國語學研究法 橋本進吉
第一編 現代の國語の研究
  第一章 音聲の研究
 現代の日本語には、土地階級其他の違ひによって種々の違った言語があるが、どんな種類の言語でも、音聲が缺くべからざる要素となってゐる事はいふまでも無い。ところが、前に述べたやうに、言話には言語表象としての言語と、言語活動によってその時その時に實現せられる現實の言語と二つの方面があるのであるが、之に應じて言語の音聲にも二つの方面がある。一つは言語を實地に用ゐた時の、實際に口に發し耳に聞く現實の音聲であり、一は心の中に存在して、その音を發し、又その音と聞きわける事を可能ならしめる所の音聲表象である。前者は物理的現象であり、後者は心理的現象である。近來この両者を區別する爲に前者を音聲又は音(英語sound佛語son)と名づけ、後者を音韻又は音素或は素音(英語phoneme佛語phoneme)と名づける人がある。
 この現實の音を發するには、唇や舌や顎や咽喉などの筋肉を動かすことが必要である。この筋肉を動かすのは生理的の作用である。一般に言語に用ゐられる音聲と、それの發生に必要な諸條件とを研究するために、音聲學(英Phonetic 獨Phonetik 佛phonetique,phonologie)といふ學問が成立ってゐる。これは自然科學に屬し、言語學の基礎學科の一つとなってゐる。現代の國語の研究には、この音聲學的研究が可能であり又必要である。
 物理的及び生理的現象は、觀察が出來るばかりでなく、又實驗も出來るものである。國語の音聲學的研究には二つの方面がある。一つは實際に發した現實の音そのものを研究するのであって、音は空気の振動であるから、その振動を目に見える形にうつしてそれ%\の音の特質を明かにするのである。その方法としては、實際の言語の音を吹き込んで作った蓄音機のレコードに刻まれた線の形を擴大してしらべる。又實際に發した音によって膜を振動せしめ、膜に着けた針によって、その振動を擴大して畫く機械(カイモグラフKymograph)もあり、又マイクロフォンを利用して、音を記録する装置も出來てゐる。かやうな方法によって、各音の性質の異同を知り、その特質を明かにする事が出來る(マイクロフォンを用ゐて取った圖は、小幡重一氏の實驗音響學や同氏の音聲物理學(國語科學講座の内)に出てをり、カイモグラフで取った圖は、音聲學協會編「音聲の研究」第一輯及び第四輯に出てゐる)。
 次に、音そのものではなく、音を發する際の發音器官の位置や形や運動などをしらべる方法がある。これは音聲の發生的方面の研究といふべきものである。全體、現實の音聲は、發音器官によって發するものであって、種々の音の違ひは、發音器官の位置や形や動かし方の違ひによって生ずるのである。即ち、音を發するには肺臓から出る呼気を、それの通過する或部分に於て止め又は遮る事が必要であって、その爲に、唇舌咽頭喉頭などの種々の場所で息の通賂を閉鎖し又は狭めるのである。その結果、息の通路がいろ/\にかはり(鼻へぬけ、口を通るなど)、音を發する場所がいろ/\にかはり、音の共響する空間の形がいろ/\にかはる。これによっていろ/\違った音が出來るのである。又、息の出し方(静かに出し、強く出し、急に出し、緩く出すなど)によっても音の性質がかはる事がある。
 かやうな點をしらべるのは、その音の特質を明かにするに必要である。これを調べるには、どうすればよいかといふに、音を發する時の發音器官の形や運動は、直接目で見て知り得る場合があるが(唇や、舌の前部などは、多くの場合直接見る事が出來る)、比較的簡單な方法で實驗出求ることもある。人工口蓋(簿い金屬の板を上顎に密着するやうに造ったもの)を上顎にはめて、或音を發音して、その際、舌が上顎のどの部分につくかを見る方法や、喉頭鏡を用ゐて、或音を發する時の喉頭の形や聲帯の運動を見る方法や、鏡を鼻又は口の下にあてて、或音を發する時、それが曇るか否かによって、息が鼻又は口へ出るかどうかを見る方法、喉の前方に外面から指をあてて、或音を發する時、喉頭のところが振動するかどうかを知る方法などがある。又、近頃はレントゲン線によって、音を發する際の舌の位置を見る方法も用ゐられる。又、自分自身の言語ならば、音を發する時の唇や舌の形や運動を筋肉の感覚によって考へる事も出來る。
 かやうな実驗を行ふに當っては、初のうちは、實驗せられるものが異常な經驗の爲に気分を乱されて、平生とは違った音を發する事がある故、この點によく注意して、誤った結果を得ないやうにしなければならない。
 以上述べたやうな種々の方法があるが、それ等の方法は、一つ一つとしては、或一部面だげしか明かにしないのが常である。例へば、音そのものの物理的性質の研究では、母音のやうな規則正しい振動をなすものの性質はわかるが、子音の多くのもののやうな不規則な振動をなすものの性質はまだわからない事が多い。又人工口蓋を用ゐては、舌の上顎に附着する位置はわかるが、附着しない部分の位置や形はわからない。それ故、いろ/\違った方法を併用して、その結果を綜合して音の性質を見定めなければならないのである。
 しかしこゝに考へなければならないことは、たとひ以上の如き音聲學的研究法が完全に行はれて十分の結果が得られたとしても、それは、或人が發する現實の音聲や、之を發するに必要な條件が明かになったばかりであって、言語として最も大切な音聲表象はこれではわからない事である。それでは音聲表象はどんな方法で研究すればよいか。
 音聲表象は人の心の中に存するもので、他人には直接經驗する事の出來ないものである。それ故、自己の言語について研究する場合と他人の言語について研究する場合とを分けて考へる必要がある。
 自己の言語に於ては、音聲表象は自分で經驗する事が出來るものであるが、音聲表象は決して單獨に存在するものでなく、事物表象(意味)と伴って存在する。即ち或語の音として存在する。かやうな意味を伴った音は、多くの場合は單純なものでなく、いくつかの單位の結合したもので、いくつかに分解出來るものである。それ故、まづ第一に之を音の單位に分解しなければならない。さうして、その單位にどれだけの違ったものがあるかを調べなければならない。
 この事は、自己の言語に於ては或程度までは、比較的容易に出來る。例へば「やま」(山)「はな」(花)「つき」(月)「まつり」(祭)「はり」(針)などの語の音を「ヤ・マ」「ハ・ナ」「ツ・キ」「マ・ツ・リ」「ハ・リ」と分解し、それ等を自己の音聲表象に於て互に比較して「ヤマ」のマと「マツリ」のマとが同じ音であり、「ハナ」のハと「ハリ」のハとが同じ音であり、「ツキ」のツと「マツリ」のツが同じ音であり、「マツリ」のリと「ハリ」のリとが同じ音であって、ヤ・マ・ハ・ナ・ツ・キ・リなどが互に違った單位である事をみとめるのである。かやうな調査を多くの語(出來ればあらゆる語)に就いて行って、どれだけの違った單位があるかを明かにする。
 ヤ・マ・ハ・ナなどの單位は音節と名づけられるもので、日本語では、右の如く音節までに分解するのはさほど困難ではないが、音節は更にもっと小さい單位、即ち單音に分解出來るものである(ヤはyaマはmaハはhaナはnaなど)。この分解は、多少練習しないと困難である。しかし、これは實際に發音してみて違った音節を互に比較し、その成分の異同を耳によって判斷し(例へば、マとヤとを比較して、その後の部分が互に等しい事を知り、マメモ等を互に比較してその最初の部分が等しい事を知るの類)、殊に、音聲學的研究の助をかりて、その音を發する時の發音器官の状態や運動などを觀察すれば、音節を分解して、その如何なる成分から成るかを知る事が出來る(猶、自己の言語に於ては、音を發する時の發音器官の運動の感覺を經驗する事が出來るから、これによって判斷する事も出來る。又、前に述べた實驗による音波の記録を利用する事も有益である)。かやうに音節を分解して得た窮極の單位を單音と名づけるが、あらゆる違った音節を單音に分解し、その單音を互に比較してその異同をしらべれば、どれだけの違った單音があるかがわかるのである。
 次に他人の言語に就いて研究する場合はどうかといふに、他人の音聲表象は直接に經驗する事が出來ない故に、間接の方法をとるより仕方がない。それには、その人自ら自己の言語について經驗する所のものを聞くのが一つの方法であって、例へば「ひと」(人)の初の音と「ひかり」(光)の初の音とは同じであるかどうかといふやうに尋ねて、その人の言語に於て、どれだけの違った音の單位を自ら區別してゐるかを知るのである。しかしこの方法は、音節のやうな音の單位ならば大體わかるとしても、之を單音にまで分解して考へるのは、普通の人々には困難で成功し難い。それ故、やはり音聲學的方法の助をかりて、實地にその音聲表象を代表すべき明瞭な音を發せしめて、その音を聞いて研究者の耳によって判斷し、又は機械によってその音波を記録して研究する方法や、その音を發する時の發音器官の位置や運動などを觀察し又は實驗する方法や、又その人の發音を研究者自身で眞似て發音して見て自身が發した音が正しいかどうかを判斷させ、その正しい音が發せられた時の自己の發音器官の位置や運動を自身で觀察する方法などを用ゐるべきである。又、その人が音を實地に發する時の發音器官の形や運動などを、自身に反省させて聞いて見る方法もある。かやうな種々の方法を用ゐて、その言語にどれだけの違った單位(音節や單音)があるかを明かにし、又個々の單位の性質をも知るのである。
 研究者自身の言語にせよ、他人の言語にせよ、上に述べたやうな方法によって、その言語に於ては、すべてどれだけの個々の音の單位(音節又は單音)を區別してゐるかを見出すのが、その言語の音聲研究の基礎である。その言語は音聲の方面から見れば、これ等の一定數の(互に違った)音の單位から構成せられてゐるもので、それ以外の音を用ゐる事はない。これ等のものは相集まって一の體系をなし、それ以外のものを排除してゐるのである。之をその言語の音韻體系(又は音韻組織とも、音聲組織とも)といふ(但し、グウ%\、カチ/\の如き擬聲語や感動詞の中には、時に體系以外の音を用ゐる事がある事は注意しなければならない)。
 全體言語に用ゐる音聲の個々の單位は、我々が發し得べき無數の音聲の中から、或ものだけをぬき出して、之を或意味を示す符號に用ゐてゐるのであって、その個々の單位としてどんな音とどんな音とを用ゐるかは、言語によって違ってゐるが、一定の言語に於ては巌重に定まってゐる。さうして、その個々の單位は明白に區別せられて混同する事なく、別々の音として意識せられ、互に違った音聲表象を成してゐるのである。それ故、その言語に於けるあらゆるかやうな音單位を見出し、その一つ一つの性質を確定する事はまづ第一になさなければならない事であるが、その一つ一つの音單位(音節又は單音)の性質は、前述の如く、音聲學的方法によらなければ之を科學的に説明する事は出來ないのである。その爲には、その音聲表象そのものでなく、實際の言語に實現せられた現實の音聲(又は之を發する時の發音器官の形や運動)を以て之を代表させる外ないのである。然るに、その時/\に發した現實の音は、人により又時によって多少の違ひがあるがら、いろ/\の場合に、いろ/\の人によって調べた結果は、多少の差異がある事を免れない。然らば、これをどう取扱ふべきかといふに、或個人の言語に於ては、よく注意して發音した場合のものを以て代表的のものとし、さうでない場合のものは、それの變異として見るのが至當である。何となれば、よく注意して明瞭に發音したものは、その個人に於てはいつも略同一であって、最よくその音聲表象を實現したものと認められるからである(「音聲の研究」第四輯所載有坂秀世氏「音聲の認識について」参照。なほ、アクセントに關してではあるが、「國語科學講座」所収服部四郎氏「アクセントと方言」三頁の説も参考になる)。かやうな代表的發音を多くの個人について調べて、その間にどれだけの一致と變異とがあるかを見れば、その言語一般に於けるその音の代表的發音の特質を明かにする事が出來、これによって、その音聲表象を規定する事が出來るであらう。
 個々の音單位は言語に於ては單獨であらはれる事は稀であって、他のものと結合して、それ全體として、或意味をあらはす(その全體の音聲表象が事物表象と結合してゐる)のが常である。それ故、なるべく實際の言語にあらはれて來る形、例へば或單語の音として考へ又發音したものを調査するがよい。或音だけを切りはなして發音するやうな場合には、よほど注意しなければ不自然な音となって、實際の言語と合はないやうになる虞がある。又、實地に用ゐられた言語の音に就いて研究するのはよい事であり必要である。その場合に於ても各の音は音聲表象を代表してゐるのであるが、しかし、この場合には、意味の方が主になって發音には十分注意しない事が多いから、その音聲表象を正しく代表する正規の發音とは幾分違ったものになってゐる事が少くない。かやうな場合に、正規な發音からどれほどまで離れるかを多くの例について調べて、その變異の範圍を明かにするのが必要である。しかしこれは言語活動に屬する事である。言語表象を明かにするには、正規の發音をとるべきである。
 以上の方法によってあらゆる音の單位が見出され、その一つ一つの性質が明かになったならば、之を文字に代表せしめて示すのが研究上便利である。それには、違った音だけの違った文字を必要とする。もし音節を標準とするならば、假名を以て示すことが出來る。普通の假名で區別し難い場合には、之に特別の符號を加へるなどの方法を以てすべきである。例へば東京語の「がくもん」(學問)「がくたい」(樂隊)などの「が」にあたる音を「が」で示すならば、「かんがく」(漢學)「おんがく」(音樂)などの「が」にあたる音を「カ`」「カ゜」などの字で示すとか、「きやく」(客)「みやく」(脈)などの「きや」「みや」の音をキャミャ又はキ〓ヤミ〓ヤなどの字で示すとか「かっぱ」(合羽)「ざっし」(雑誌)などの「つ」にあたる音を小字にしてカッバ、ザッシのやうにあらはすなど(この場合に、假名は純粋に實際の音の通りに書くべきであって、正しい假名遣による書き方に煩はされないやうにしなければならない)。
 もし單音に分解して書くならば、ローマ字の如きものを用ゐるのが便利である。これも普通のローマ字に多少の改訂を加へて用ゐる事も出來るが、音聲文字(International phonetic alphabet)を用ゐるのもよい方法である。これはローマ字を基礎にして作ったもので、今日音聲學者の間に一般に用ゐられてゐるものである(市河三喜氏著「萬國音聲文字」又は「音聲學協會會報第二號及び第二十七−八號」に出てゐる。我國では英語の發音教授にかなり用ゐられてゐる)。
 かやうに音韻體系が明かになり、之を示す文字がきまれば、その言語の一切の語は、その文字で書く事が出來、その語が如何なる音から成立してゐるかが一目瞭然となるわけである。
 以上の如く音の單位が明かになったならば、次にそれの結合し方について研究すべきである。
 前に述べた如く、音の單位の最小いものは單音であり、それよりも大きくして最明白なものは音節である。單音は音節を分解して得られるもので、音節は一つの單音又は二つ以上の單音が結合したものから出未てゐる。さうして音節は、また一つで、又は二つ以上結合して、單語のやうな、意味を有する言語上の單位を構成する。かやうな小い單位から大きな單位が形づくられる場合にどんなきまりがあるかを明かにすべきである。
 これは、多くの實例を集めてそれから歸納すべきである。一々の音節の構造を明かにして、更に單音から音節を作る場合に、單音一つで音節を作るのはどんな單音であるか、(例へばa i u e o m n ng等)二つで音節を作る場合にはどんな種類のものとどんな種類のものとが結合するか、それがどんな順序で結合するか(單音の中、子音といはれるものが初に來、母音といはれるものが次に來るなど)三つで音節を作るのはどんな種類のもので、それがどんなにならぶか(初に子音が二つ來て次に母音が一つ來るtsu kyaなど)、どんな種類の單音はどんな種類の單音と結合しないとか、どんな種類の單音は音節中どんな位置にしか立たないといふやうなきまりがあるかを調べる。
 音節が結合して、語のやうな意味をあらはす言語單位を作る時、或種の音節は只一つでは用ゐられないとか、或種の音節の前又は後にしか求ないとか、語の最初又は最後にしか用ゐられないとか、又は語の最初又は最後には來ないとか、又、或種の音節と或種の音節は一つ語の中で共に用ゐられないとかいふやうなきまりが無いかを、多くの實例について調べて見る。
 又、單語のやうな意味をあらはす音の結合に於ては、各音節の高低強弱がきまってゐるのが常である。之をアクセントといふ。これをしらべるには、一々の單語の音聲表象を自身で反省してみても大概明かであるが、又、實地に發音して見、又實際の言語の中に用ゐられた同じ語の例を種々の方法で觀察又は實驗して、その語の或音節はいつも他の音節より高いか強いか、又は同じほどであるかを考へるのである。いつも高さが違ひ又は同じであるならば、この言語は高さのアクセントをもつといふ。強さが違ひ又は同じであるならば、強さのアクセントをもつといふ)今までの研究では日本語は高さのアクセントをもつと大體定まったやうであるが、高さとすれば、高低の差はどれほどの違ひがあるかを多くの語について調べる。(これまでの研究では、日本語に上中下と三段の違ひがあるといふものと、上下の二段の違ひがあるといふものとある)。きまれば一々の語のアクセントを明かにする事が出來る(音を文字に寫した場合に、之にアクセントを表記出來るやうな符號を定めるのが便利である。假名に書く場合には、アクセントを三段とすれば下は字の左に上は右に線を附け、中は附けず、二段とすれば上は右に線を附け下は附けない方式が、現今やゝ廣く行はれてゐる。東京語の「花」「鼻」は三段式ではハナ・ハナ、二段式ではハナ・ハナ)。いろ/\の單語について一々アクセントを調査した上、之を總括してアクセントの位置の同じものを集めて、アクセントの型が幾種類あるかを定める。例へば、東京語では、二音節の語には三つ、三音節の語には四つ、四音節の語には五つの型がある事がわかってゐる(次の表の○は音節を代表する。アクセントは二段式によった)。
 二音節語 ○○ ○○ ○○
 三音節語 ○○○ ○○○ ○○○ ○○○
 四音節語 ○○○○ ○○○○ ○○○○ ○○○○ ○○○○
 アクセントは語によってきまってゐるといったが、實は同じ語のアクセントが時にかはる事がある。「ハナ」(花)のアクセントはハナであるが助詞「の」がつくと「ハナノ」となる。さうしてこのやうな場合に「ハナ」と「ノ」とは實際の言語では一つゞきに發音せられて、その間で音をきる事は無い。さうして「ハナノ」全體としてのアクセントはきまってゐる。それ故、日本語では意味をあらはす言語單位として、單語の外に他の單語に助詞や助動詞の附いたものを認むべきであみ。さうして正確にいへば、アクセントは、語でなく、右のやうな單位によってきまってゐるといふべきである。私は右のやうな單位を假に文節と名づけてゐるが、單語のアクセントは、單獨の場合と、他の語(助詞助動詞)と共に文節を作る場合とで違ふことがあるのである。その場合にアクセントが如何にかはるかといふ事もしらべなければならない。
 猶、單語に「お」(御)や「さん」(樣)のやうな接頭辭や接尾辭を附ける場合や、單語と單語とが合して複合語を作る場合などにもアクセントがかはる事があるが、これも一々の場合について調べると共に、多くの場合を通じての或一般的のきまりが見出されないかを考へなければならない。
 又、複合語になる場合には、「ふなばし」(船橋)のやうに、單語の音自身がかはる事もある。これも、一々の例を調ベ、一般的のきまりがないかを考ふべきである。
 最後に、イントネーションの問題がある。同じ「來た」といふ語でも、たゞ誰かゞ來たといふ事實を言ひあらはす場合と、來たかと専ねる場合と、「さあ來た」のやうに人に命令する場合(來いといふやうな意味)の場合とでは言葉の調子がちがふ。又、言ひ切りの場合と、もっと續けるのを一寸言葉を切った場合とでも、その最後の部分の調子がちがふ。これをイントネーション(intonation)といふ。これは、單語の音にはかゝはらず、これに加はる特別の調子(又は強さ)によって、或意味を添へるものである。これは、いろ/\のきまった型があって、意味の違ひをあらはすのであるが、その言語には、いくつのイントネーションの型があるか、その型はどんな性質であるかを多くの實例からして定めなければならない。この性質を明かにするには、機械によって音波を記録したものなどが有益な資料となるであらう。
 以上のやうな音聲の研究は、現代國語中の諸種の言語の一つニつ(例へば或地の方言とか標準語とか、口語文とかの類)について、他の種の言語とは關係なく行ふことが出來るのであって、又實際さうした方が正當であるが、しかし現代國語中の種々の言語は、互に類似した點が多く、根本的相違はないのが常であるから、その中の或一つの言語に就いて得た知識を基礎として、之と對比しつゝ他種の言語を研究する事も便宜の方法として許される。
 まづ音韻體系の研究に於ては、一の言語に用ゐられるいろ/\の音單位が他の言語にあるかを調ベる。かやうにして、どの音は相同じく、どの音は無く、どの音はどう違ってゐるかなどを明かにする事が出求る。この場合に五十音圖を利用して、五十音圖の假名を一々發音させて見て、その音の異同や有無をしらべるなども簡便な方法である。又、一方の言語にある音結合やアクセントやイントネーションのきまりが一方の言語に於てどうなってゐるかを調べるのである。
 現今方言調査に於て、標準語を基礎として之と對比して調査する事が屡行はれてゐるが、これもこの種の方法の一つである。かやうな方法は、比較的便利であり、比較的早く效果を擧げ得べきものではあるけれども、どうかすると、その言語のみに見られる特殊の音やきまりを見落す事があって、不完全な結果しか得られない虞がある。それ故、かやうな方法を以て研究を始めるのはよいけれども、前に述べたやうな方法によって、その缺點を補はなければならない。
 國語中の二つ以上ちがった言語の發音について研究した上で、この兩者を比較して見るのも有益である。この場合に、全く音聲學的立場に立って、一方の音と他方の音との音としての性質の異同を比較する場合と(東京語のジの音と鹿兒島語のジの音と同じか違ふか、違へばどうちがふかなど)、双方に於て、同じと認められる語に於て、一方の如何なる音が他方の如何なる音に對應するかを比較する場合(「挨拶」といふ語が東京語ではアイサツであり、鹿兒島語ではエサツであって、束京語のアイといふ音は鹿兒島のエにあたり、サ及びツは双方同じであるなど)とある。前のものは、その音の性質を明かにするのに有益であり、後のものは、それ等の言語(例へば東京語と鹿兒島語)の間の關係を明かにする場合に役立つことが多い。現今の國語方言の研究に於て、音の轉換と名づけてゐるのは多くはその方言と標準語とを比較した結果であって、後の種類に屬するが、かやうな音の對應には、唯二三の語にしか見られないものと、非常に多くの語に存して、ほゞ一般的の規則と見てよいものとあって、この後の種類、即ち規則的の音の對應は、言語の史的研究の上に重大なる意味をもつものである(この事は後に至って述べる筈である)。
 以上述べ來った所によって明かな通り、音聲の研究には、音聲學の知識が缺くべからざるものである。さうして、耳で音をきゝわける事も實際に当っては甚大切であるから、いろ/\の音を聞いてその練習を積まなければならない。
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