國語學研究法 橋本進吉

序説

 二、言語表象と言語活動


 國語學はあくまで事實に基づかなければならない。國語學の取扱ふ事實は、昔から現代にいたる日本語に於ける一切の言語上の事實であるが、全體言語事實はどんな性質のものか、我々はどうして之を知ることが出來るか。これは、日本語のみならず言語一般を對象とする所の言語學に屬する問題であるから、一般言語學の教へる所によって之に答へなければならない。
 前に述べたやうに、言語は一定の音聲に一定の意味が結合したもので、思想(及び感情)を他人に傳へる爲に用ゐられるものである。今、我々が言語を實際に用ゐる場合について考へて見るに、話手が、ある事を言語によって傳へようとする時には、その事物を表はす一定の音聲を口に發する。對手は、その音聲を聞いて、その音聲の表はす事物を心の中に浮べて、話手が何を傳へようと欲するかを知るのである。即ち、話手と聞手とでは、互に違った二つのはたらきが行はれるのである。話手は思想(感情)を人に傳へる爲に口を動かして現實に音を發する。これは自己の傳へようとする事を言語に代表せしめて外にあらはすのであるから發表作用(又は表現)といふべきである。聞手の方ではその音を聞いて、それが代表する話手の思想(感情)を理會する。これは話手の傳へようとする事を受け入れて知るのであるから、理會作用(場合によっては解釋)と名づけてよからうと思ふ。これはどちらも人の行爲であり行動である。たゞ違ふ所は、話手の方は發動的(能動的)であり、聞手の方は受動的である點のみである。
 かやうに話手の發表作用と、聞手の理會作用とによって、思想の傳達が出來、言語がその用を全うするのであるが、しかし、話手の傳へようとする所のものを、聞手が、正しく謬らず理會し得る爲には、話手も聞手も同樣に、同じ音に對して同じ意味を結合させなければならないのである。もし、話手が或意味を表はす爲に發した或音に、聞手が違った意味を結合させたならば、話手の傳へようとするものと、聞手が理會した所のものとが一致せず、爲に誤解を生ずるか、又は全くわからない事になって、正しい傳達が出來なくなるのである。
 それでは、どうして話手も聞手も同じ音に同じ意味を結合させる事が出來るかといふに、話手も聞手も、周圍の人々から、これまで幾度もその音を聞き、且つそれにはいつも一定の意味が伴ってゐる事を經驗して、その音の記憶と、その意味、即ちその音のさし示してゐる事物の記憶とが相伴って心の中に殘ってゐるからであん。之を心理的にいへば、幾度も現實に聞いたその音の感覺から形づくられたその音の表象と、その意味としていつもその音に伴ふ事物の表象とが、聯合して心の中に存するからである。それ故話手が或事を傳へる場合に之を示すに適當な言語の意味としての或事物の表象が話手の意識の表に喚び起されると、之に聯合されてゐるその音聲の表象が直に喚び起されて、その音を發するに必要な筋肉を動かして現實にその音を口に發し、又、聞手は、その音を聞けばその音の感覺が聞手の心中に潜在せるその音の表象を喚び起して、直にこれと聯合せる事物の表象をよび追し、それが何を意味するかを理會するのである。この音の表象と之に伴ふ事物の表象との聯合したものを言語表象といふ。これは純然たる心理的現象である。しかるに、實際に言語を使用する際の發表及び理會の作用はどんな性質のものかといふに、話手の側で、事物表象に伴って音聲の表象が心に喚び起されるのは心理的作用であり、その音聲の表象に基づいて、現實に音を發する爲に筋肉を動かすのは生理的作用であり、それによって發した現實の音聲は物理的現象である。聞手の側に於て、その音聲を耳で聞くのは生理的作用であり、之を聞いて生じた音の感覚によってその音の表象が喚び起され、同時に之に伴ふ事物の表象が意識に浮ふのは心理的作用である。かやうに言語を實際に用ゐる場合には、心理的作用の外に、生理的又物理的の要素が必要である。
 かやうに、話手及び聞手の心の中に一樣に存する言語表象(一定の音聲表象に一定の事物表象が結合したもの)は、言語の中心又は本體をなすものであって、これによって發表と理會の作用が行はれ、言語が思想傳達の目的を達するのである。さうして、思想を通ずる爲に行ふ發表理會の作用は、その時その時に完成せられ、その場かぎりのものであるに反して、言語表象は、その言語を用ゐる人の心の中に永く存して、何時なりとも必要に應じて同じ言語を使用する事を可能ならしめるものである。又實際に用ゐられた現實の言語は、個人毎に、又場合によって多少の相違があるものであって、例へば「犬」を意味するイヌといふ語でも、その實際の發音は、人によって、その音色や調子を異にするばかりでなく、同じ人でも、場合によって、大きくも小くも粗くもやさしくも發音する。又同じイヌといふ語でも、或時は赤い犬をさし、或時は白い犬をさすなど、その表はす所のものは場合によって多少の差異がある。然るに、言語表象は同じ人では何時も同じであるばかりでなく、同じ言語を用ゐる社會のあらゆる個人に於て同じである(例へば、「いぬ」といふ語ならば、實際人々の口に發し耳に聞くその發音は、場合により人によって多少の違ひがあるが、之を用ゐる人々は何れも同じ「イヌ」といふ音であると考へ、又それによって表はされる實物は時によって幾分違ったものであるとしても、何れも「いぬ」といふ種類に屬するので、その語の意味は同じものと考へてゐる)。即ち言語表象は全然社會的のものであり、同じ言語が行はれる社會の各個人を通じて同一のものである。然るに言語が實際に用ゐられて、個人の行爲に實現される場合には、個人的要素や臨時の要素が加はって、個人により場合により差異があらはれて來るのである。
 かやうに言語表象と、言語によって思想感情を通ずるはたらきとは、性質の違ったものであるから、近來の言語學では之を區別するものが多い。この兩者の區別をはじめて明かにしてその上に新しい學説を樹てた瑞西ジュネーヴ大學教授ソッシュール(Ferdinand de Saussure)は前者をlangue(ラング)後者をlangage(ランガージュ)と名づけた(同氏の言語學講義」(Cours de linguistique generale に出てゐる。この書は小林英夫氏の譯「言語學原論」がある)。我國では、神保格氏は言語觀念と言語活動(同氏著「言語學概論」)又は言語材料と言語行動(同氏著「話言葉の研究と實際」)と名づけ金田一京助氏及び小林英夫氏は言語と言語活動(金田一氏著「國語音韻論」小林氏譯「言語學原論」)と名づけて之を區別してゐる。
 言語表象は、つまり人々が記憶してゐる語句である。「いぬ」(犬)といふ語の意味はと考へた時、心中に思ひ浮ぶのが「いぬ」といふ言語表象中の事物表象であり、「いぬ」といふ語の發音はと考へた時、心中に思ひ浮ぶのがその音聲表象である。これは實際に存する或犬と同じものではなく、又或人の口から出て現實に耳に聞くイヌといふ音と同じものではない。然るに、或人が目の前に居る一匹の犬について他人に話す場合には、その犬をさしてイヌと言ふのであって、その場合には、實際に存するその犬を現實に耳に聞えるイヌといふ音でもって表はすのである。それは、その犬が、人々の心中に存する「いぬ」といふ語の事物表象に相當するもので、從って、「いぬ」といふ語の事物表象が心に浮べば直にその犬を指してゐる事を理解し得るものと認め、又、イヌといふ現實の音が、「いぬ」といふ語の音聲表象を代表するもので、之を聞けば直にその音聲表象をよび起し得るものと豫想するからである。かやうにして、「いぬ」といふ語によって、話手が聞手に傳へようと欲するその犬の事を聞手に知らしめる事が出來れば、それで目的は達したのであって、この場合に、「いぬ」といふ語は、或犬の事を他人に傳へる爲の道具として用ゐられたのである。
 「いぬ」といふ語は、一定の音聲表象に一定の事物表象が結合した一つの言語表象として人々の心の中に存するのであるが、或時或人が或犬の事に就いて知らせる爲の道具として之を用ゐた場合には、その事物表象はその時その人が知らせようとする事物(犬)そのものを代表する事となり、その音聲表象は、現實に耳に聞える音聲によって代表せられる事になるのである。かやうに言語表象としての言語は人々の心中に一樣に存する觀念的のものであるが、これが、言語活動によって實現せられて、各個人のその時その時に於ける現實の言語になるのである。さうして言語表象は同一の言語を用ゐる社會の各個人を通じて同じであるが、言語活動によって實現せられた現實の言語は、その意味(その語句によってさし示される事物)も場合々々によって同じでなく、その音聲も個人により又場合によって多少の差異がある事は前に述べた通りである。
 以上は專ら音聲にのみよる言語について考へたのであるが、國語には、なほこの外に、文字による言語がある。しかし、これは文字といふ要素が加はったばかりで、其他の點に於ては音聲による言語と別に違った所が無い。即ち、文字による言語には、言語表象としては音聲表象とこれに伴ふ事物表象(意味)の外に、なほ文字表象があって、この三つが聯合して心の中に存し、その一つが意識の表に喚び起されると、之と非に他のものも喚び起されるやうになってゐるのである。さうして、文字表象は、實際に用ゐられる場合には、現實に目に見える文字となるものであって、文字による言語で或人が思想感情を對手に通ずる場合には、それをあらはす適當な意味(事物表象)をもってゐる語を選び、その語の文字表象に基づいて現實に目に見える文字を書き(又は印刷し)、對手はこの文字を見て自己の心中に存する言語表象中の文字表象に照して何の字と判斷し、直に之に伴ふ事物表象を喚び起すか、又は之に伴ふ音聲表象を喚び起すと共に之に伴ふ事物表象を喚び起して、その語の意味を理會し、人が何を傳へようと欲してゐるかを知るのである。(この後の場合に、その音聲表象に基づいて實際に口を動かして音を發すれば音讀となる。その他の場合には黙讀となる)。かやうに文字による言語を以てする言語活動は、發表及び理會の作用が、「書く」及び「讀む」といふ作用として行はれるのである。さうして、文字表象は心の中に存する心理的現象であり、文字を書く手の働きや之を見る眼の働きは生理作用であり、書かれた文字は物理的現象である事、前に述べた音聲に於けると同樣である。又、文字表象は、同一の言語を用ゐる社會の各個人を通じて同一であり、實際書かれる文字は、個人により又場合によって多少の違ひがあるが、これは同じ文字表象を代表するもので、他人の心中に存する同じ文字表象を喚び起すべきものである事も、亦音聲表象と現實の言語に於ける音聲とに於けると同樣である。たゞ、現實の言語に於ける音聲は瞬間的のもので再聞く事が出來ないに反して、文字は一度書かれたものは後まで殘って幾度でも見る事が出來るのは、大なる相違であるけれども、これは音聲と文字との物理的性質の相違であって、言語活動として見れば、或事を傳へようとして文字に書き、その文字を見てその事を理會するはたらきは、その時その時で完成し、その場かぎりで終るのであって、これは音聲のみによる言語の場合と少しもちがはない。唯、音聲による場合に於ては、發表と理會のはたらきが同じ時に行はれなければならないのに反して、文字による場合は、發表作用が行はれて後、多くの時間を隔てても理會作用が行はれ得る事だけは顕著なる相違として注目しなければならない。
 さて、上來見來った如く、言語には、言語表象と言語活動とがあり、言語表象が言語活動によって現實の言語となるのであって、これは如何なる言語にも存する事實であるが、その中、言語表象は純粋な心理的現象であって他人には直接に知る事が出來ないものである。しかし、その言語を用ゐる人自身には明かに存在するもので、盲ら之を觀察する事が出來る(例へば、自分の發音では「蛙」はカエルかカイルか、「めったに」といふ語をどんな意味に用ゐるか、「一週間」の「週」の字はどんな形かなど)。
 次に、言語活動については、その中に、心理的のものと生理的物理的のものとがあるが、そのうち、物理的のもの、即ち實地に耳に聞く音聲や、目に見える文字の形は、他人でも直接に之を經驗する事が出來、生理的のもの即ち、音を發する時、又字を書く時の筋肉の運動の如きものも、亦可なりの程度まで直接に觀察する事が出來る。のみならず、これ等のものは實驗さへも可能である。心理的要素は他からは觀察出來ないが自分自身の言語についての觀察は出來ないではない。
 現代の國語に於ては、言語表象も、我々と共に生きてゐる人々の心の中に存し、言語活動も、それ等の人々の間に現に行はれてをる。たとひ心理的要素は、研究者が直接之を觀察する事は困難であるとしても、研究者自身も、その言語社會の一員として言語表象を有し、言語活動を行ってゐるのであり、現に我々と共に生きてゐる人々の心中に存し又行はれてゐる事實であるから、出來得る限りの方法を以てすれば之を明かにし得べき筈である。生理的物理的要素に於ては猶更のことである。然るに過去の言語に於ては、之を用ゐた人々が既に存せぬのであるから、當時の人々の心中に存した言語表象も容易に知る事が出來ず、言語活動も大部分は直接に觀察する事は出來ない。唯僅に、過去に行はれた言語活動の結果として現實の文字に表はされた言語をさぐりもとめ、或はたま/\過去の言語の意味や發音や記法(文字で言語を示す方法)などを記したものを見出し、其他及ぶかぎりの方法を講じて、過去の言語事實を推定し再現しなければならないのである。即ち、現代の國語は直に取って我々の研究の對象となし得るに反して、過去の國語は、まづ事實を知る爲に特別の手段を取らなければならないのである。


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