【現代の標準語】
前述の如く、現代の日本の標準語と見るべきものは東京語式の言語であるが、今日ではまだ十分全國に普及せず、之を使ふ事が出來ないものも少くない上に、之を使ふものでも、その人々の方言の影響を受けて、かなり方言化した標準語を用ゐるやうな有樣であって、實際に於ては、まち/\である。それでは、どういふのが正式の標準語であるかといふに、東京式の言語であるが、實際の東京語(東京方言)と同一ではない。昔の江戸語の正系である純粹の東京語は、寧ろ下層社會に行はれてゐるものであって、ヒの音をシと發音し(ヒバチをシバチと云ふ)、(大根)をデーコン「無い」をネーといひ、「眞白」をマッチロ、「眞直」をマッツグといふやうなものである。教育ある社會では、さすがこんな言ひ方は用ゐないが、それでも、「道理で」をドーレデと云ひ、「第一」(「第一に」の意味)をダイチといふのも、純粹の東京語である。これ等は標準語として全國に用ゐる事は出來ない。かやうな譯で、大體東京の教育ある社會の言語を標準とすべきであるが、しかし、之を悉く、そのまゝ採用する事は出來ない。
大體東京語に基づき、これまで正しい言語と考へられて來た文章語の要素をも取り入れて作られた普通の口語文の言語は、標準語に近いものであるけれども、これも人によって多少の相違がある上に、その發音に至っては、同じ文字でも、人により地方によっていろ/\の發音をする故、實際上統一せられてはゐない。
かやうに現代の標準語は、唯、東京語式の言語といふだけで、東京語そのまゝでもなく、又、或きまった動かない姿で現に行はれてゐるのでもない。かなり漠然とした抽象的存在である。しかしこれは、必しも日本語に限った事でなく、あらゆる標準語は、多少かやうな性質をもってゐるもので、つまり、標準語は、現實に存する言語に取捨を加へて、かくあるべしと定めた抽象的な規範又は標準であって、實際に用ゐる場合には、之と多少の相違が生ずるのが常である。唯、現代日本の標準語は、その規範そのものに、まだ不定な點があるのであって、それをどう定めるかが、今後の問題として殘ってゐるのである。之を定めるについては、東京語自身の調査も必要であり、口語文其他の文語の調査や全國諸方言の調査も必要である。
前述の如く、標準語と方言とは決して相容れないものではない。けれども、標準語が盛に行はれるやうになると、方言は次第に標準語に近づき、各地の方言の差異は益少くなって、遂には全國の方言が標準語に近い言語に統一される事もあり得べきである。
【參考書】
國語學精義 保科孝一
現代國語精説 日下部重太郎
標準語に就きて 上田萬年(國語のため)
東國方言沿革考 新村出(東方言語史叢考)
東西兩京の言葉争ひ 吉澤義則(國語説鈴)
人類と言語 イェスペルセン著、須貝清一、眞鍋義雄譯