現実には労働者はかえって自由を制限され、高い賃金を享受できなかったのか。完全市場においては、賃金は労働の限界生産の額に等しいというのが新古典派の定理であるのにもかかわらず、賃金は押さえ込まれる[24]。これに関して問題の所在をより具体的に明らかにするために、奴隷制の存在理由についての基礎的な文献である、ドマーの「奴隷制の諸原因−ある仮説」の内容を以下に紹介したい[25]。
まず、生産要素が労働力と土地のみであり、しかも同質の土地が遍在していたとする。この場合は農民は雇用労働者となってレントを払う必要がないから、雇用労働は成立しない。そこで事態をより現実に近づけ、開墾、種、家畜などへ投下すべき資本と経営が生産要素に含まれるとする。また同質の土地の遍在という仮定を取り去り、土地の所有権を認めたとする。すると農民は資本等を持った土地所有者と雇用関係を結ぶことになる、それでもなお、農民に移動の自由が有る限り、稀少な労働力のもとでは、土地所有者間の農民獲得競争で賃金に上昇ドライブがかかり、土地所有者がレントとして得る余剰は少ない(土地が豊富であれば労働の限界生産は平均生産に近いから、賃金が限界生産に近づけば余剰は殆ど残らない)。そこで土地所有者の利潤を最大化しようという政府が最後に取り得る手段は、農民の移動の自由の剥奪である。これによって土地所有者間の競争が止み、農民からその生存レベルを上回る所得の殆どかすべてを得ることができるようになる。しかしフロンティアが消滅し、人口が増大すれば自由労働の賃金は低下するから、それなりのコストを伴い、高い労働生産性を期待し得ない不自由労働は必要なくなる、というものである。
奴隷制の存在理由を労働力資源の稀少性に求めるこの単純明快なモデルは、それ以後奴隷制存在に関する経済学的仮説のスタンダードとなった。しかし、土地所有者はなぜ結託するのか。換言すれば労働が稀少財であるとき、なぜ市場が成立しないのか。ドマー自身、同論の中でこうした政治的変数の説明には歴史家や政治学者の助けがいることを認めている。ノースも西欧中世古典荘園制の理解においてドマー仮説を用いているが[26]、A・J・フィールドはこの点を指摘しつつ、制度を経済理論の中で内在的に扱おうとするノースらの新制度主義を激しく批判した[27]。
このように賃金が政治・社会的な原因に起因する交渉力次第で、限界生産力とは異なった額に落ち着く現実を以てする経済学への批判は、高田保馬の「勢力説」を知る我々日本人には馴染みぶかいものである[28]。新制度主義の立場からすれば、不完全情報下の取引においては、賃金が限界生産の額に等しくならないのは当然有り得る事態であり、そこに市場の代替的な配分制度として、当事者の交渉力が大きく反映されるような奴隷制や農奴制の存在を不可欠なものとして認めることができる。しかしながら、そのような制度がなぜ、賃金を押し下げる方向で作用するのか。あるいは賃金は可視的な部分では低くとも、人口が稀少財である社会の労働者は、政治的保護などさまざまな面で実質的に多くのものを地主・雇用者から得ていたのか、この説明からは十分ではない。フィールドは、ノースらの荘園制崩壊原因の解釈に、この二つの方向が混在していることを批判ているのである[29]。無論取引費用の低下が賃金の低下を導くという面は存在したかもしれないし、そしてそれはヒックスを含め比較的スタンダードな解釈ではあるけれども、このことと、たとえば労働供給の増加による労働の限界生産の低下の関係についての議論は、明確でない。つまり、現実の歴史事実に照らしてみるとき、奴隷制のような強制的な労働配分制度の廃止の経済的原因について、少なくとも二通りの可能性を考えなければならなくなる[30]。一つは人口成長・土地の稀少化↓相対要素価格の変化(収穫逓減)という道筋であり、もう一つは、取引費用の低下による、労働市場の発達である。すなわち、取引費用が高く、市場的取引が期待できない経済において、ある稀少な財について、厳格・排他的な所有権制度が設定されていたとする。しかしその所有権に対する規制が緩和され、交換が容易になるという事態が見られたとすると、それはその財の稀少性が相対的に低下して、その財についての厳格な所有権制度を維持する必要が低下したからか、あるいは取引費用が低下して、より自由な交換により取引当事者双方にとって割安なことが明らかになったからか。たとえば前者の例としては、ドマーを始めとする限界生産力アプローチの研究が挙げられるが、後者の解釈も少なくない。その代表例はル・フェーヴルからヒックスに受け継がれた、奴隷市場に対する自由労働市場の優位性の主張であり、そこでは労働供給とは無関係に、高い賃金を得るチャンスのある自由労働が、労働者・雇用主双方にとって有利であるとされる[31]。またドマー流のアプローチにしても、人口と市場化の関係にはなお検討すべき余地がある。例えば上述のn人の囚人のジレンマの理論では、プレイヤーの数が多ければ協力は成立しにくい事実も指摘されている。とすれば、人口成長は、労働用役の市場的取引に対する一見阻害的な法制や慣習規制をより多く必要とするように作用するのであろうか。現実に見いだされる事例では、むしろ逆が多いのではなかろうか。ノース自身、ノーベル賞受賞演説の中で、ともに同賞を授与されたフォーゲルが進めているような人口学的研究と取引費用論を如何に整合的に理論化して行くかが、新制度主義にとっての今後の課題であることを、率直に認めている[32]。
ただノースも、要素価格の変化など、相対価格の変化こそが制度変化の最も重要な原因であることを繰り返し主張している。つまり諸資源の稀少性の変化こそが、稀少な資源を巡る紛争の解決という本質を持つ制度を変化させる、最も根本的な原因なのである。さらにここで再度強調しておくべきことは、完成財の市場についてはアダム・スミス流の市場化のトレンドは顕著であっても、土地・労働という人間、社会に密着した要素は「市場制度は比較的支配しにくい」部門であり、非市場的な何らかの分配制度が不可欠であったという事実である。だとすれば、農業生産を基盤とする社会が持つ諸制度の変化にとって、人口動態や、労働土地比率の変化は、最も重要な原因の一つとなる。
第2章 税役制度と身分制度 次に、我々のフィールドである中国前近代史へより近づいた所での、理論からのアプローチについて、最低限の展望を示す必要があろう。筆者には残念ながら長期変動についての実証的な経済史研究を行う準備がないので、ここでは既存の研究の論点を整理するに止まるが、本章ではなるべく理論との繋がりを保ちつつ、先学の成果を振り返って見たいと思う。しかしそれに先立ち、戦後中国史学の社会経済史で関心の的であった労働や土地の配分制度の変遷を考える上で不可欠となる、それらの賦存状況のマクロな推移をごく簡単にさらっておきたい。
中国は比較的閉鎖された地理的条件の中で、数千年にわたって農耕社会を営んできた。しかもその版図の人口規模は、漢代の約五千万、魏晋南北朝期の約三千万から、宋代の一億を経、一六世紀ころから急上昇して清には魏晋南北朝期の約十倍規模にまで達している[33]。その間の土地/人口比率は、諸説により差はあるけれども、大凡グラフ1のように降下していると予測されている[34]。細かい数値には尚検討の要があるが、中国人一人当たりの耕地面積は漢〜唐からは確実に低下しており、開墾の速度以上の人口増大・フロンティアの消滅は、収穫逓減を招いていたことが予測される。かりに、土地利用はまず優良な土地から始まり、次第に劣悪な土地まで利用しなくてはならなくなる、というリカードゥの説を受け入れるならば、収穫逓減は見かけ以上であったと考えられる。またボーズラップらの新マルサス主義的な技術革新論からすれば、水利などさまざまな単位収量増加のための労働集約的技術の採用は、各所で労働/土地比率が悪化していたであろうことを予測させる[35]。
ところで改めて断るまでもないにせよ、人口や労働/土地比率を重視することは、決して人口成長を独立変数と見なすマルサス主義的立場に立つとは限らない。何らかの技術革新がその社会のアウトプットを増加させ、その結果人口増大が見られたにせよ、結果的に労働/土地比率が増大すれば、それはやはり配分制度に何らかの変化をもたらすからである。ここで確認しておくべきことは、中国前近代経済においては、労働/土地比率の上昇がマクロなトレンドであったということである。 ところで中国前近代には徭役重視の隋唐以前の体系から、土地課税を重視する両税制へ、さらに一条鞭法を経て、銀納の土地税としての地丁銀制へ向かうという税体系の変化が存在した。どの段階で完全な土地基準になったかという議論はあるが、一般に税役制が直接的な労働力の把握から、土地基準の税制へと移行していったものと考えられている[36]。例えば重田徳氏は、地丁銀制への道程を、生産力の上昇によって王朝の支配が「労働力の生の収奪」から土地を媒介とする「間接的支配」への移行であり、これを人間解放の道程であると言う[37]。それが生産力の上昇に起因すると見る点は本稿とは異なるにせよ、徭役労働重視・人頭税的な税体系から土地課税を基礎とする税体系へ移行するという図式は共通の了解事項となっていると言ってよい。ただこれについては、岩井茂樹氏が近論の中で、徭役労働・人頭税という税役の収取の一形態に、先験的に個別人身支配=古代奴隷制的原理という支配体制の概念を結び付ける重田氏の議論を批判しつつ、むしろ徭役労働など税役の収取形態はそれを必要とした財政システムの問題として捉えられるべきことを、またそう捉えた場合、硬直的な制度や予算枠と、脆弱な地方財政などによって特徴づけられるという点では、両税法体系と通ずるという見通しが得られること、などを論じられている[38]。氏のこの議論からすると、一般に徭役から土地税へと認識されている事実の背景を考える際には、「生産力の向上」以外にも、必要な財源を王朝の法制として明確に記載する−王安石が試みたように−か、あるいは現実に即応せず運用上そのまま地方に転化する道を辿るか、という、地方官衙の財政運営の在り方の変化にまで目を向ける必要性がありそうである。このことについては、これ以上論じる余裕がないが、やはり長期変動という視点からするとき、王朝の統一的な制度立案の方針が、人重視から土地重視へ移行したことは、依然として否定されていないのではないか。
ところで、労働供給の増加が、労働力調達の方法を賦役わりあてから雇用へ変化させてゆくという事実は、中唐の京畿地方における、差役から募役への移行に顕著に見出されている。その過程を詳細に跡付けた浜口重国氏は、その原因を「戸口則ち労働力の躍進的増加」に求める[39]。そして唐後半に至るまでにに、中央の労働奉仕である「役」は、絹を代納させる「庸」へと取って代わられる傾向が見られたとし、「貞観時代の編戸数は未だ三百万に満たなかったのであるが〔……中略……〕、其後著しく編戸数が増加し、中央の必要とする労働力は中央近き地域のみで十二分に供給し得る様に成ってからは、長途の旅を経て疲労甚だしき者に僅許りの労働力を期待する愚を演ずるの要なきは明白で、最早彼等遠隔の者からは庸を取るのが殆ど全く通例化したと考へられる」[40]と述べている。これを、多少経済学的に換言すれば、労働市場からの労働力調達への変化は、労働供給の増大に伴って遠隔の者を働かせる強制・監督等の費用が割高になった結果である、と理解し得る。均田制を南北朝期以来の荒廃した華北の復興を目指したものと見るべきか、あるいは漢民族王朝の伝統の中に位置づけて考えるべきか、諸説あるが[41]、人基準から土地基準への流れは、中国王朝の支配領域全体の人口成長と労働の収穫逓減という経済のトレンドの中に位置づけて考えることにより、一層明白になろう。
無論、王朝政府の政策そのものが、特に短期的には、民間の労働市場の賃金水準に正または負の影響を及ぼすことも考えられる。たとえば治水、造営、戦争などで一時に大量の労働力が必要となった場合には、労働市場が逼迫し賃金が上昇するから、その結果政府が強制的に労働力を徴発する方が財政上有利になることは多々あるであろう。佃戸の移動や租佃契約の変更を容易にする政策が行われれば、ドマーの言う地主の「結託」を困難にする意味で、賃金水準は上昇する。また取引費用論の立場から、政府に学校制度や特定の財政政策が、労働市場の取引費用を低下させる可能性が指摘されている[42]。もちろん政府部門での需要や政策の変化と賃金の変動の間にどのような関係があったかはケース・バイ・ケースであろうけれど、共通して言えることは、労働の収穫逓減で賃金が低下すれば、それは経済体制全体が土地把握へ誘因づけられる一因となり得るということである。
前章の奴隷制の経済学からすれば、王朝政府の税制のみならず、民間の労働力配分制度についても、労働供給の増加と土地の稀少化に伴い、奴隷制的な社会から地主制的社会へ、という制度変革のトレンドが予測し得るし、確かに戦後日本の研究においては、中国史についてもそのような図式が描かれていた。古代奴隷制から中世農奴制へ、農奴制から近世の自由労働へ、という主張の差はあったが、前近代を通じて人身解放の方向が想定されていた。しかしながら今日、この図式はそのままでは受け入れがたくなっている。高橋芳郎氏が、一連の資料上の再検討によって、現実の経済的地位に対応する佃戸の法身分の上昇、また唐代以前の身分的支配から宋以降の非身分的な支配への移行といった見解について、問題はむしろ王朝の「支配理念」にあり、法制から即応的に社会経済の変化を予測することは難しいとされているからである[43]。無論、かかる見解は戦後の研究の一部を批判したものに過ぎず、人身解放の図式が全く否定されたと考えるのは拙速に過ぎよう。中国史研究会が提示している「国家的奴隷制」から「国家的農奴制」へという見方も、畢竟この人身束縛の弛緩の方向性と一致すると思われる[44]。中国前近代の法制において、身分的束縛が解消されて行くという方向性を認めることの是非については正直な処、浅学の筆者には総括ができないのであるが、とりあえずこのことについて、二つ紹介すべき議論がある。
その第一は人口土地比率の一貫した上昇という点に注目しつつ、新古典派の諸理論を用いて中国前近代史の再解釈を試みる、趙岡のものである[45]。氏は、中国では早くから個人が責任を負う契約による経済が発達していたとしつつ、雇用労働者の給与水準など、様々な史料の博捜により、労働という行為の持つ価値が一貫して低下する事実が見られると主張する[46]。例えば漢などでは文人が自ら耕作に従事する事例が目立つのに対し、宋以降は農業労働者の地位低下は顕著であり、雇用を確保する為に労働者は、低賃金で自らを地主に隷属させようとするという。そのような例として、明中期に広がった投献・投靠を「明代における驚異的な人口増加が、農村における労働の限界生産を生存レベルよりはるかに押し下げ、奴隷になろうとすることさえもが多くの人々に魅力的に映った程であった」結果であると見る[47]。これと関連し、前漢に奴婢が、主人に傲岸な態度を見せたあげく、細々とした仕事まで定められた証文の内容を示され、意気消沈するという著名な王褒『僮約』の事例が想起されてもよいであろう。もし趙氏の主張する通りであれば、労働が稀少な漢代における奴隷は、この事例のように法制による処罰を恐れ、労働供給が過剰な明清時代では、雇用労働者は解雇を最も恐れたことになる。趙岡の議論は、確かに経済理論的には十分想定可能な事態であり、今後十分検討されなければならないものと考えられる。しかしかかる見解の評価には、更に唐宋以降、人口が急成長する以前と以降の不自由労働の実態の比較が不可欠であるが、例えば漢および明清の史料の質・量の差を考える時、客観的な比較は難しく、軽々に結論づけれらないと言わざるを得まい。ところが時代差ではなく地域差という軸で見るとき、要素賦存の相違と労働力把握の形態の関係について、今少し史料の充実が期待できるようである。その一例が、ここで紹介すべき第二の議論、寛郷狭郷論である。
寛郷狭郷論は、戦後の宋元代地主佃戸関係をめぐる論争の中で、主に宮崎市定氏によって一九五〇年代に提出された、佃戸の身分的束縛の地域差についての議論であり、その骨子は、以下の如くである[48]。宮崎氏は宋代の佃戸の性格を巡る論争の中で、佃戸の地主に対する隷属性を強調した周藤吉之氏に対し、周藤の挙げた事例の多くが、「逃移」の場合であり、基本的には契約が尊重され[49]、また「この契約の内容は、労働力が余剰であるか、あるいは労働力が不足するかによって、佃戸の移転が自由になったり、不自由になったりするものと考えられる」とした。宮崎氏によれば、周藤氏が佃戸の隷属性を示すべく引用した多くの事例の舞台が、四川や荊湖地方など「土地が余って労働力が不足する」寛郷であり、「このような土地では地主と地主との間に佃戸の争奪が行われ」て、佃戸がもっと好条件の地に移住しようとしても、地主は「慣習」や「法制の干渉」を期待してこれを妨害する。反対に「土地が少なくて労力が余っている」狭郷では、「佃戸同志の間に土地の争奪が起り」、地主は「法制的な権利でなく、資本主義的な威力」によって「こういう小作人の弱みにつけこんで」佃戸を酷使する。すなわち、寛郷での「中世的」とされた佃戸に対する慣習上・法制上の束縛は、地主が稀少な経済資源である労働力を確保するための制度であり、労働供給が過剰な狭郷では、競争によって労働者(佃戸)は不利な立場におかれたけれども、束縛的な制度ではなく、自由競争的な労働市場が実現していたとするものである。宮崎市定氏は、ともに佃戸の不利な立場を指摘するが、前者は身分的な法制によって強制されて不利であるのに対し、後者は単に低賃金に苦しんでいるのである。またかかる見解は、部分的には柳田節子氏に受け継がれた。氏は佃戸の束縛の強さの地域差を豊富な記述史料の中に確認しつつ、地域差を先進と後進と捉える見方を宮崎氏より明確に打ち出した[50]。そしてこれは均田制崩壊の要因に関する議論ともかかわる所であるが、宮崎市定が「宋代には土地があり剰って労働力が足りなかったか、或いは土地が足りなくて労働力が過剰の傾向にあったかと云えば、極めて特別な場合を除くの外、後者の場合、即ち土地の不足に悩んでいたのが実相である」と言い、また柳田氏が後進地域における地主佃戸関係は、先進地帯たる「両浙のそれと比較した場合、はるかに古い形態をもっていた」と言うあたりに、中国王朝の支配領域全体の所謂「狭郷化」、すなわち労働/土地比率の悪化が農業労働者の身分的束縛の後退をもたらすという展望が感じられるのである。
このように佃戸の地位を労働力の配分の制度として捉え、その地域的差異を土地と労働という二つの本源的な生産要素の賦存状態の地域的差異から説明する議論は、前章で紹介したミクロ経済学的な理論とまさに一致するものであるが、同時に、交渉力のジレンマも宮崎論文の中にそのまま見いだされる。つまり氏が寛郷における「法制の干渉」に対置せられるところの「資本主義的な威力」という表現に含意するものは、具体的には狭郷における佃戸間の競争、換言すれば労働市場における競争原理であると思われるが、では逆になぜ寛郷においてこの「資本主義的な威力」が作用し、労働力の稀少性を背景にした佃戸に強い交渉力が見られないのか、未解決なのである。しかしながら、経済的に見て、地主が労働市場から労働力を得るか、あるいは佃戸の交渉力を抑えつつ、一定の強制・監督・治安費用を支出して不自由労働力を確保するか否かは、その費用と労働の限界生産の比率から決まるし、労働の限界生産には資源賦存、特に人口土地比率が決定的に重要になる。寛郷狭郷論の背景には、こうした経済理論の存在を想定することができる。ただ、寛郷狭郷論に見られるように、随田佃客を宋元時代にさきだつ時期の古い労働の形態の遺物としてのみとらえることは難しい。というのは、清嘉靖年間に至っても随田佃客と同様の実態が見いだせるし[51]、この一九九〇年代に至ってさえ、類似の徭役労働の存在が指摘されているからである[52]。同時代的な地域差と違い、時代による差異は観察者の証言を得にくく、そこにも佃戸の束縛の地域差と時代的な「解放」の道程を関連づけて論じることの方法的困難さが存在する。
しかも単に中国前近代経済における、土地労働比率の低さ(または人口密度の高さ)と、農業労働者に対する束縛の弱さの相関の指摘ということであれば、それは、この宋元に限られない。例えば寛郷狭郷論の根拠の一つともなった、随田佃客として知られる強い束縛を受けた元代湖北の佃戸と同様のものが、明〜清にも安徽、湖北、福建などの周縁地域を中心に存在したことが知られている[53]。また均田制が、北魏の広大な無主の土地が余っていた状況を背景に成立したことも[54]留意すべきであろう。さらに、宮崎氏の当該論文を溯ること数年、柏祐賢氏が「中国に於て身分的な隷属的支配関係が存在せず、極めて自由な契約社会秩序がなり立っているということは、一つにはこのような豊富過剰な労働人口が存在しているからである」[55]とするのは、両氏が共有する、「近世」中国社会が自由契約的な社会であったと見る見方が、あくまで高い人口土地比率を前提としていることを示すものである。
しかしその後、佃戸の隷属性や移転の自由については、あくまで生産力の発展と生産関係の変化から捉えるべきであるとの指摘もあり[56]、むしろ周藤が端をつけた佃戸の階層性の問題として捉えられるようになっている。その中で地域差の問題を受け継いでいるのは柳田節子であって、氏は元豊の客戸統計で寛郷の客戸比率が高いという事実の背景に、フロンティアにおける有田無税戸の広汎な存在を想定する[57]。これに対し、こうした地域には地客などと呼称される、隷属度の強い雇用労働者が多く存在しており、高い客戸率はこうした客戸本来の意味としての無田無税戸の比率が多かったとする見解も根強い[58]。その見解の相違は、佃戸の交渉力に対する評価の相違である。前者は寛郷地域における少ない労働供給が、佃戸の強い交渉力を実現していたとする、前出のフィールドの言う交渉力アプローチであり、隷属的な無田無主戸が多かったと見る後者は、限界生産力アプローチに相当する。現実の宋代の寛郷の風景としてどちらが妥当であるかは、今後の実証研究に待つより外はないが、これが解明されれば取引費用経済学の進展に対する貢献となるかもしれない。
ところで高橋氏は佃戸の隷属性と雇用期間の間に正の相関関係を強調するが[59]、そうした場合、宋元時代の寛郷地域は後代との類似を示すのか、あるいは唐以前の状況に近い「後進的」地域と見られるのか。隷属性の地域差を雇用期間から考えようとした場合、要素賦存と雇用期間の関係について、経済理論は未だに十分な回答を与えてくれないようである。趙岡は労働/土地比率の上昇と長期雇用の増加、労働者の地位低下を結び付けて考えるが[60]、長期にわたる明確なトレンドを示す史料は示されていない。こうした問題について、理論からアプローチを開始しようとするとき、農業経済学・開発経済学における賃金と雇用期間の関係は一つの参照課題であろう。寡聞に及んだ二、三の事例では、例えばバングラデッシュ[61]やインド[62]では賃金と雇用期間に負の相関関係が見いだされているし、逆にインドで正の相関関係が指摘されている事例もある[63]。実証的データの発掘および前近代史にも通用する理論化が今後の課題である。
おわりに 理論の紹介という目的には些か冗長に堕した嫌いのある本稿の中で、筆者が繰り返し指出した労働・土地についての制度変革の原因は、人口成長と土地の稀少化であった。前近代経済の長期変動の原因としては、他にも幾つかあろう。最も根本的な原因として、マルクス経済学で強調される技術水準の向上(生産力の上昇)や地球環境の変化が考えられるが、他にも人間社会は次第に合理化するものであるというウェーバリアン・アプローチも存在する。しかしこの中で、特に人口成長を重視した理由は、一つには本稿で縲説したような理論的な要請によるのであり、もう一つには、それが身分や税制、支配理念、地主制の発達、地域差など、従来から中国史でも重要視されて来たトピックを統一的に説明しようとするさい、不可欠な要素の一つであると考えられるからである。
しかし中国経済史・制度史を論じるには、本稿はあまりに短すぎる。ポスト・ワルラスの諸理論が中国史のどよのうな面に適用し得るか、最低限の展望を示す以上の目的は持たなかったため、積み残して来た問題点はあまりに多かった。実証的な論点を含まない本稿には、新しい歴史的事実の提示というものもない。あるいは近年アジア経済史においてしばしば論じられるチャヤノフ流の小農化傾向の指摘を新古典派的な経済学のパラダイムから捉え直す議論も必要であったかも知れない[64]。筆者の準備不足が最大の原因であるが、本稿の性格上、むしろ当初からこの点を目的としていなかったことも、言い添えなくてはならない。
注 [1]地域概念を無視して無定義に「中国」という事自体、従来の中国史が持っていた制約の一つである。本稿はこの問題に関して積極的な議論を行う意図はないが、ただ地域、地域差という場合は要素賦存の差に重点が置かれ、また単に中国いうときは、王朝の制度が関係してくる範囲を指す。
[2]田口芳弘「ロバート・フォーゲルとノーベル賞」『創文』三五三(一九九四)、座談会(速水融・西川俊作・猪木武徳)「新しい経済史をめぐって−フォーゲルとノースのノーベル賞受賞を機に」同。
[3]こうした経済史研究のパラダイムについては、Rawski, Thomas G. / Li, Lillian
M.“Introduction". Chinese History in Economic Perspective. University of
California Press, 1992 に過不足なく述べられている。 [4]現在の経済学の主流派たる新古典派の価格理論は、限界革命と呼ばれる一八七〇年代のワルラス、ジェボンズ、メンガーらの業績のうえに成り立っており、本稿でしばしば登場する取引費用経済学(TCE)、新制度主義経済学(NIE)なども、価格理論に基礎を置いているという点ではその延長にある。しかし、これらの理論は、ワルラスが一般均衡理論の前提とした市場の完全性自体を再検討するところから、ポスト・ワルラスの経済学とも言われている。無論その意味では、マルクスを含めて古典派は、ワルラスと同様の市場論に基づいている。原洋之介『東南アジア諸国の経済発展−開発主義的政策体系と社会の反応』(東京大学東洋文化研究所、一九九四)、『地域研究と経済学−経済発展の地域性の解明をめざして』(科研費重点領域研究「総合的地域研究」班研究報告)』(一九九四)参照。本稿の市場論の枠組みは、多く同氏が提出している議論によっている。
[5]経済史における人間モデルについての文献は枚挙に暇がないが、大沢正昭氏は唐宋の変革を人間モデルの変化という視点で捉えなおそうとしている。
[6]取引費用経済学にかかわる基本的な邦語文献として、オリバー・ウィリアムソン(井上・中田監訳)『エコノミック・オーガナイゼイション−取引コスト・パラダイムの展開』晃洋書房、一九八九)、ロナルド・コース(宮沢建一、後藤晃、藤垣芳文共訳)『企業・市場・法』(東洋経済新報社、一九九二)、最近の動向を知る手掛かりとしてChristos
Pitelis ed.,Transaction Costs, Markets and Hierarchies. Blackwell Publishers,
Cambridge, MA,1993。制度変革についてはダグラス・C・ノース (竹下公視訳)『制度・制度変化・経済成果』(晃洋書房、一九九四)が現在もっとも拠るべき研究であり、本稿でもノースの理論について触れるときは、特に断りのない限り、同書を参照している。なお、ノースには邦訳として(R・P・トマスと共著、速水融、穐本洋哉訳)『西欧世界の勃興(増補版)』(ミネルヴァ書房、一九九四、初版一九八〇)、(中島正人訳)『文明史の経済学−財産権・国家・イデオロギー』(春秋社、一九八九)もある。
[7]E・L・ジョーンズの「中国史に関する真の問い−宋代の経済成長はなぜ繰り返されなかったのか−」と題する論文に動向が紹介されているように、英語圏の中国経済史では、明中期以降、中国経済は生産の伸びを人口増が食いつぶし、一人頭生産高が低下する傾向にあったと考えられており、総じて明清は経済が停滞したとされている(Jones,
E.L.“The real question about China : why was the Song economic achievement not
repeated?" Australian economic history review, 30ー2. 1990)。とくに前近代経済成長と近代化の視点から論じたものとしてFeuerwerker,
Albert “Early modern economic history that I wish I could answer". The
journal of Asian studies, 51-4. 1992をも参照。経済のトレンドを知ろうとするとき、一人頭生産高とならんで重要な指標となるのが一人頭消費の水準であるが、これについては宋代についての斯波義信「宋代の消費・生産水準試探」『中国史学』一(一九九一)などごく僅かしか研究がなく、今後の研究の進展が待たれる。ジョーンズは宋代の高い経済成長を宋代の中央集権体制による取引費用低減と関連づけて解釈しようとするが、これは実質的には、明清には自立救済型の経済体制が強まり経済の停滞が見られたとする村松祐次の議論とその論点を共有するものである(『中国経済の社会態制』(復刊、東洋経済新報社、一九七五、もと一九四九)。なお宋代には民事立法が具体的であること、また清代と異なり、宋代には判語において根拠となる法律条文を引く事例が多く見られるなど、社会にルール志向が強く見られることなどを指摘する法制史での成果が上がっているが(滋賀修三『中国家族法の原理』、佐立治人「『清明集』の「法意」と「人情」−訴訟当事者による法律解釈の痕跡−」(梅原郁編)『中国近世の法制と社会』(京都大学人文科学研究所、一九九三)、これなどはジョーンズ・村松の理論と整合的に解釈し得るものである。また取引費用を意識しつつ、遠距離での取引での費用を低減する交通について一連の研究を行ったのが、斯波義信氏である(『宋代商業史研究』風間書房、一九八六)。Ramon
H. Myers. “Customary Laws, Markets, and Resource Transactions in Later Imperial
China" in Explorations in the New Economic History : Essays in Honor of
Douglass C. North, ( R.Sutch and G.M.Walton, Academic Press, New York, 1982もあるが未見。
[8]原前掲書(注[4])一一九頁 [9]J・R・ヒックス(新保博訳)『経済史の理論』(日本経済新聞社、一九七〇)一五三頁。 [10]『西欧世界の勃興』『文明史の経済学』(注[6]参照)中のノースの解釈では、フリーライダー問題の解決に、排他的な財産権(所有権、property
rights)の設定が必要であったとする。「厳格な」財産権とは、この排他性を意味する。『文明史の経済学』では、前著がかかる稀少財に対する財産権が効率的であったとしたのに対し、しばしば支配者に有利な設定になっている場合があることを強調している。
[11]すでにヒックスがの中で、労働−就中、他人のために働く労働−は、はじめ奴隷制から始まり、次第に労働の用役のみを取引する、自由労働に道を譲ったことを論じている(前掲『経済史の理論』第八章「労働市場」)。
[12]無論、自由労働であっても、低賃金により奴隷労働以下の悲惨な状況になることは十分考え得る。欧米の奴隷制・農奴制から導き出された諸研究においては、奴隷労働(不自由労働)と自由労働の違いは、ヒックス(前注[11])、バーゼル(Barzel,
Yoram. Economic analysis of property rights. Cambridge U.P.1989, p.76)が指摘するように、強制されるか否かである。後述の趙岡の言う如く、中華帝国期の中国社会においては契約による労働が基本であるとすれば、中国史にこの奴隷労働と自由労働の違いを適用するのは一見適合的でないように思えるが、本稿の以降の部分で明らかになるように、これらの問題は結局のところ労働賃金がどれだけ低下するかという程度問題に帰着する。
[13]オランダの人類学者ニーボアの新大陸奴隷制についての議論、またロシア農奴制についてはクリウチェフスキーの同様の議論があるが、こうした観察記録がドマー仮説の基礎となっている(Domar,
D. Evsey“The causes of slavery or serfdom : a hypothesis". The journal of
economic history,30:1.1970)。ドマー仮説は、ニーボア・ドマー仮説とも称されている。 [14]ロバート・W・フォーゲル/スタンレイ・L・エンガマン(田口芳弘、榊原胖夫、渋谷昭彦訳)『苦難のとき−アメリカ・ニグロ奴隷制の経済学』(創文社、一九八一)。新大陸奴隷制の研究動向については田口芳弘「アメリカ奴隷制の経済学をめぐる論争:その展望」(同志社大学経済学会『経済学論叢』三〇−三・四(一九八二)、渋谷昭彦「奴隷制経済学の新展開−フォーゲルとエンガマンの分析をめぐって」同。
[15]比較奴隷制の分野では、奴隷制廃止の必然性を経済決定論的な立場から主張するEric Williams流の考え方や、思想・政治の力を重視するOrlando
Patterson(主に古代ギリシア)、Igor Kopitov, Susanne Myers(非農業部門のアフリカ奴隷制)らの主張の両極があるが、やや経済史重視の立場からの学説史の整理として、Kolchin,
Peter.“Some recent works on slavery outside the United States : an American
perspective". Comparative studies in society and history, 28-4. 1986、Unfree
labor : American slavery and Russian serfdom. Belknap, Harvard.1987がある。ロシア農奴制についてDomar
and M.J.Machina“On the Profitabiliy of Russian Serfdom". Journal of
economic history, 44:4. 1984)。アジア史については本文で後述。 [16]その顕著な例として、Journal of economic history誌の三三巻一号(一九七三年三月)は財産権理論の特集号の如くであり、A.D.Chandler,
A.Alchian, H.Demsetzら錚々たる理論経済学者が、経済史における財産権理論の適用について論じている。そこでは奴隷制の経済学が中心的なテーマとなっている。
[17]以下、引用も含め原洋之介「「商人国家アユタヤ王朝」仮説について」(原洋之介編)『東南アジアからの知的冒険』(リブロポート、一九八六)一六〜一九頁。
[18]すでに(安沢秀一、安沢みね訳)『農業成長の諸条件』(ミネルヴァ書房、一九七五)などいくつかの邦訳が出ているが、女史の業績の位置付けを知る手頃なものとして、論文集Economic
and Demographic relationships.Johns Hopkins U.P. 1990に付されたT.Paul Schultzによるintroducionが適切である。需要先行型の新古典派的パラダイムでは、生産要素の相対価格の変化が技術革新の引き金となるとする議論自体は決して新奇なものではなく、ヒックスが既に『賃金の理論』(一九三二)の中で、生産要素の「相対価格の変化は、いまや低廉となった要素をより多く、高価なそれをより少なく使用する、新しい生産方法の探求を刺激するであろう」(新版一〇五頁)と述べているのである。
[19]農業経済学における技術革新や制度変革の諸理論についてHayami, Yujiro (速水佑次郎) /
Ruttan, Vermon W. Agricultural development (revised edition), The Johns Hopins
U.P.,1985, p.41-72, Ruttan.“Induced institutional change" in Induced
innovation (Binswanger,Hans P., Ruttan &c ed.), The Johns Hopins U.P.,1978。
[20]本稿とのからみで参照に値する邦訳文献をあえて一つづつ挙げるとすると、ファン・バート(速水融訳)『西ヨーロッパ農業発達史』(日本評論社、一九六九)、ポスタン(保坂栄一訳)『中世の経済と社会』(未来社、一九七四)、ラデュリエ(和田愛子訳)『ラングドックの歴史』(白水社、一九九四)、リグリィ(近藤正臣訳)『エネルギーと産業革命』(同文館、一九九一)。生産力の増大が階級矛盾と革命を通じて制度変化を齎すとする、マルクスに代表される技術先行・供給先行型のモデルが、労働価値説をコアとする古典派の制度変革の理論であるとすれば、これらは明らかに相対的な交換比率に視座を据える限界革命以降の制度・技術論であると言えよう。
[21]リチャード・G・ウィルキンソン(斎藤修、安元稔、西川俊作訳)『経済発展の生態学−貧困と進歩にかんする新解釈』(リブロポート、一九八五)一四二〜一四三頁。英語圏では今日、エコロジー関連の文献以外に、同書が参照されることは少なくなったが、本邦においては一九七五年に邦訳が出されて以来、同書は少なからぬ反響を呼び起こした。
[22]大島真理夫「幕藩体制の世界史的位置」『経済学雑誌』(大阪市立大学)八七別冊二(一九八六)。 [23]大島真理夫「ポスト工業社会からの経済史認識」『経済学雑誌』(大阪市立大学)九〇別冊(一九八九)。氏にはノース『制度・制度変化・経済成果』をいち早く紹介した「「大海の中の島々」および「陸地と湾」という比喩−D・C・ノースの経済史理論について」同九五別冊(一九九四)もある。
[24]なお、改めて断る必要もないであろうが、賃金という場合、それは貨幣によって支払われるものとは限らない。労働の用役の、他の財・サービスとの交換比率を意味し、その額は労働の限界生産の額に等しいというのが、完全市場下での新古典派の定理である。
[25]以下、注[13]ドマー論文による。 [26]『西欧世界の勃興』二一六頁。同書第三章およびそのもととなったNorth/Thomas.“The rise
and fall of the manorial system : a theoretical model". The journal of
economic history, 31:4. 1971 は、ドマー論文の理論に基づく。一〇世紀ころまでの「古典荘園は、無秩序、豊富な土地、軍事力の相違が存在し、労働が稀少である限り、残存し」たが、人口増大と収穫逓減は、こうした制度を破壊したという(同書三〇頁〜)。ノースらのこの研究に対しては批判も多く、ノースはそれらを整理しつつ、『文明史の経済学』一七六−一七八頁にまとめて反批判を行っている。次注[27]のフィールド論文も、ノース/トマス・モデルに対する厳しい方法論的批判である。
[27]Field, Alexander J.“The problem with neoclassical
institutional economics : a critique with special reference to the North/Thomas
Model of pre-1500 Europe". Explorations in economic history,18:3. 1981。 [28]高田保馬と中山伊知郎の論争について間宮陽介「日本における近代経済学」『日本社会科学の思想』に適切なまとめがある。この問題についてはフリッツ・マッハルプ(安場保吉、高木保興訳)「高田教授への返答」『経済学と意味論』(日本経済新聞社、一九八二)にも基本的な対立が見える。
[29]フィールドは前注[28]論文において、ノース/トマスが一〇世紀の古典荘園崩壊についてはドマー流の「限界生産力論」を用い、黒死病で人口が激減した後、農奴の交渉力の増大により自立化傾向を強めた時には「交渉力説」を用いており、一貫していない点を指摘する。この点は、批判の後の出版になる『文明史の経済学』においても、説得的な再解釈は試みられていない。ノースはこの点に関して決して首尾一貫した主張をしていた訳ではない。ノース自身の回顧に基づけば、一九七三までは、稀少資源についての排他的財産権制度は、フリーライダーを排除して経済主体に好適なインセンティヴを付与する効率的なものであったと考え、また一九八一においては、効率性アプローチを放棄し、資源配分制度には制度決定者の交渉力が反映されるというウィルキンソンに近い主張をしている。それでは、そのような有力者の交渉力が反映された「非効率的な」制度がなぜ淘汰されずに長期間存続し得たのか、という疑問点が、近著の出発点を形作っている。
[30]この二つ以外にも、奴隷制廃止の重要な契機として、ノースの言う「選好の変化」、つまり奴隷制廃止論への思想的・イデオロギー的な変化を挙げることができる。現実のアメリカ奴隷制・ロシア農奴制の廃止において、思想の変化が大きな役割を果たしたという見解、このテーマについての莫大な経済学的分析の文献の、いわば結論部分とも言えるものである。自由、平等といった反奴隷制的な主張は、殊に近代世界においては労働の自由化に極めて重要な役割を果たすものであった。思想内容についてベッカーやスティグラーは、相対価格の変化がそれに影響を及ぼすという、さらに経済決定論的な立場をとっているが(『制度・制度変化・経済成果』三一頁参照)、『苦難のとき』以来常に論争の中心に立ってきたエンガマンは、経済学的アプローチの限界を率直に認めている(Engerman,
Stanley L.“ Slavery and emancipation in comparative perspective : a look at
some recent debates". Journal of economic history, 46:2. 1986)。また原洋之介氏と全く同じ問題を同じ方向から扱っているフィーニーは、原氏とは異なり、さまざまな計量的な議論のすえ、賦役労働制度の収益性の低下は制度を廃止させるまでには至っていなかった点を強調し、それにもかかわらずチャクリ改革でこうした制度変革が起こった背景に、近代イデオロギーの存在を見いだそうとする。エンガマンやピーター・テミンとまさに軌を一にする論議であり、そのタイトルにある「人についての所有権property
rights in man」という用法は、注[16]で触れた一九七〇年代の諸研究の中で多用されたものである(Feeny, David. “The
dicline of property rights in man in Thailand". The journal of economic
history, 49:2. 1989)。王朝の理念というものを考えるとき、この「嗜好」の動向が経済の動向にどの程度の影響されるのかが、大きな問題となろう。なお、ノースは、嗜好の変化の観点にさらに、投票制度など、個々人が意見を表明するコストが低下して来たことする見方を導入しようとする(『制度・制度変化・経済成果』一一二頁)。
[31]『経済史の理論』一八三〜二〇九頁。 [32]ノーベル賞受賞記念講演はNorth.“Economic performance through
time". Fogel, Robert W. “Economic growth, population theory, and
physiology : the bearing of long-term processes on the making of economic
policy". American economic review, 84:3. 1994。 [33]周知のように中華帝国期を全体的に対象としたマクロな人口動態の研究はいくつかあるが、最近のものとして葛剣雄『中国人口発達史』(福建人民出版社、一九九一)。唐中期から宋代には確かに一定程度の人口成長が見られるが、未開発の内陸コロニーの存在により、人口圧は相殺されていたとする斯波義信氏の指摘もある(『宋代江南経済史の研究』汲古書院、一九八九、一七頁)。
[34]趙岡、Daniel Little116/Chao, Kang (趙岡)『Man and Land in
Chinese History : An Economic Analysis』(Stanford U.P., Stanford1986) [35]注[18]『農業成長の諸条件』など参照。 [36]両税法についての諸問題を含め、島居一康「序論」『宋代税政史研究』に適切な学説史のまとめが見られる。なお前出大島氏の所論は、一条鞭法・地丁銀制を以て田土課税の成立と見る小山正明氏と軌を一にするものであるが、島居氏はすでに両税法が原則的に土地課税であったと見る。
[37]重田徳「一条鞭法と地丁銀との間」(一九六七)『清代社会経済史研究』(岩波書店、一九七五)一三七頁、同「地丁銀の成立と農民」(一九六八)同書一四七頁。
[38]岩井茂樹「徭役と財政のあいだ−中国税役制度の歴史的理解にむけて」(1)、(2)『経済経営論叢』(京都産業大学経済経営学会)二八−四、二九−一(一九九四)
[39]「唐に於ける両税法以前の徭役労働」(一九三三)『秦漢隋唐史の研究』上巻、東大出版会、一九六六、五四六頁 [40]同書(前注[39])五四三頁 [41]均田制の位置づけについての簡潔な研究史として、宮沢知之「宋代農村社会史研究の展開」『戦後日本の中国史論争』(谷川道雄編、河合出版、一九九三)。
[42]原洋之介前掲書(注[4])一二二−一二三頁。 [43]高橋氏の身分制研究批判は、氏の諸論文全体を通じて繰り返し行われているが、紙幅の関係から宋以降の雇用労働者の法身分についてとりあえず二、三に絞るならば「宋元代の奴婢・雇傭人・佃僕について−法的身分の形成と特質」『北海道大学文学部紀要』二六−二(一九七八)、「宋代佃戸の身分問題」『東洋史研究』三七−三(一九七八)、「部曲・客女から人力・女使へ
− 唐宋間身分編成原理の転換 − 」『変革期アジアの法と経済』(昭和五八−六〇年度文部省科研費報告書)、一九八六)、特に恩養と隷属性について「中国史における恩と身分−宋代以降の主佃関係とも関連させて」『史朋』二六(一九九三)
[44]こうした見解について多くの著作があるが、筆者なりにあえて一つを挙げるとすれば、渡辺信一郎『中国古代社会論』(青木書店、一九八六)。理論的な著作として島居一康「『国家的奴隷制』『国家的農奴制』概念の中国前近代史への適用をめぐって」『日本史研究』一六三(一九七五)、中村哲『奴隷制・農奴制の理論−マルクス・エンゲルスの歴史理論の再構成』(東京大学出版会、一九七七)がある。こうした労働価値説的な諸研究の海を前にするとき、本稿で紹介したような新古典派的な奴隷制研究の積み重ねが如何に微々たるものかを実感せざるを得ない。こうしたマルクス経済学に基礎をおいた成果を「近代経済学」の用語で再解釈し、取り入れて行くことが経済史研究に与えられた課題である。
[45]Chao,Kang. Man and land in Chinese history : an
economic analysis".Stanford U.P., 1986。本書には、すでに一二以上もの書評が寄せられているが、Yeh-chien
Wang(王業鍵)によるもの(Harvard journal of Asiatic studies. 50:1, 1990)とRamon H. Myersによる書評論文
“Land and labor in China." Economic development and cultural change, 36:4.
1988は、趙岡の賃金水準や地価についての基礎的なデータ処理に再考を迫っているもので、重要である。またLittle, Daniel. Understanding
peasant China : case studies in the philosophy of social science. Yale U.P, New
Heaven and London, 1989はその人口決定論的なアプローチを徹底批判する(一〇五頁〜一一八頁)。これらの批判は主に数値に基づいて行われているが、趙岡の中文の二共著(趙岡、陳鐘毅『中国土地制度史』聨経出版事業公司、一九八二)『中国経済制度史論』同公司、一九八六)には英語本には省かれている様々な非数値的な漢文史料が盛られているので、併せ見るべきである。
[46]前掲Man and land in Chinese history一五八〜一五九頁。 [47]前掲Man and land in Chinese history一五四〜一五五頁。 [48]寛郷狭郷という語は、均田制の用語として唐代以前においても見られ、また宋代にも役法を巡る政策議論の中で、郷や都における「寛」「狭」が問題となった。前者についての最近の成果として佐々木栄一「北魏均田法の基礎的研究(三)−狭郷規定をめぐって−」『東北大学東洋史論集』五(一九九二)、後者については周藤吉之「南宋の役法と寛郷・狭郷・寛都・狭都との関係」『唐宋社会経済史研究』(東大出版会、一九六五)参照。宮崎市定氏の宋元代の佃戸制にかかわる寛郷狭郷論は、以下ことに注記のない限り、「宋代以降の土地所有形体」(一九五二)『アジア史研究』第四(同朋舎、一九六四)による。また草野靖氏も、寛郷狭郷論を受け継ぎ、基本的に佃戸の隷属性は「土地と労働の需給関係」によって決まることを敷延している(「唐中期以降における商品経済の発展と地主制」『歴史学研究』二九二、一九六四)。
[49]橘樸氏、柏祐賢氏、宮崎両氏らが強調する宋代以降の中国「近世」社会が自由契約的であったとする見解は、岸本美緒氏の中国社会論にも受け継がれ(「モラル・エコノミー論と中国社会研究」『思想』七九、一九九〇)、また趙岡も中国には伝統的に自由契約的な要素市場(土地(貸借)市場と労働市場)が存在したことを強調する(前掲書)。また、柏・趙氏ともに、前近代経済における人口増加あるいは土地人口比率の低下がその前提となっていたとしているのは留意すべきであろう(趙前掲書一〇八頁)。
[50]柳田節子「宋代土地所有制にみられる二つの型−先進と辺境」『東京大学東洋文化研究所紀要』二九(一九六三) [51]小山正明『明清社会経済史研究』(東京大学出版会、一九九二)二六八−二二九頁参照。
[52]前掲岩井論文(注[38]) [53]小山正明「明末清初の大土地所有」(前掲書(注[51])、もと一九五七)。 [54]越智重明「北魏の均田制をめぐって」『史淵』一〇八(一九七二) [55]『経済秩序個性論−中国経済の研究』第三分冊(人文書林、一九四八)、六八五頁。 [56]佐竹靖彦「五代・宋・元」『史学雑誌−回顧と展望』七九−五(一九七〇)、草野靖「大土地所有と佃戸制の展開」『岩波講座世界歴史九(中世三)』(岩波書店、一九七〇)。佐竹氏が、「寛郷には土地が余っている」という見方に対し、「土地が余っているといのは一般的に土地が余っているということではなく、生産力の発展と生産関係の変化によって、開墾可能な土地が出現し、それが開発能力を上回っているということであろう」と述べる時、可耕地面積は「生産力」の完全な従属変数と仮定され、もともとの土地賦存は考慮されない如くである。
[57]柳田節子「宋代の客戸について」(一九五九)、『宋元郷村制の研究』(汲古書院、一九八六)、「宋代の客戸をめぐる諸問題」同書(一九八六)
[58]主客戸論争の過程の最近の紹介として、宮沢知之「第五章、宋代農村社会史研究の展開」谷川道雄編著『戦後日本の中国史論争』(河合出版、一九九三)を挙げることができる。趙岡も客戸の意味、元豊の客戸比率の問題に触れ、無田無税戸説に基づきつつ、労働土地比率の低かった地域において地主佃戸間の隷属的な関係が見られるのは、要素市場が発達していなかったためであるとする(前掲書chapter
6,“Land distribution" 参照)。 [59]高橋前掲論文(一九九三)。 [60]身分法や雇用期間、隷属性については、趙岡も略同の見解を取る(一五一頁)。 [61]藤田幸一『バングラデッシュ農業発展論序説』(農業総合研究所、一九九三)一一六頁 [62]一八七〇年代のインドの事例として、柳沢悠『南インド社会経済史研究』(東京大学出版会、一九九一)八〇頁。 [63]K.N.Raj et al, Essay on the commercializations of
Indian agriculture, p.180f。これについては柳沢悠氏のご教示によることを、謝して記したい。 [64]長期変動を小農化傾向から捉えるという特色を強く有するのは、溝口雄三・浜下武志・平石直昭・宮嶋博史編『長期社会変動(アジアから考える六)』(東京大学出版会、一九九四)所収の宮嶋論文、柳沢論文などである。小農経済論についてはすでに多くの文献が出されている。
|
青木教官のページ |
AAEAS |