國語學研究法 橋本進吉

序説

 一、現代の國語と過去の國語


 國語學は我々の國語即ち日本語を研究する科學である。科學は知識であるが、唯日本語を覺えて日本語を自由に使ふことが出來ただけでは、日本語に關する科學的知識を得たものとはいはれない。あらゆる日本語のあらゆる部面に就いての知識が組織せられて體系をなし、完全な認識にならなければならない。國語學はかやうな認識を得る事を目的とするものである。
 科學的知識は獨斷であってはならない。何人も承認せざるを得ざる客觀性をもたなければならない。かやうな知識を得る爲には、あくまで事實に立脚すると共に、正しい方法を以て研究を進めなければならないのであって、もし研究の方法に誤があり又は缺陷があった場合には到底正しい結果を得る事は望まれないのである。
 科學の研究法は、各種の科學を通じて同樣なものもあるが、また對象たる事實の性質によって大に趣を異にするものがある。
 國語學の對象たる日本語は、いふまでもなく言語の一種である。言語は、文學美術傳説信仰風俗習慣法律制度等と共に、人間が社會生活をなす間に産み出した所のものであって、自然の物體や自然の現象とは大にその性質を異にする。從って、その研究法も、自然科學の類と同じくないものが少くない。
 言語は時と共に變化する。それ%\の言語はそれ%\歴史をもってゐる。それ故、現代の國語と過去の國語とは同じでない。しかし、過去の國語でも、その時/\に於ては現在の國語であったのであって、言語としての性質は現在の國語とかはる筈はないのであるけれども、今我々が日本語を對象として研究しようとするに當っては、現代の國語と過去の國語とは、之を同じ方法で取扱ふ事が出來ない事情がある。
 全體、言語といふものは、同じ社會に屬する人々が互に意志を通じ自己の思想感情を他人に傳達する手段として用ゐるものであって、人を離れて言語は無い筈のものである。然るに、現代の言語は、之を用ゐてゐる人々が我々と共に存してをり、現に我々の目前に行はれてゐるのであるが、過去の言語は、之を用ゐた人々は既に死滅してしまって、當時の人々がいかに之を用ゐたかは今日に於ては我々は之を直接に知る事が出來ないのである。この點が、現代の國語と過去の國語との間に存する大きな違ひである。
 それでは、過去の言語は我々はどうしても之を知る事が出來ないかといふに、必しもさうではない。
 すべて言語は、どんな言語でも、思想感情を傳達する手段として音聲を用ゐるものであって、一定の音聲に一定の思想感情(以下簡便の爲に單に思想といふ)を結合させ、その音聲によってその思想を代表させて、自己の思想を他人に通ずるやうに出來てゐるものであるが、どんな音によってどんな思想を代表させるかは、その言語を用ゐる社會一般の慣習として定まってゐるのであって、個人が勝手に之を改める事は出來ない。その社會に屬する個人は、他の人々が用ゐてゐる言語を覺えて之と同じ言語を用ゐ、その言語がまた他の人々に傳はる。かやうにして、個人は亡びても、その社會が續く限り、その言語は傳はって行くのである。かやうに同じ言語が後まで傳はるのであるが、しかし、世代を重ねる中に、何時の間にか次第に變化を生じて、昔の言語と後の言語との間に差異が出來るのである。
 もし言語が專ら音聲にのみよるものであるとしたならば、音聲は一時的のものであって、そのまゝ永く後世まで殘ることがないから、過去の言語は再び之を知る事が出來ない筈であるが、我が國には、かなり古くから文字を用ゐ、文字によって言語を代表せしめたのであるから、その文字に書かれた言語が、その時のまゝか又は幾度か轉寫せられて、今まで残ってをるのであって、これによって過去の言語を知る事が出來るのである。
 しかしながら、文字に書かれたものによって、我々が直接に知り得るのは、過去の言語の文字に寫された形だけであって、そのあらゆる部面ではない。即ち、その當時に於ける發音はどうであったか、その意味はどうであったかは、我々は今之を直接に知る事が出來ないのであって、之を知るにはいろいろの方法を講じなければならない。もっとも、過去の言語が、現代の或種類の言語の中に殘ってゐるものが無いでもない。例へば、現代の文語の中には、古代の單語や言ひ方が殘り、謠曲や浄瑠璃のやうな語り物の中には、昔の發音の名殘とみとめられるものがあり(母をハワと發音する如き)、方言の或ものには前代の發音や單語や言ひ方を存するものがある。しかしながら、これ等の言語とても、あらゆる點に於て過去の言語をそのまゝ殘してゐるのではない。いかなる部分が過去の言語と一致し、いかなる部分が之と一致しないかは、種々の方法によって之を推知する外無いのである。
 かやうに、現代の國語は、我々の目前に行はれて直接之を觀察し得るに反して、過去の國語は、我々が直接に知る事が出來るのは、その一部面にとゞまり、特に研究を加へなければ知り難い部分が甚多い。それ故、この兩者は同一に取扱ふ事が出未ないのであって、その研究法は別々に考へなければならないのである。


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