國語學研究法 橋本進吉
序説
 三、言語と社會
 同じ日本語の中にも種々の違った言語がある事は著しい事實である。同じ時代の言語の中にも、土地により、階級により、男女の差により、年齢の差により、或は用途の差(文字に書く場合、人と會話をする場合、手紙に書く場合など)によって、それ%\違った言語が用ゐられる。のみならず、同じ日本語でも、時代の差によってかなりの違ひが見出される。かやうな言語の違ひは何處にあるかといふと、その音聲にある事もあり、その意味に在る事もあるが、その根本は、音聲と意味との結合し方に在る。或地方の言語で「たぬき」といひ、或地方では、「むじな」といふ。意味する所のものは同樣であるが、之を表示する音聲として、一方ではタヌキといふ音聲を用ゐ、一方ではムジナといふ音聲を用ゐるのである。即ち、一方の言語を用ゐる人々の心の中には、「狸」といふ事物表象とタヌキといふ音聲表象とが結合して記憶せられ、他の言語を用ゐる人々の心の中にはそれと同じ事物表象にムジナといふ音聲表象が結合して記憶せられてゐるのである。又古代には「泥」のことを「ひぢ」といったが、後世には之を「どろ」といふやうになった。これは、古代の人々の心の中には「泥」といふ事物表象とヒヂといふ音聲表象とが結合して存し、後世の人々の心の中には同じ事物表象がドロといふ違った音聲表象に結合して存したからである。
 かやうに、言語の相違はいかなる事物表象にいかなる音聲表象を結合させるかの相違によるのであるが、同じ言語を用ゐてゐる人々は、皆一樣に同じ事物表象に同じ音聲表象を結合させ、同じ言語表象をもってゐる事は前にも述べた通りである。それではどうして同じ言語表象をもつやうになったかといふに、周圍の人々、即ち同じ社會生活をなす人々の實際の言語を幾度も聞いて之を眞似た所からして、自然に他の人々と同樣な言語表象が形づくられたもので、もし、さうしなければ、社會生活を營むに不便を感じるからである。かやうにして、言語は、社會的慣習として個人の上に課せられるものであって、個人が勝手に之を動かす事が出來ないものである。言語が社會的制度の一つであるといはれるのは、かやうな意味である。
 かやうに言語は社會的のものであるから、社會がちがへば言語が違ふのは當然であって、從って、土地により又社會の階級によって違ふのみならず、男と女、子供と老年のやうに同一社會の中にあっても、その生活を異にする人々の言語が互に同じくない事も自然である。又同一の社會でも、時の經過と共に之を構成する個人がかはり、その生活を異にすれば、言語も從って變化するのである。以上のやうな言語の相違は、個人の屬する社會の相違に應ずるものであって、同一人がその屬する社會以外の他の言語を用ゐる事は特別の場合の外は無いのである。ただ用途を異にする諸種の言語だけは、同一人であっても之を併用するが、しかも、之を如何なる場合に用ゐるかは、その社會に於て一般的にきまってをるのであって、その當然の用途以外に之を用ゐれば、他の人々に奇異の感を懐かしめるのである。それ故、國語の研究に於ては、その中の各種の言語について、それが如何なる人々によって用ゐられるか、又いかなる場合に用ゐられるかを明かにしなければならない。
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