國語學研究法 橋本進吉
第二篇 過去の國語の研究
第二章 國語資料とその取扱法
現代の國語は之を用ゐる人々が我々と同じ世に生きてゐる。その言語表象は、それらの人々の心の中に存し、それに基づく言語活動はそれらの人々によって現に行はれてゐる。我々は耳にその音聲を聞き目にその文字を見る事が出來るばかりでなく、音を發する發音器官の動きを見、字を書く手の働きを見る事も出來る。又自らその音を試みて當否をこれらの人々に判斷せしめる事も出來れば、意味の不審を質すことも出來る。然るに過去の言語は、それを用ゐた人々は既に世を去って、親しくその音を聞く事も出來ず、その意味を質す由もない。我々は、過去の言語の面影を殘してゐるものを探し求めて、これを基礎として過去の言語を再生せしめなければならない。かやうな過去の言語を知るべき據所となるものを言語資料といふ。
言語資料には種々のものがあるが、之を類別すれば大體次の如くなるであらう。
(一) 現代の各種の日本語。
(二) 日本語で書いた、又は日本語を寫した内外の過去の文獻。
(三) 日本語に關する過去の記載。
(四) 外國語を日本の文字で寫した過去の文獻及び外國語學書。
(互) 外國語中に有する日本語。
(六) 日本語と同系の言語。
順次に説明を加へよう。
(一) 現代の各種の日本語。
各地の方言、標準語、共他各種の文語及び各種の文語等一切の現代語が過去の言語を知るべき資料となる。これ等の言語は、現代にいたって俄に出來たものではなく、過去から傳はって現在にいたったものである。それは、あらゆる點に於て、過去の言語と同一ではないけれども、また過去の言語をそのまゝに傳へてゐる部分がある筈である。又、これ等の言語は、遠い昔から別々のものでなぐ、根源に於ては同一のものであったのが、各違った方向に變化して種々の言語に分岐したものと思はれるから、之を互に比較して、その根源の状態と、それから分岐した徑路とを推定し、過去の言語の状態を知る事が出來るであらう。諸種の言語の中で、佛教の聲明、平曲、浄瑠璃、謡曲のやうな語り物、謠ひものの類、狂言の詞、歌舞伎の白のやうなものは、間々普通の現代語にない珍しい發音があって、その中に古代の音を殘してゐると考へられるものもある。
(二) 日本語で書いた、又は日本語を寫した内外の過去の文獻。
これ等は、すべて日本語を文字の形で記したもので、過去の國語を研究する際の根本資料となるものである。日本人が書いたものは、漢字や假名で書いたのが普通であって、分量が最多い。漢文に訓(日本語)をつけたものには、日本語を文字でなく乎古止點のやうな符號によって示したものもある。又日本語をローマ字や梵字で書いたものも少しはある。支那人が漢字で日本語を寫したものは甚古い時代からである(「魏志」「後漢書」以後の支那の史書や、隨筆、地誌其他にある)。又朝鮮人も、古くは漢字で、後には諺文で日本語を書いたものがある。西洋人がローマ字で日本語を寫したものもある。
(三) 日本語に關する過去の記載。
日本語の發音や、意味や、文法や、文字や、各種の言語の特徴や、用ゐ場所などに關して觀察した所を記したもので、内外人共にある。日本人のものとしては、註釋書や辭書が古くからあり、後には語學書の類が出來た。歌や俳諧の書や、隨筆紀行雜録等にも、かやうな記事のあるものがある。支那人の作った雑書や地理書などにもあり、又支那人や朝鮮人の作った日本語學書もある。西洋人の作った日本語の文典や辭書などの語學書もあり、又紀行文などにもいくらか見えてゐる。又、日本で出來た、平曲、謡曲、浄瑠璃などの發音を書いたものに當時の日本話の發音の知られるものもある。
(四) 外國語を日本の文字で寫した過去の文獻及び外國語學書
日本人が外國語の發音を漢字又は假名で書いたものとしては、古くから漢字音や梵語を書いたものがあり、後には朝鮮語西洋語などを書いたものがある。又、外國語學書としては、和蘭語や唐語(後世の支那語)朝鮮語などに關するものがある。これらは日本語と外國語とを比較したものであるから、當時の外國語の音を明かにする事が出來れば、之を寫した日本の文字の發音を知り、それから當時の日本語の音聲を推知する事が出來るものもあり、又日本語の意味を知る事が出來るものもある。
(五) 外國語中に存する日本語。
古く日本人と接觸した外國人又は他民族の言語の中に日本語が入って、用ゐられたものがある。アイヌ語の中に日本の古語の入ってゐるものなど著しい例である。西洋語に入ったものも少數はある。これも過去の日本語を知る資料とする事が出來る。
(六) 日本語と同系の言語
同系の言語といふのは、同一の言語から分岐したいくつかの言語をいふ。即ち、同一の祖語を有する諸言語である。日本語と同系の言語はまだ見出されない。朝鮮語が同系であるとの説もあるが、まだ確かでない。琉球語は、たしかに日本語と同系と思はれるが、これは日本語以外の言語でなく、日本語中の方言であるとして取扱ふものが多い。かやうな同系の言語が他に見出されたならば、これと日本語とを比較して、もと同一の根源から出たものとして考へれば、有史以前の日本語の状態が知られる筈である。
以上の各種の資料の中、(二)及び(三)の二種は比較的直接に過去の國語の事實を傳へてゐるもので、中心たるべき大切な資料であるが、これ等は何れも文字に書いたものであり(四)も亦之と同性質のものである。これ等を文獻と総稱してよからうとおもふ。
文字に書いたものといへば書籍が大部分を占める事は勿論である。しかし、その外に、公私の書状、帳簿、書附其他の所謂文書の類があり、碑や像や版や札や旗や、其他の器物などに刻したり書いたり繍ったりした銘文もあって、何れも國語資料とする事が出來る。
これらの中で、書籍類には書誌學があり、文書類には古文書學があり、碑像其他の古器物類には、考古學があって、それ%\これ等の資料を專門的に取扱ってゐるが、國語資料としての立場から見れば、碑像其他の銘文は、古代の實物がそのまゝ今に存してゐるものがあって、それらは後世の改變を經ない確實な資料として信憑すべく、且つ、資料の乏しい非常に古い時代のものの如きは、他に代へる事の出來ない貴いものであるが、全體から見れば、分量が少く、且つ用語の範圍も狭い。文書の類は、古代の實物あるものが多く、確實といふ點に於て貴ぶべきであるが、また後世の書寫も少くない。銘文に比して分量が多く、之を書いたものも種々の階級の人々を含んでゐる。
しかし、用語は形式的のものが多いのであって、言語の範圍はあまり廣くない。書籍は、銘文や文書に比して遥かに分量が多く、その内容も多種多樣であって、各種の言語を含み、過去の言語資料としては、中心をなすものである。但し、古代のものに於ては、著作當時の實物の存するもの少く、多くは後の轉寫を經たもので、言語資料として多少確實性に缺けた所があるを免れず、又、大概文筆に熟した人によって作られたもので、階級的には幾分狭いものと見るべきであらう。但し、時代の下ったものに於ては、著者の自筆本又は親しく校訂したものと見るべきものが多く、又著者の範圍もよほど廣くなってゐる。
さて、以上のやうな文獻は、國語の研究のみならず、各種の史學の資料となるものであるが、之を資料として各種の研究に用ゐる爲に、まづ第一に文獻自身の性質を明かにして、之を如何に取扱ふべきかを考へなければならない。もしさうでないと、思はぬ謬に陥って、之を基礎とした研究が根抵から覆る事が無いともいへない。
かやうな、文獻自身の性質を明かにし、その取扱法を考へる學問を文獻學と名づけるがよいと思ふ(西洋のフィロロジーPhilologyを文獻學と譯す事が多く、その内容は、右に述べたものよりはもっと範圍が廣いのが常であるが、しかし、昔からフィロロジーの中心となってゐたのは右のやうな問題であり、今でも、それがフィロロジーの基礎的研究となってゐる、即ち、文獻學的研究は、文獻を資料とするあらゆる學問の基礎である。
文獻學的研究に於て、まづ第一になすべき事は、資料を集める事である。書籍については、書誌學の中に書目に關するものがあって、各種の目録が出來てゐる。それには、あらゆる部門にわたった一般目録と、或特別な部門だけの特殊目録といふべきものとある。圖書館や文庫や私人などの現に所蔵せる書の目録もあれば、現存すると否とにかゝはらず知られた限りの書名を集めたものもある。その組織も書名分け、内容分類、作者分け、年代分け(年表)などあって、欲する資料をもとめるに便じてゐる。しかしながら、過去の國語の研究を目的とする場合には、日本語で書いた過去の文獻はすべてその資料となるのであって、その内容如何にかゝはらないからその内容からもとめる事は困難である。しかし、概していへば、國文學書と國語學書かその主なる資料となる。言語の變遷を見るには、國文學の内でも、傳統的のものよりも、各時代の新興の文學の方が得る所が多く、歌謠の類もよい資料である。正式な文よりも、講義、説教、口演の筆記、其他通俗の文に注意すべきである。漢文の書であっても、訓點があってよみ方の知られるものは資料とすべく、漢籍や佛書の講義に口語に近いものもある。概していへば漢字の多いものよりも假名の多いものの方が價値が多い。かやうに、言語資料を蒐集するには、普通の目録を直に利用しがたい事が多く、特別の目録を作らなければならない。
次に資料の一つ一つについて、その性質を明かにしなければならない。即ち、卷冊、作者、著作年代、編著の由來、筆者又は刊行著、書寫又は刊行年代、傳來(今日まで傳はって來た經路)内容、組織などを明かにするのである。これは書誌學古文書學等の問題であって、その方面の知識を必要とする。これ等の事は、その資料自身によって直に知られる事もあり、又、他の資料をもとめ、又は他の資料と比較して、はじめて知られる事もある。
同じ書籍又は文書が二つ以上傳はってゐる場合、即ち諸本がある場合には、その諸本の系統を明かにしなければならない。即ち書籍や文書は、著者又は筆者の原本から、傳寫や印刷によっていくつかの本が出來、更にそれが轉寫重刊せられて傳はって行くのであるから、今現に存する諸本は、いかにして傳はったものであって、原本に對して、又相互に於てどんな關係に立つものであるかを明かにしなければならない。その傳來や系統は、その書自身に記されてゐるものもあり、又他の資料によって知られるものもある。しかし、そのまゝ之を信じてよいかどうかはその書の内部の研究にまたねば、決定する事が出來ない。まして、それ等の手ががりのない場合は、勢ひその書自身の研究によるより外に方法が無い。
諸本の系統を研究するには、まづその體裁及び内容を比較してその異同を調査しなければならない。體裁については、卷冊の分ち方、表題、序、目録、跋、奥書などの有無、章段の分ち方、その標出法、字體(漢字か假名か、平假名か片假名かなど)其他について異同を調べる。内容については、本文の比較、即ち校合(又校異、比校、對校ともいふ)を行ふのである。即ち一々本文を比較して、文字や語句の有無異同をしらべる(かやうな調査の結果を記したものを校合本といふ)。
以上のやうな體裁及び内容(本文)の差異は、傳寫重刊等の際に、自然の原因(缺損、蠧食など)又は故意(改訂、増補、削除など)無意(誤寫、誤讀、誤脱、竄入、綴違へなど)の原因によって生じたものであるから、右のやうな諸本の相違せる個處の一つ一つについて、その何れが原形に近いものであるかを考へ、その結果を綜合し、且つ傳來に關する記事等をも参照して、それ等の本の何れが原本に近いか、又相互に如何なる關係に立つかを推定するのである。その際、諸本の中の幾つかの根源となった一本を假定して、それによって他の諸本との關係が合理的に説明出來る場合もある。かやうにして諸本傳來の系統を知るのであるが、諸本の中にその書寫又は成立の年代が明かに知られるものがあるとすると、その種の本が既に何時頃に成立してゐたかも明かにする事が出來る。かやうな系統の研究によって、諸本の中何れが最原本に近いもので、隨って資料として價値が多いものであるかを判斷する事が出來るのである。
以上の如く一々の資料の性質を究め諸本の系統を明かにした結果を叙述したものが即ち資料の解説又は解題となるのである。これは書籍については、書誌學中の一の部門になってゐるのであって、かやうな解題を集めた書籍が既に出來てゐる。これも、あらゆる部門にわたるものもあり(國書解題や群書一覽の如き)又、或部門のみのものもある(歌書綜覧や國文學書史の如き)。
諸本の體裁や内容(本文)を比較する事は、諸本の系統を知るに必要である事上述の如くであるが、これはまた本文校定の基礎として必要である。本文校定は、文獻學的研究の目的の一つであって、著者の原本が失はれた場合に、諸本の研究によって、原本の形を推定する作業である。諸本の中に存する後世の改竄増入を去って原本の有樣に復する事を目的とするものである。この目的が完全に達せられるか如何は、現存する諸本の性質によるもので、豫め定め難いが、しかし出來るだけ原形に近いものを得るやうに努力しなければならない。
唯一つの本が傳はってゐるだけで、他に比較すべきものの無いものは、多くの場合、右のやうな作業は不可能である。しかし、時には、その本自身によって、それよりも古い形を知る事が出來る場合がある(例へば、増補の部分に特別のしるしがあるとか、目録と本文が合はないとか、その本に綴ぢ違へがあって之を直せば正しくなるとかいふやうな場合)。しかし、多くの本がある場合には、これを比較して異同を調査する事、即ち校合を行ふ必要がある。この場合に、諸本の系統の研究の結果に基づいて諸本を選擇する事が必要であって、例へば、諸本の中の一本が、他の一本を寫しただけのものである場合には、その本は取るに及ばない。
校定の方法としては、諸本皆一致する部分は、原本又は最古の傳本に於てもさうであったと見るの外ない。異る部分は、傳寫の聞に相違を生じたのであって、その中の一つが原形であって他は之を誤ったものであるか、又は、原本の形を諸本共に誤ったものであるか何れかであらうから、その何れの場合であるかを考へる(この際、種々の場合に於ける誤寫の實例を多くあつめて、誤寫の生じ得べき條件を考へておき、これに基づいて判斷するがよい)。かやうにして、後世の誤膠や手入を除き去って原本の形に復するのであって、かやうにして本文を定めた本を定本(又は校定本)といふ。
文獻を、種々の學問の資料として用ゐようとするには、それに書いてある事を正しく理解しなければならない。即ち解釋といふ事が必要である。然るに、過去の文獻は 言語文字其他現代のものと違った所があって、或は難解であり或は誤解する虞がある。そこで解釋の方法を考へる事が必要となる。
解釋は二つの方面から行はなければならない。一は形式から一は内容からである。形式といふのは、そこに書かれてゐる文字文章であって、その個々の文字や之を連ねた語句や文章の意味を理解するのが必要であるが、なほその外に、文書や書籍には、種類に應じて一定の外的形式があって、宛名の位置、題目を書く形式など一定してゐるから、その形式によって、これは宛名、これは題目などと理解しなければならない。又、敬意を表する爲に、高貴の方の御名又は稱號の上に餘白をのこすとか、行を改めるといふやうな書式がある。又字を削除し又は添加するにも一定の符號を用ゐる。これ等のものも解釋をあやまらないやうにしなければならない(その一般の定まりは、古文書學や書誌學の研究する所である)。文字や文章の意味を正しく理解するには、その文字及び之によって表はされてゐる言語の實例を多くあつめて研究する事が必要であって、それは、言語文字そのものを研究の目的とする國語學の方法と一致するが、しかし、この場合は、その文獻の意味を理解するに必要な限りに於て言語文字が問題となるものであって、それ以上の事は顧みなくてもよい(例へば、意味は文字にあらはれた形だけで解する事が出來るのであって、その文字の發音がどうであったかは必しも問ふ必要はない。
以上の形式の方面からの解釋と共に、内容の方面から考へる事も必要である。内容といふのは、文字言語によってあらはされる事物や事柄の謂であって、文字言語の意がわかっても、さういふ事實が實際あり得たかどうかを研究するのである。これは、當時の事物そのものに就いて研究した結果によって判斷するの外ない。この形式と内容(事物)と兩方面からの解釋が合致して、はじめて正しい解釋が出來たといふべきである。
右に述べたやうに、個々の文獻の本文が校定せられ、又これが正しく解釋せられて、はじめて種々の研究の資料として用ゐる事が出來る譯で、個々の文獻に關する文獻學的研究は、完全な本文の校定と、正しい解釋の完成とを以てその目的を遂げたものと見られるであらう。然るに、校定も解釋も、共に種々の方面からの研究の結果を總合してはじめて完成するものであって、文獻を資料としてなした種々の學問の研究の結果が、またその文獻の校定や解釋に資する事があるのである。それ故我々は、個々の文獻の本文校定と解釋とが十分完成しなければ、之を資料として用ゐる事が出來ないといふのではない。本文校定は、その文獻の研究としては極めて大切なことであるけれども、これは研究者の推論が加はってゐるのであって、新な本の發見により、又は他の學問の進歩によって變動する事のあり得べきものである。しかるに純粹の客觀的事實としては、唯諸本に於ける本文があるばかりである。これこそ學問研究の眞の基礎となすことが出來るものであって、校定した本文は、根本的のものとする事は出來ない。それ故、我々は、定本の出來るを待たないでも研究を進める事が出來る。
又解釋にしても、當時の言語や文字の研究と、事物の研究上に基づくものであり、當時の言語文字の研究や、事物の研究は、やはり文獻に據らなくては出來ないのであって、文獻の解釋と、文獻を資料とした學問の研究とは、相俟って進むものであって、解釋が完全にならなければ、これを資料とする各種の研究は行ふ事が出來ないといふのではない。
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