今回の調査と目的
 古墳時代(3世紀中葉〜7世紀)の350年間には各地の有力首長の系譜にさまざまな盛衰がみられます。これは直接には地域内の勢力争いの結果ですが、その背後に畿内政権と地域首長の政治関係の変化、さらには畿内政権内部の主導権争いが地域に波及した可能性なども考える必要があります。つまり、この時代の日本列島内の歴史動向を探るためには、地域の古墳築造の展開をふまえたケーススタディが有効なアプローチになるわけです。
 大阪大学と猪名川流域の調査 大阪大学考古学研究室では、30年以上にわたって畿内北部の古墳の発掘調査を手がけてきました。特に近年は大学にもほど近い「猪名川流域」をフィールドとして古墳時代首長墳の動向を解明する調査を進めています。猪名川は、丹波高地に源流とし、大阪平野を南流する1級河川で、流域の自治体としては兵庫県側が猪名川町・川西市・宝塚市・伊丹市・尼崎市、大阪府側が豊能町・池田市・箕面市・豊中市などがあります。猪名川流域は、旧国名でいうと摂津の西部にあたり、畿内地域の北西縁辺を占める位置になります。大阪大学では、2000年以来、猪名川流域の長尾山丘陵(兵庫県川西市から宝塚市西部にかけて広がる丘陵)に存在する首長古墳の調査を通じて、猪名川流域の古墳時代史の動きを列島規模の視点から位置づける研究を継続してきました。
 勝福寺古墳の調査 2000〜2004年にかけては丘陵西部にある川西市勝福寺古墳の調査を行い、6世紀初めにこの地域に約150年ぶりに前方後円墳を築ける有力首長が台頭したことを明らかにするとともに、それが継体大王期の政治変動とかかわる動きであったことを推定しました(『勝福寺古墳の研究』大阪大学文学研究科、2007年刊)。勝福寺古墳の調査成果についてはこちらの「勝福寺古墳デジタル歴史講座」をご覧ください。
調査概報・報告書のpdfファイル
第1次 第2・3次
報告書
第6・7次

 長尾山古墳の調査 勝福寺古墳の調査成果を受けて、当研究室では長尾山丘陵地域の首長古墳の推移にかんする解明をさらに進めるために、勝福寺古墳から東に3㎞の近距離に位置しながら、発掘調査が行われたことがなかった長尾山古墳の実態解明を最優先課題と考え、2007年から地元宝塚市教育委員会の協力を得て、この古墳の発掘調査に着手しました(第1次〜第5次)。そして、これまでに長尾山古墳が、古墳時代前期前半(4世紀初めごろ)に長尾山丘陵を含む猪名川流域で最初に築かれた前方後円墳であり、長さ40mの墳丘には埴輪、葺石が施されていたことがわかりました。また、2010年度の調査(第6次・第7次)では後円部から長さ6.7m、幅2.7mの巨大な粘土槨(木棺を粘土でくるんだ埋葬施設)を検出し、その状況を2500人以上の方々に現地で見学していただくことができました。
 長尾山丘陵の首長墳の推移 長尾山丘陵では、猪名川流域で最初の前方後円墳である長尾山古墳、さらにまもなくして宝塚市万籟山古墳(4世紀中頃)が築かれた後、およそ150年は有力古墳の築造がなく、6世紀の初めになって突如勝福寺古墳が「復活」するという推移が浮かび上がってきました。長尾山丘陵の150年間の「首長墳空白期」は、猪名川流域では西部の豊中市桜塚古墳群の勢いが卓越する時期に当たっています。前方後円墳などの有力古墳が当時の中央政権(広義のヤマト政権)と地域の関係を示しているとすれば、長尾山丘陵の首長の盛衰は列島規模の古墳時代政治史を解明する貴重な手がかりとなるでしょう。
 今年度の調査 一連の長尾山古墳の調査のなかで、昨年度の第7次調査段階で残された課題として、(1)埋葬施設の「排水溝」の存否の確定とその構造の把握、(2)後円部北側の墳丘裾の位置の確定、(3)墳丘周辺の地形測量の補足、の3点をおもな目的として今年度の第8次調査を行います。(今年度の調査区配置
 今年度の調査は、新たに着手した科学研究費補助金によるプロジェクト「21世紀初頭における古墳時代歴史像の総括的提示とその国際発信」(基盤研究(A)、研究代表者福永伸哉)のフィールド調査の一環として実施します。このプロジェクトでは、古墳文化の東・中・西にあたる東北、畿内、九州で古墳の発掘調査を行い、古墳築造の共通点や地域性を比較検討する作業を、課題の一つに設定しています。長尾山古墳では、とくに築造後は見えなくなる「排水溝」という施設に着目して、構造的特徴の地域比較を行ってみたいと計画しています。なお、東北と九州でのフィールド調査は研究分担者の菊地芳朗氏(福島大学)、杉井健氏(熊本大学)が中心となって実施します。
宝塚市長尾山古墳の位置と周辺の主な古墳
長尾山古墳が所在する宝塚市の歴史については、直宮憲一氏の著書である『宝塚の歴史を歩く』(2011年、宝塚出版)をご覧ください。宝塚市内の遺跡について分かりやすく学ぶことができます。
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