質問箱

大谷3号窯 なんでも質問箱

大谷3号窯を見学された亀岡高校の生徒さんより、いくつかの質問を受けました。ここでは、その質問にお答えしたいと思います。今回の調査をおこなった阪大の高橋照彦と学生とが分担してお答えしています。まったくの個人的な内容の答えもありますが、何かのご参考になれば、幸いです。見学に来られた亀岡高校のみなさん、ありがとうございました。

<専門編>

Q1.須恵器(すえき)を作る時に、ロクロを使うと聞いたのですが、昔はその台をどのように回していたのですか?

A 篠窯(しのよう)で作られた平安時代の須恵器などは、ロクロ(轆轤)と呼ばれる回転する台の上で、その回転力を用いて、器の形を作っていました。須恵器の表面には、ロクロで挽き上げられたり、形を整えたりした際の痕跡を残しているものがあります。

さて、ご質問の答えですが、ロクロは普通、木でできているため、地中では腐ってしまい、日本古代でどのようなものを使っていたのかは、実のところ、十分には明らかでありません。ただ、後の時代に用いられたロクロには、手で回転させるものと、足で回転させるものの2種がありました。

手で回転させるものには、台の部分を直接、手で持って回転させるもの以外に、ロクロの上面に穿(うが)たれたくぼみに棒を差し込んで回転させる場合もあります。足で回転させるものは、器を載せるロクロの台の下に、同じ軸に固定された円盤状の部分があり、その部分を足で蹴るようにして回転させます。それは一般に蹴(け)ロクロと呼ばれています。回転させる際にも、両手が空いているので、効率的なものです。現代では、もちろん?、電動のロクロが主流です。(高橋)

Q2.緑釉陶器(りょくゆうとうき)は800度くらいで焼かないといけないそうですが、どのように温度を調節していたのですか?

A 日本古代の緑釉陶器は窯(かま)で2度、焼かれていました。1度目は素地(そじ)の焼成で、その温度は場合によって大きく差がありました。須恵器のような素地のものは、当然、須恵器と同様に、11001200度の高温で焼かれました。

2度目は、素地に釉薬(ゆうやく)を塗って、焼成されます。この際には、釉薬の原料の関係で、800度前後の温度で焼かなければなりません。温度があまりに低いと釉薬がガラス質にならず、逆に高すぎると泡立ってしまうなど、きれいな釉として仕上がりません。ちなみに、温度とともに窯内の雰囲気(酸素の多さ・少なさ)も、釉の発色には、重要な要素となります。

 さて、ご質問についてですが、窯の温度は、燃焼させる薪(まき)の量を加減することによって調節します。焼き物を作る陶工は、炎の色や窯に納められた焼き物の色の変化などから、経験的に温度がわかるといいます。(高橋)

Q3.窯(かま)の中では、土器は火に近いところだったり、重ねたうちの下側だったりすると思いますが、焼き上がりは違ってくるのですか?

A ご指摘の通り、焼き上がりは違ってきます。燃焼部と呼ばれる薪を燃やす部分の近くと、その反対に窯の奧で煙が出る煙り出し(けむりだし)と呼ばれる部分の近くでは、同じ窯の中でも温度が異なります。

燃焼部に近い場所に置かれた焼き物は、火に近いため、硬質に焼きあがり、燃やした際の灰が舞い上がって器の表面に付着し、それが溶けて自然釉(しぜんゆう)となっている場合があります。また、1つの器でも直接火の当たる部分とそうでない部分とでは、焼け具合が異なってきます。そのため、火表(ひおもて)、火裏(ひうら)などと呼び分けています。博物館などで焼き物を見る時など、火表かどうかを注意深く観察してみてください。

窯では、椀や皿などの小型の製品は、重ねて積み上げるようにして大量に焼くのが普通ですが、その場合も一番上にあるものは、降灰によって、自然釉がかかる場合が多く、下のものはそのようなことが避けられます。自然釉がどのようにかかっているか、別の製品と引っ付いていないか、などを調べると、窯でどのように焼き物が置かれていたかが復元でき、当時の焼き物作りにおける工夫を垣間(かいま)見ることができます。 (高橋)

Q4.平安京まで重い陶器を運ぶためには、老ノ坂(おいのさか、亀岡市と京都市の境の峠)を越えなければいけないのに、なぜ丹波(たんば)で焼き物の窯が多く築かれたのですか?

A 確かに、焼き物は重いため、たくさん運ぶとなると大変です。ですから、運搬する費用面だけを取り上げれば、例えば平安京で使う焼き物もできるだけ近くで作るほうが好ましいと言うことになります。

ただ、同じくかなりの重量のある必需品、「米」の場合、各地から平安京に運ばれています。このことからもわかるように、重いとは言っても、必要によっては当然ながら様々な物資を各地から運んでこなければなりません。運搬以外の側面も考慮しなければならないのです。

 それでは、なぜ丹波で盛んに焼き物作りが行われていたのでしょうか。その理由は、いろいろと考えることができます。まず第一に、陶土(とうど)の問題があります。須恵器などの高温で焼き上げる焼き物には、それに適した土を選ぶ必要があります。窯場としては、そのような適当な土を取ることができる場所が望まれることになります。

また、薪(まき)などの燃料が豊富に集まることや、窯を築くに適した丘陵があることなども、必要な条件になります。丹波の篠窯(しのよう)はそれらの条件を満たしていました。

さらに最も重要なのが、焼き物作りの技術者、働き手の問題でしょう。794年に、都・平安京という一大消費地が誕生し、急に多量の食器が必要となりました。それまでの須恵器の大生産地は大阪南部の陶邑(すえむら)と呼ばれている産地でしたが、平安京からすると、少々遠方です。

そうなると、平安京が置かれた山城(やましろ)国近辺の須恵器の産地が重要になってきました。山城では、奈良時代から洛北(らくほく)の岩倉(いわくら)などで須恵器の生産が行われていました。しかし、この洛北では、平安京で必要な瓦を焼く役割が課せられます。つまり、洛北では充分に須恵器生産を行うのは難しくなります。不足する須恵器をどこからか調達しなければなりません。とはいっても、平安京の近くですぐにどこででも須恵器を作り始めることなどはできません。須恵器作りにはさまざまな技術が必要なのです。須恵器を作ったことのない地域では、多量の需要(じゅよう)にすぐには対応ができません。

そこで、にわかにクローズアップされるのが丹波です。丹波は、既に奈良時代から丹波の国内への供給のために、須恵器を作っていました。須恵器作りのための基礎技術が、丹波・篠付近の地元に根付いており、平安京周辺では最も近い須恵器の大きな産地が篠窯だったのです。このように、いくつかの要因が重なって、丹波の篠窯は大きく発展を遂げていったものと推測されます。 (高橋)

Q5.緑釉陶器(りょくゆうとうき)はなぜ廃(すた)れたのですか?

A この問題については、実のところ、いろいろな説があります。1つめは、原材料の不足です。緑釉を作るためには、鉛が必要になります。この鉛の産出量が減少したため、緑釉を作れなくなったというのが1つの説です。

2つめは、流行の変化です。10世紀頃までは青磁(せいじ)と呼ばれる緑色をした中国製の陶磁器がごくわずかながら日本に輸入されていましたが、11世紀頃以降に輸入された中国陶磁器は、白色を呈する白磁(はくじ)に変わっていきます。緑色の器が時代遅れになって、緑釉陶器が作られなくなったという説です。

3つめは、作り手の問題です。緑釉陶器の生産には、複雑な工程を必要とするのですが、きちんとした組織がなければ、その工程を維持することが難しくなります。国家体制の変化などにより、緑釉陶器作りの組織を支えることができなくなったという考えです。

 他にもさまざまな要因が重なったのかもしれません。鉛の産出がゼロになったわけでもなく、また緑釉陶器が欲しいのに手に入らないという内容を記した当時の史料(日記)などもあるので、私個人としては、3番目の側面をより重視しています。

ただ、丹波・篠窯の場合を取り上げると、別の背景もみえてきます。緑釉陶器生産が衰退する時期(10世紀後半頃)に、近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)で緑釉陶器生産が盛んになります。篠の緑釉陶器生産の衰退は、近江にその地位を譲ったためと言えそうです。ただし、その頃の篠では、須恵器の生産は従来通り維持されています。さらに11世紀には緑釉瓦を含めて瓦の生産が盛んに行われます。このことから、篠窯では、10世紀後半頃より、近江との競合もあって、緑釉陶器から再び須恵器、さらには瓦の生産へと重点を移すことになったことがわかります。 (高橋)

Q6.次の発掘候補地として目をつけている場所はありますか?

 A 皆さんなら、どこを発掘してみますか?(と言っても、もちろん、勝手に発掘はしないでくださいね。発掘には諸届けを提出しなければなりませんし、そのためのさまざまな技術や知識が必要ですので。)

2004年に調査をした篠の大谷(おおたに)地区だけでも、今後の発掘候補地点はいくつかあります。その場所は?・・・秘密です。2005年度以降に、可能な範囲で調査をする予定です。篠窯は、まだまだ未解明のところが多い遺跡群です。今後の調査が私自身も楽しみです。

 ただし、ここで少し付け加えておきたいことがあります。大学が行う発掘調査は学術目的ですが、同じ発掘とはいえども、現在行われている多くの発掘調査は、開発に伴って緊急に行われるものです。そのために調査後には破壊されてしまうことがほとんどです。日本有数の須恵器の窯跡群の多くは、既に開発などによって破壊されて、かつての面影(おもかげ)をとどめる遺跡は多くありません。その中で、篠窯は遺跡が全体として比較的破壊を受けることが少なく、その点でも非常に貴重な遺跡なのです。

今後、篠窯の全容が明らかになるためにも、発掘を含めた様々な調査が必要です。しかし、遺跡の破壊を進めるような発掘の増加を生まないことを祈っています。篠窯の重要性がいっそう認識されて、遺跡が保存・活用されていくよう、われわれも努めていくつもりです。
(高橋)

<一般編>

Q1.大学の発掘調査で一番楽しいこと、うれしいことは何ですか?

A 「宿舎での共同生活」(学部生)、「合宿生活」(大学院生)など。

阪大学生の間では、寝食をともにする合宿が、大学生活として普段では味わえないものであり、楽しいという答えが多いようです。

Q2.発掘をする時の楽しさは何ですか?

A 「遺物を発見したとき。特に考古学上、新しいものなどを発見したとき」(大学院生)

  「頭も体も両方同時に使うこと」(学部生)

  「土が埋まった順番(土層の堆積)などを考えて、過去を復元すること」(大学院生)

など、人それぞれ。未知のものを、地中より自分の手で掘り出して、古しえ(いにしえ)の人々の暮らしに直接触れることができるのは、なにより楽しいものです。でも、掘り出したからには、それを正確に記録し、発掘していない人にもわかる形で、報告していく責任が生まれます。苦と楽はいつも背中合わせ?です。

Q3.掘り出して一番うれしいものは何ですか?

A 「古墳の埴輪。出土遺物の中で特に好きなので。」(大学院生)

「古墳の埋葬施設」(大学院生)

  「鉄鏃・鉄剣などの武器類」(学部生)

  学生それぞれに興味の対象が違います。発掘したいものも、さまざま。大学では、自分が興味を持った対象を調べ、勉強を重ねることから、卒業論文などをまとめていくことになります。

Q4.次にどんな遺跡を発掘したいですか?

A 「弥生時代の集落」(学部生)

「古墳です」(大学院生)

「6世紀前半ぐらいの須恵器窯」(大学院生)

  やはり、皆それぞれに興味を持っている遺跡があります。ただし、考古学を勉強していく上では、あまり関心がない遺跡も調査する経験を持つことも必要です。幅広い知識と経験が、最後には自分の専門のためにも、役に立ってきます。もしもあなたが考古学を勉強したいというのであれば、まずは広い基礎知識を身に付けておくことが、遠回りのようですが、実は重要なことと思います。

Q5.現地見学の際に、硯(すずり、写真?、図?―?)の破片を見ましたが、それを初めて見た時に、即「硯!」って、思いましたか?

A 「思えなかった。硯の脚の部分だったので、わからなかった」(学部生)

「教えてもらい、後で本で調べました」(大学院生)

「(見る前に聞いていたが)たぶん、わかったはず。」(大学院生)

中・高校生の皆さんもご安心ください。考古学を勉強しようという大学生もわからなかった場合が多いのですから。このような遺物の破片から、全体がイメージできるようになったら、考古学者(でも半人前の?)というところでしょうか。

Q6.なぜ考古学を勉強しようと思ったのですか?

A 「子どもの頃からの夢だったから」(学部生)

 「歴史に興味があり、特に昔の人々がどのように生きてきたのかを知りたかったから」
 (大学院生)

「古墳のことが知りたくて」(大学院生)

これをお読みの中・高校生のみなさんの中から、未来を担う考古学者が生まれることを期待しています。


大谷3号窯発掘調査