古墳時代(3世紀中葉〜7世紀)の350年間には各地の有力首長の系譜にさまざまな盛衰がみられます。これは直接には地域内の勢力争いの結果ですが、その背後に畿内政権と地域首長の政治関係の変化、さらには畿内政権内部の主導権争いが地域に波及した可能性なども考える必要があります。つまり、この時代の日本列島内の歴史動向を探るためには、地域の古墳築造の展開をふまえたケーススタディが有効なアプローチになるわけです。
 大阪大学考古学研究室では、25年以上にわたって畿内北部の古墳の発掘調査を手がけてきました。特に近年は西摂・猪名川流域をフィールドとして古墳時代首長墳の動向を解明する調査を進めています。
 2000〜2004年にかけて川西市教育委員会と共同で実施した同市勝福寺古墳の調査においては、6世紀初めにこの地域に有力首長が台頭したことを明らかにするとともに、それが継体大王期の政治変動とかかわる動きであったことを推定しました。
 ではそれ以前のこの地域はどうだったのか。これまでの成果の上に立って、猪名川流域の古墳時代史の解明をさらに進めるために、本研究室では2007年度から西隣の宝塚市長尾山古墳の発掘調査に着手しました。
 長尾山古墳は、勝福寺古墳とおなじ「長尾山丘陵」上に存在する前方後方墳(または前方後円墳)で、1969年に櫃本誠一氏(兵庫県教育委員会/当時)の指導のもとに宝塚市教委と夙川学院短大日本歴史研究会によって墳丘測量が行われています。しかし、その後も発掘調査が行われたことはなく、墳丘形態、規模、築造時期などについては確実な情報が得られていませんでした。
 2007年8月から9月にかけて行ったこの古墳に対するはじめての発掘調査の結果、長尾山古墳は前方後円墳である可能性が高くなりました。また、墳丘は長さ39m程度と小さいものの葺石、埴輪、段築成を備えた定型的な古墳であること、埴輪の特徴からみて築造は4世紀初め頃にさかのぼり、猪名川流域では最古級の前方後円墳であると考えられるようになりました。
 今年度は昨年検出した葺石や埴輪列のようすをさらに明確にすること、埋葬施設の存否を確認することなどを目的として、8月27日から約1ヶ月の予定で発掘調査を実施します。また、宝塚市教育委員会とも協力して、墳丘全体の形態を解明するため、昨年度未調査であった東半部の墳裾を中心にトレンチ調査を進める予定です。
宝塚市長尾山古墳の位置と周辺の主な古墳