國語學研究法 橋本進吉

第二篇 過去の國語の研究

  第三章 一時代の言語状態の研究


 こゝでは過去の或時代或時期に於ける言語状態の研究、即ち共時的研究の方法について考へたい。共時的研究は現代語については最完全に行はれる可能性があるが、過去の言語については、各時代の言語状態を示す資料が甚不完全にしか残ってゐない爲に、或時代の言語については全く不可能であり、又或時代については或一部分にしか行はれない。直接の資料がなくとも、他の時代の言語から間接に推知して補ひ得る事もないではないが、それは史的研究(通時的研究)によるのであって、共時的研究とは方法を異にする故、こゝではその時の言語を文字に寫したもの及びその時の言語に關する記載によって、比較的直接に知り得べき範圍にとゞめておく。さすればその資料は文獻に限られる事となる。
 まづ第一に注意すべきは、資料をなるべく短い時期のものに限る事である。言語はたえず變化するものであるから、あまり長い年代の間の資料を取れば、新舊の状態が混同して、比較的安定した或一時期の状態を知る事が出來ないからである。又同時の言語にも、種類のちがったものがあって、必しも同じくない故に、同種の言語を寫したと認められる資料のみを取り、他の種のものは別にしなければ、眞の言語状態をあやまる虞がある。同種の同時期の言語資料ならば、なるべく多くあつめるがよい。著者筆者や年代の明かなものを中心とし、さうでないものは、採っても參考するにとゞめた方がよい。資料にあらはれてゐる言語がどんな種類に屬するかは、直に知る事が出來ないかも知れないが、その場合には著者筆者の身分職業閲歴、又はその文獻の内容から推測するの外無い。
 研究すべき問題は現代の國語の状態を明かにする場合と同じく、又方法もその場合のと根本的の違ひは無いが、過去の言語であるから、問題によってはわからない事もあり又極めて不確實にしか知られない事もある。又その言語を用ゐた人々は既に居ないのであるから、その人自身の言語表象を自省せしめて之を聞く事は出來ない。もし幸に、當時の言語の意味や音聲を知るべき語學書その他の記載があれば、之によって幾分この缺を補ふことが出來るが、實際に於ては不完全である事を免れない。
 文獻によって我々が直接に經驗する事が出來るのは、文獻に見えてゐる文字の形だけであって、言語の全部面ではない。我々は之に基づいてその發音や意味を見出さなければならない。かやうな文獻に書かれた言語は、或人が或事を表現しようとして、或時實際に用ゐた言語である。言語活動によって實現せられた現實の具體的の言語である。その意味する所は、その場合にその人が他に傳へようとした所のものであって、その語や句のつねに有する意味、即ちその言語表象に結合してゐる事物表象とは、多少の相違がある事を免れない。それ故、同じ語や句が用ゐられた實例を多く集めて互に比較して、その中から、あらゆる場合にその語句に伴ふ意味をもとめなければならない。
 次に各部面の研究法について考へたい。

 (一)音聲
 文獻に於ける文字に寫された言語から、當時の音聲を知る事はかなり困難である。しかしながら、假名又は萬葉假名を用ゐて音を寫したものは、文字が現實の音聲そのものでなく、音聲表象を代表してゐるのであるから、音韻體系を明かにする基礎とする事が出來る。假名又は萬葉假名には、いろ/\の文字がある故に、その中のどの文字とどの文字とは同音であるかを見、あらゆる假名又は萬葉假名が、音から見て、いくつの類にわかれるかを調ぶべきである。それには、同じ語の同じ部分(たとへば「雪」といふ語の最初の部分「ユ」にいかなる假名を宛てたかをしらべて、それ等の文字が同音である事を知り、又違った語に於ても同樣にしらべて、更にいかなる假名が同音であるかを知る。かやうにしてあらゆる假名の調査を終れば、あらゆる假名は、それ%\同音を表はすいくつかの類にわかれるのであって、自然、全體として、いくつの違った音があったかを知る事が出來る。これが、即ち音韻體系を代表するものである。しかし、假名や萬葉假名は、最少のものでも一音節を表はしてゐるのであるからして、右の方法では單音としていくつ違ったものがあるかがわからないが、一々の假名の發音を考へて、之を單音に分解し、その單音の異同を考へて、違った單音がどれだけあるかを見れば、音韻體系を明かにし得るのである。尤も、ローマ字で書いたものは、直に單音に分解し得られるのである。
 次に右のやうにして知られた違った假名やローマ字の一々の音の性質を考ふべきである。その際、その時代に於けるその音の説明又はその音の性質を知る資料たるべきものをもとめる。元禄年間の硯縮凉鼓集中のジヂズヅの發音の説明や、ロドリゲスの日本語典中の桃山時代の言語の音の解説など)。外國人が漢字又はローマ字又は諺文の如き外國文字で書いたものがあるならば、その文字の外國に於ける發音をしらべて、それによって寫された日本の音を推定する事が出來る。漢字音を用ゐた萬葉假名の如きも、亦その漢字の支那に於ける發音をしらべて日本語の音を大體推知する事が出未る。又日本人が外國語を假名又は漢字で寫したものによっても、當時の外國語の發音がわかれば、その假名の音を知る事が出來る(勿論、いろ/\の點から考へなければならないが)。慈覚大師在唐記の中に梵字の發音を説明した如きはこの種に屬する。右の結果によって、音韻體系を明かにすると共に音節の構造もわかる。更にかやうな音が語や句をなす場合にいかに結合するかをしらべれば、音節結合の法式や、頭音尾音の制限などをも大概明かにする事が出來る。但し、文字にあらはさない音や音の區別は、明かにする事が出來ない事が多いが、これは止むを得ない事である(これは、或程度まで、通時的研究で補ふ事が出來る場合がある)。
 次にアクセントは、普通の文獻には書き記されてゐないからわからないが、辭書や訓點などに假名にアクセントの符號(聲點)を加へたものがある。又語り物や謠ひ物に譜を附したものがあるが、これは一方音樂的のものもあらうけれども、大體實際の言語のアクセントに基づいたものと思はれるから、注意して見ればアクセント研究の資料とする事が出來るであらう。多くの語のアクセントがわかれば、これから語のアクセントの型をみとめる事も容易である。又、複合語に於けるアクセントの移動も知られる。但し、イントネーションにいたっては、恐らく、文獻によってはわからないであらう。
      (二) 語彙
 資料の中から、同じ語を出來るだけ多く、集めるのであるが、實際に於ては、どうして同じ語を認めるかが、問題となる。しかし、これは、大體解釋を施して、前後の關係からして同じ語と考へられるものを集めるより外ない。もしその上に文字の形が同じであれは一層同語である事が確實になる。もしその文獻に信憑すべき索引が出來てをれば、語を集める場合に利用する事が出來る。
 個々の語の外形(音)は、音を示す文字で書かれてゐるものによって之を明かにする事が出來る(アクセントも、之を記したものがあれば明かになる)。漢字で書いたものは、同じ語が異る文字で書かれてゐるものがあるが、(たとへば「しんだい」を身代、身體、身袋、進退など、その意味と、漢字のよみ方とから考へて同語である事をみとめ、その音を知る事が出來る。當時の辭書などによって之を知る事が出來る場合もある。
 個々の語の意味は、對譯辭書(漢字や外國語との、又俗語と雅語との)や、註釋書などで知る事が出來る場合もあるが、多くの實例からして、その一般の意味を推定するのが普通の方法である。一つ一つの文獻に用ゐられてゐるものは、言語活動によって實現した言語であるからして、その場合場合に於ける特殊の意味が加はってゐるかもしれない故に、多くの場合の用例を通覽して、その語としての眞の意味をもとめなければならない。その語に伴ふ感じなどは、これを明かにする事は困難であるが、その語がどんな場合に用ゐられるか、いかなる種類の人がいかなる種類の人に對する言語に用ゐてゐるかに注意して、出來るだけ之を明かにするやうに力めなければならない。或種類の言語にしかあらはれないものにも注意して、その言語に特有の語彙を見出すやうにすべきである。切れ續きの感じも、實際の言語に於ていつも切れる所に用ゐられるか、いつも他の語につゞく所に用ゐられるかを見て推知する外ない。
 其他、多義の語の取扱や、語彙の整理などは、現代語に於けるとほゞ同一である。
       (三) 文法
 過去の言語に於て、言語單位を見出すことは、現在の言語に比して困難である。文の終のきれ目でさへも、文字に書かれた言語では明瞭に知り難い事があって、唯、意味から推定する外ない場合が多い。文の中の切れ目になると一層困難であるが、これは歌の句の切れ目によって知る事が出來る場合が少くない。唯單語は比較的容易に見出される。勿論これも、只一つの文では、どこからどこまでが一つの單語であるかわからないが、多くの文について見ると、もし單語の結合したものであれば、或文では續いてあらはれ、或文では互に難れてあらはれるに反して、一つの單語であれば、いかなる文に於ても、いつもそれだけが一かたまりになって或一定の意味をもってあらはれる。それ故、文法の研究には、まづ語を見出して、それから他に及ぶのが便利である。
 單語の分解し得べきものは之を分解していかに構成せられてゐるかを調査する。語を互に比較して語の一部分がその意味及び形に於て他の單語又は他の單語の一部分と同じであるかどうかをしらべて、語を分解する。合併して得た語の成分が、他の場合にそれだけで獨立し得べきもの即ち單語と同じものであるか、又は他の場合に獨立する事が無いものであるかを見、獨立する事が無いものであれば、それは意味上語の中心たるものであるか又は之に或附屬的の意味を加へるだけのものであるかを見て語根と接辭とを分ち、後者は更に、いつも他の語又は語根の前に附くか、後に附くかによって接頭辭と接尾辭とにわかつ。さうして、これ等のものによって語が構成せられる場合にいかなる音の變化があるかを見、又、それが意味の結合上に何等かの關係があるかを考へ、それ等の中に多くの場合に通ずる規則を見出して、語の構成法を明かにする。
 單語であって、同じ語が場合によって語形を變ずるものは之をあつめて、その一つ一つの形が、いかなる意味をあらはし、いかなる用をなすかを明かにし、あらゆるこれ等の諸語を通じて、語形變化によって區別して示される意味用法の體系創ち活用を明かにし、それ等の意味用法が、一々の語に於ていかなる形によって示されるを調査して語形變化の型をもとめ、その型の異同によって活用の種類を立てる。更に同じ語の種々の變化した形を互に比較して、語形變化がいかにして形づくられるかを明かにする。
 次に、文構成法の研究としては、文に於て、いかなる單語がいかなる單語とどんな風に結合して、それによっていかなる意味を表はしてゐるかをしらべる。その結合の手段として、どんな語、どんな活用形を用ゐ又語をどんな順序に置くか、又それらの手段の違ひによって結合した意味がどう違ふかを明かにする。又、文を終止するにも、どんな方法を以て終止した事をあらはすか、その方法の違ふに從っていかなる意味上の違ひがあるかを調べる。かやうに、語が他の語に續いて之と結合する場合、及びそこで文が静止する場合の種々の意味と之を示す種々の方法手段とを明かにした上で、一の語が、かやうな意味及び手段の如何なるものを持ち得べきか又は持ち得べからざるかを調べて(即ち、その語の有し得べき用法又は役目を明かにして)、その異同に從っであらゆる語を分類する。これが即ち品詞である。
 かやうに單語をすべて品詞として見て、いかなる品詞はいかなる品詞と結合するかしないか、結合するにも、その結合する意味の相違によっていかなる方法手段を用ゐるか、又、文を斷止するにいかなる方法を用ゐるか、それが品詞によってどうちがふかを明かにする。
 又、文の中に於て、或特殊な語は、他の特殊な語又は活用形を要求する事がある(副詞の呼應とか係結の如き)。これも多くの實例について、或語の用るられた場合には、その下の方にいつも或語又は活用形があらはれる事をたしかめて之を知るの外ない。
 以上のやうな文法上の事實は、當時の語學書などがあれば、これによっても知られる事は勿論である。但し、それのみにたよらず實例についても調査する事は必要である。
  (四) 文字
 文字の形については、同じ語又は音をあらはすと認められる個々の文字を集めて、その字の正しい形を知り、又異體略體の字を知る。但し、何れが正體で何れが異體略體であるかを判斷するには、それが如何なる場合に用ゐられ如何なる種類の書や文書にあらはれるかによって推測する外ない。勿論辭書語學書などに説明かあれば、之によって明かにする事が出來る。
 文字の意味及び發音については、幸に辭書や註釋書のやうなものがあれば比較的容易に知る事が出來る。又外國語と對譯のものがあれば、その意味を(時には發音も)知る事が出來る。さもない場合は、同一の語をあらはすと認められる違った書き方を對照して文字の意味發音を知り得る場合がある(一方が漢字で書かれ、一方が假名で書かれてゐる場合など)。假名やローマ字のやうな音を示す字であっても、語を標準としてしらべると、いかなる文字といかなる文字とが同音であるかを知る事が出來ると共に、同じ字が時に違った音に用ゐられる事もわかり、これ等の多くの例から、字の讀み方の上に於ける通則(「は」は語の初ではハとよみ、語の中や終ではワとよむといふやうなきまり)も明かになる。又、漢字と假名との使ひわけに於けるきまりの如きも、やはり語を標準としてはじめて之を知る事が出來る。又、文字を結合した場合のきまりは、文を標準にして調べるがよい(句讀法など)。

 以上は或時に於ける或一つの言語の状態の研究であるが、同じ時代又は時期に、いくつもの違った言語が共存する故、それには如何なる言語の種類があり、それが如何なる特質を有し、いかなる地方いかなる社會に行はれ、又はいかなる場合に用ゐられるかを明かにしなければならない。これ等の事に關する記述ある資料があれば幸であるが、あっても、あらゆる種類にわたって詳細で明確な記述がある事は望みがたく、當時の言語を寫した資料によっても、十分之を明かにする事は實際上困難である。
 言語の種類がちがへば、その音聲、語彙、文法の何處かに違った點がある筈であるから、諸種の文獻にあらはれてゐる言語について調べ之を比較した結果、右のやうな點に違ひがあれば、その文獻の作者の生國在所、職業、社會上の階級、年齢、男女の性別等をしらべ、又、その文獻の性質種類などを調べて、他の同種の作者の書いたと認められる資料と比較してその言語のちがひが何によるものであるかを考へるより外に方法が無い。さうして、その言語の他の言語と異る點を以て、その特徴と認むべきである。しかし、かやうな事は、資料が甚豊富な場合にはじめて確かな結果が得られるので、實際に於ては資料が少く、爲に、文獻にあらはれた言語に多少の相違が見えたとしても、これが果して言語の種類の相違に基づくものであるかどうか確定し難い場合も少くないであらう。ことに語義の相違は、同一の言語に於ても、人により又場合によって相當にあるものであるから、よほど顯著なものであるか、又は何か他の記載によって支持せられるものでなければ、あまりたしかな據所とはしがたい。


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