國語學研究法 橋本進吉

第一編 現代の國語の研究

  第六章 言語活動と文體論の研究


 以上述べ來ったのは、現代國語の言語表象を主とした研究であった。現代の國語の中には種々の言語があるが、同一の言語を用ゐる人々の心中には、同一の言語表象が有してゐるのであって、これが、個人と個人の問の言語の統一を保ち、相關の理解を可能ならしむる基準となるものであり、言語の種類の相違は、個々の言語表象のどこかに相違がある爲であるのであるから、現代の各種の言語について、一々その言語表象を明かにする事が大切であるのはいふまでもない。
 しかしながら、言語表象は、言語活動によって實際の言語に具現せられてはじめて用をなすのであって、發表と理會のはたらさの爲の道具として用ゐられるものであり、又言語表象は、同一の言語を用ゐる社會の各員に通じて同一なもので、個人が勝手にかへる事の出來ないものであるが、これが言語活動によって具現せられた場合には、その意味に於ても發音に於ても、その場合場合又はその個人個人によって多少の相違があるものである事は既に述べた通りである。言語表象を主とした研究は、この社會一般のきまりとしての言語を明かにするのが目的であって、そのきまりは、人々が是非隨はなければならない社會的慣習で、もし之に隨はない時は、全く語をなさないか、又は誤解せられる虞のあるものであるが、それでは、これをさへ明かにすれば、人々がその場合場合に實現した具體的の言語を説明し盡すことが出來るかといふに、決してさうではない。之を説明しようとするには、言語活動を考へて、發表理會のはたらさが、どんなにして行はれるかを明かにしなければならない。この場合には、話手が傳達しようとする思想内容と、その傳達の手段としての言語とを對立させて考へ、話手が社會的に一定した言語表象に基づきながら、いかにして之をその場合場合の思想内容を表はすに適當な表現として言語に具現せしむるかを見なければならない。即ち、社會的に一定して、動かす事が出來ない部分でなく、個人の自由に任された表現の手段方法を闡明するのが、その研究の目的でなければならない。
 この方面の研究は、我國に於てのみならず、西洋に於ても、まだあまり發達してゐないのであって、研究の方針などもまだ確定しないが、類似した内容を表はす種々の語や句や文や表現法を互に比較して、その差異を見出すのが最初の手がかりであらうと思はれる。口語に於ては種々の發音法やイントネーションにも注意すべきである。これまでの修辭法や、作文法などで説かれてゐた事も参考になるであらう。
 今日、表現學解釋學等の名の下に説かれてゐるのは、發表理會のはたらきの根本たる一般原理に關するものが多いやうで、これは必しも日本語にのみ限った事でなく、あらゆる言語に於ても同樣なものである。言語ばかりでなく、言語以外の手段(手真似、身振、信號など)を用ゐて、意志を通ずる場合にも、同樣なものもあるであらう。特に國語について研究する場合には、まづ國語に於ける具體的の事象について、發表理會に用ゐらるゝ種々の言語的手段を仔細に觀察して、それからおもむろに一般原則根本原理に進むのが順當であらう。さうして、右のやうな研究にあたって、バイイ(Bally)氏の文體論研究の如きは、よい参考になるであらう(小林英夫氏譯バイイ氏「生活表現の言語學」)。
 右のやうな言語活動の研究は、個人によって實現せられた言語の、個人的臨時的方面の研究が主となるものである。しかるに、或個人の言語には、他の個人の言語とはちがった或特質が見られる事がある。個人のみならず、或一派の人々がその言語の上に共通の特質があって、他と區別せらるゝ事もある。かやうな個人又は一派の人々の言語の特質を明かにするのを文體論といふ。これは、その個人又はその一派の人々の言語を他のものと比較して、いかなる點にその特質があるがを見出すべきである。


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