國語學研究法 橋本進吉
第二篇 過去の國語の研究
第四章 言語の變遷と史的研究
以上過去の國語について、或時代又は時期の状態を明かにする共時的研究の方法を考へたのであるが、以下、各時代を通じて言語の發達變遷を研究する通時的研究について考へようと思ふ。通時的の見方からすれば、現代の國語の状態も、過去から引續いて變化して來た言語の或一つの時に於ける樣相であるがら、過去の各時代に於ける國語と共に通時的研究の對象となる事はいふまでもない。
すべて過去の事象の研究を史的研究上いふとすれば、過去の各時代の國語の状態の研究も史的研究といってよいわけであるが、通時的研究こそ、言語の變遷そのものを對象とするものであって、純正な意味に於ける歴史的研究であるから、今は之だけを史的研究と呼びたいとおもふ。
言語は變遷する。變遷は歴史をもつものにのみ存し、歴史は時間的に繼續する事象に於てはじめて可能である。言語活動は、その時その時に完成せられるものであって、持續性が無い。之に反して同一の言語を用ゐる社會の個人の心中に一樣に存し、個人の生命を超えて永く傳はるものは言語表象である。それ故、言語の變遷は、つまり言語表象の變化である。その變化は、言語を用ゐる人々自身にも意識せられずして、いつの間にか生じて進展する場合が多いのである。さうして、はじめは個人の言語活動にあらはれた、個人的又は臨時的要素が一般の人々に取り入れられて、遂に社會一般の言語表象を變化させるのが常である。それ故、言語の變遷は言語表象に屬するけれども、變遷の經過を明かにするには常に個人の言語活動を考へ、個人によって具現せられたる言語に注意しなければならない。言語活動は、現代の言語に就いては我々は之を直接に經驗する事が出來るけれども、過去の言語については之を知る事は出來ない。しかしながら、言語活動は、その本質に於ては過去の人々と現代の人々の間に相違があるとは思はれず、その基礎たる精神及び身體の活動も根本に於ては古今の差があるものとは考へられない故、現代の言語について觀察した所に基づいて過去の言語活動を推測する事は不可能でない。なほ又、過去の言語を寫した文獻は、その著者又は筆者が、その時行った言語活動の結果として、文字に具現した言語を我々に示してゐるのであるから、これ等の文獻の研究によっても得る所があるべき筈である。
言語の變遷は同一の言語の違った時代又は時期に於ける状態を比較した時にはじめて認められる。違った時代に於けるその言語の種々の要素や單位や構成法を互に比較すれば、次のやうな結果が見られるのが常である。
(一) 前の時代と後の時代と全く同じであるもの。
(二) 前の時代になかったものが後の時代にあるもの。
(三) 前の時代にあったものが後の時代にないもの。
(四) 前の時代にあったものが後の時代に於て違ったものに入れかはってゐるもの。
(一)は全く變化の無いものであり、(二)は新に生じたものであり、(三)は消滅したものであり、(四)は變化したものである。さうして(四)には、(a)前のものがなくなって、その代りに新に出來たものが之に入れかはった場合と、(b)前のものが變じて違ったものになった場合とがある。(a)は(三)と(二)とが同時に起ったものであり、(b)は、一つのものが轉じたので、これこそ眞の推移轉化といふべきものである。言語の變遷といへば、言語の變化をさすのであって、從って、(一)のやうな變化しない場合は之を含まないやうに考へられるけれども、いかなるものが變化し、いかなるものが變化しないかは、豫め知る事が出來ないのであるから、言語の通時的研究には(一)の場合をも除外する書が出來ない事ばいふまでもない。
前述の如く、言語の變遷は、言語表象の變化であって、言語表象は音聲表象と之に伴ふ事物表象(即ち意味)とがある。この二つは、元來は別々のもので、それが精神作用によって結合されてゐるに過ぎないのであるから、これらは互に他に關係なく變化し得るものであって、一方の變化は必ずしも他の變化を伴はない(意味が變化しても音は變化せず、又、音が變化しても意味が變化しない事がある)。又、言語を構成する種々の個々の單位や構成法も、それ%\それだけで變化して、その變化が他に及ばない事がある(無論他のものも同時に變化することもあるが)。それ故、かやうなものの變遷は、種々の單位や構成法の一つ一つについて別々に觀察し、その上で、更に互に關聯するものについて考究すべきである。さうして、かやうな箇々の要素や構成法の變化は、その言語全體の状態をかへるものであるが、我々が、まづ知り得べきものはその時期その時期に於ける言語の状態であり、變化しない以前の状態と變化した後の状態とである。之を比較してみても、得る所は、言語變化の結果だけであって、變化そのものではない。我々は、かやうな結果からしてその原因に溯り、そこに生じた變化の本質を究めなければならない。それには、變化しない以前の言語と變化した以後の言語とを、單に當時の言語表象として考へるのみならず、それが言語活動によって實現せられる場合の生理的及び心的活動について考へ、言語變化の以前及び以後に於て、その生理的及び心的作用にいかなる變化があったかを見て、その如何なる要素又は作用の變動推移に基づくものであるかを考察しなければならない。これには現代語に於ける言語活動の音聲學的及び心理學的觀察が基礎となる。
以上の如く、一つの言語の各時代の状態を比較してその變遷を研究する方法を歴史的研究法といふ。この方法に於ては、言語の各時代の状態を知る事が必要であるが、現代語の状態は、我々は直に知る事が出來、またあらゆる部面に亙って完全に知る事が出來るけれども、過去の言語については前に述べた如き共時的研究によって、過去の文獻を資料として比較的直接に知り得る所のものはその時代に於ても又その部面に於ても甚限られたものであって、多くの場合に於て闕陷の多いものである事を免れない。しかしながら、及ぶかぎり多くの資料を集めて時代順に並べ、之を一つのものの展開した相として考へれば、たとひその間に缺けた所があっても、全體としての變遷が明かになるものが少くない。しかしながら、あまり資料の少い部面や時代については、殆ど之を知る事が出來ないのが常であり、殊に、あまり古い時代に溯れば資料たるべき文獻が全く無いのが常であるからして、歴史的研究法によって明かにし得べきものは時代の上に於て限度がある事を免れない。
それでは、かやうな缺陥を補ふ方法は全く無いかといふに必しもさうではない。それは比較研究法である。
言語の變遷は同一の言語の違った時期に於ける樣相をかへるばかりでなく、時として同一の言語を二つ又は二つ以上の別の言語に分裂せしめる事がある。例へば、或一つの言語に變化が起った場合に、その變化が、その言語の行はれるあらゆる地域の人々に速に傳はったならば、變化のあった後の言語の状態は、以前とは違った點があるにしても、やはり何處に於ても同樣であって、言語の統一は保たれてゐるのであるが、もし、その變化が或地域にのみ傳はって他の地域に及ばないか、又たとひ及ぶとしても、甚永い年月を要するとすれば、土地による言語の相違が生ずる。かやうな相違が年を經て重なって行くと、遂に同一であった言語が違った言語に分れるのである(一國語内の方音の相違は、かやうにして生じたものである。その相違が益甚しくなれば遂に全く違った別々の國語となる事さへある)。右のやうな場合には、同一の言語を用ゐてゐた一つの言語團體が二つ(又は二つ以上)の別々の言語團體にわかれて、それに屬する個人は、各別々の言語を用ゐるやうになるのであるが、又同一の言語團體内に於て、或特別の場合に用ゐる言語が、他の場合に用ゐる言語と分離し、一方に變化が生じても、その變化が他に及ばないやうになる事もあるのである(口語と文語の相違の如きは之に屬する)。同じ國語内の種々の言語の相違は以上のやうな徑路を經て生じたものである。もし幸に、これ等の言語の各時代の状態を知るべき資料が殘ってゐる場合には、歴史的研究によって之を跡づける事が出來るのであるけれども、さうでなくして、各時代にわたる資料が無い場合にも、種々の言語の或時代の状態が知られれば、之に基づいて、これ等の言語が同一の言語であった時代の有樣を知り、それから分裂した徑路を推定する事は出來ないでもないのである。即ち、これ等の言語の個々の單位や構成法を互に比較對照して、その異同を明かにし、たとひ違ってゐるにしても、もと同一のものが、變化して相違を生ずるに到ったと見得るものを見出し、その根源に於ける状態と、それから變化した徑路とを考定すれば、現に我々が資料からして比較的直接に知る事が出來る時代よりも以前の状態を知る事が出來る。更に日本語以外に、日本語と共に、同一の言語から分裂して出來た他の同系の言語があるならば、これと比較する事によって、日本語だけでの歴史的研究法では及ばなかった悠久の古代に溯って、共同の祖先であった言語の状態を明かにし、それから歴史的研究法によって我々の知り得べき日本語の最古の状態にまで遷って來た徑路を明かにする事が出來る筈である。かやうな研究の方法を、比較研究法といふ。歴史的研究法でも、各時代の状態を比較するのであるけれども、言語研究の上で特に比較研究法といふのは、かやうな同一の言語から分裂して出來た諸言語を比較して、その分裂以前の状態と、それから諸言語が生じた跡を明かにするのをいふのである。
歴史的研究法は、言語の時代的變化を明かにするのであるから、同一の言語について行ふべきであり、隨って一つの言語の各時代の状態を知るべき資料のみを取らなければならない。もし他の種の言語の資料が混じたならば、正しい結果を得る事が出來ない虞がある。これに反して比較研究法は、言語の分裂の徑路を明かにするのであるから、いつも異種の言語の間に行はれるのであって、その關係の親疎を問はず系統上關係があると思はれる言語は出來るだけ多く取る方がよいのである。
歴史的研究法に於ては、知り得べき各時代の言語事實を時代の順にならべて、順に古代から現代に下る事が出來ると共に、又逆に現代から出發して順次古代に溯る事も出來る。この二つは、どちらがよいわるいと豫め定める事は出來ないが、過去の言語事實に就いて我々が文獻から知り得るものは、比較的不完全であり不確實であるを免れない故、完全に且つ確實に知り得べき現代語を基礎として、それから順次に古代に溯って研究する方が便宜である事も少くない。比較研究法に於ては、時代に從って下る事は絶對に不可能であって、いつも後代のものにもとづいて、それから逆に古代のものを推定するのである。さうして、比較研究法によって明め得るのは、發達變遷の徑路だけであって、初めいかなる状態にあり、それから次々にどんな状態に移って來たか上いふことが知られるに止まり、それが何時の出來事であるかは明かにし難い。しかるに歴史的研究法にあっては、言語資料の年代によって、大體何時頃そんな状態にあったか、又そんな變化はどんな時代に起ったかを知る事が出來る(但し實際に於ては、十分精細な年代を定める事は困難であって、大體の時代をたしかめるに過ぎない事も少くない)。
さて、歴史的研究法によって、一の言語の異る時代の状態を比較して、その間に於ける個々の言語單位や構成法の相違を、同じものの時の經過に伴ふ變形又は變化を説明しようとするに當って、資料によって知り得べき一の時代の状態と、他の時代の状態とが直に連續して起ったものでなく、その中間の或る状態を介して移って行ったものと想定しなければならない場合がある。又比較研究法に於ては、異る言語の相對應する言語單位や構成法を互に比較して、それ等の間に見出された相違を、もっと古い時代に存した共通の祖語に於ては同一であったが、それ%\別の徑路を經て變遷して來た爲に相違を生じたものとして説明するに適するやうな、祖語に於ける言語状態を想定しなければならないのが常である。これ等の場合に右のやうな想定を可能ならしめるものは、廣く諸國語に於ける言語變化の實例から歸納せられた諸種の言語變化の類型、及びその音聲學的並に心理學的考察から得た言語史上の諸原理であって、かやうにして知られた諸種の言語變化の内、今問題となってゐるやうな言語状態を結果し得べきものをもとめ、これによって、その際どんな言語變化が起ったかを知ると共に、その變化が、どんな性質のものであるかを説明する事が出來るのみならず、又、之に基づいて、資料から(比較約)直接に知る事が出來ない言語状態をも想定する事が出來るのである。さうして、かやうな場合に用立てる爲に、國語及び國語以外の諸言語に於て、推移の跡を比較的詳細に知り得べき言語變化の實例を多くあつめ、實際の言語活動に照してその變化の本質を明かにし、その異同に髄って類別して、言語變化の類型をたて、その原則を究める事が必要である。この事は一般言語學の問題であって、國語研究に於ては、一般言語學の成果を借りて來ればよいやうであるけれども、出來るだけ多くの諸言語に於ける事實を基礎とすべきものであり、又同じ言語に於ては、時代を異にし、言語の種類を異にしても、同じやうな變化が起り易いものであるからして、國語に於ても、言語變化の實例を集めて右のやうな研究を試み、以て、一般言語學に寄與すると共に、國語に於ける個々の言語變化の研究に利用すべきである(金田一京助氏の「國語音韻論」は、國語の音聲變化に關してかやうな研究を試みたものである)。
右の方法は、つまり言語變化の類例をひろく求めて、それによって國語中の或言語に起った言語變化の徑路を明かにしようとするものであって、之を一般的研究法といふ。歴史的研究法は、一つの言語の違った時代の事實を基礎とし、比較的研究法は、同一の祖語から分裂した同系の諸言語の事實を基礎とするものであるに對して、一般的研究法では、系統の有無を問はず、時の新古を論ぜず、どんな言語に於ても、同樣の言語變化と認められるものはすべて取ってその例とすべきである。この方法は、同樣の言語變化は、時を異にし種類を異にした言語に於ても起り得るといふ假定に基づくものである。それ故、必ずしも、同じ言語の他の時代の状態と比較せず、又、他の同系の言語と比較せずとも、どこかの言語に起った言語變化の實例を類例と認める事が出來れば、或一つの言語の或時代に於ける事實のみに基づいて、之と同樣な言語變化があった事を推定する事も出來る(例へば、獨逸語の「親」を意味する語eltern(エルテルン)が年若いたるものの義から出來たものである事を類例として、國語の「おや」を「おゆ」(老)といふ語から出來たものと推定する如きもの)。もっとも、單に類例や一般的原則にのみよって推定するのは、十分確實な結果を得る所以ではないが、他に方法が無い場合には止むを得ない。
以上、國語の史的研究(通時的研究)には三つの方法がある事を見た。即ち
一、歴史的研究法
二、比較研究法
三、一般的研究法
の三つである。これらの方法は、我々の有する資料の性質に從って、それ%\適當なものを選んで用ゐるべきであるが、概していへば、歴史的研究法よりも比較研究法の方が、比較研究法より一般的研究法の方が推定の範圍が多くなり從ってその確實性を減ずる事が多いのであるからして、まづ歴史的方法を盡してその及ばない所を他の方法で補ふのが常道である。もっとも問題の性質によっては最初から比較研究又は一般的研究の方法によってよいものもある。さうして、同一の問題に對して、これ等の種々の方法を用ゐうべきものは、之を併せ用ゐて、出來るだけ種々の方面から、その言語變化の真相を明めるやうにしなければならない。
以上述べた所は、國語中の種々の言語に於ける個々の言語單位やその構成法の時代的變化の研究についてであるが、國語の史的研究の問題としては、このほかに、國語内の種々の言語が、いかにして生じ、又消滅し、又は混同し、又相互に影響を及ぼしたか等の問題がある。これはつまり國語内の言語の分裂、統一及び相互影響に關する問題である。その研究には、前述の方法によって、一つ一つの言語自身の史的研究を行った上、之を他の種の言語と比較する事が必要であるが、またこれ等の言語は、日本民族の内での種々の社會集團の相違か、又、之を用ゐる場合の相違に應ずるものであるからして、さやうな種々の社會集團かいかにして作られ、いかに變化し或は消滅したか、又相互に影響を及ぼしたか、又、種々の言語を用ゐる場合がいかにして社會的意識として區別せられるにいたったか、又それらの場合が相互にいかなる交渉をもつにいたったかといふやうな、言語以外の種々の事情を明かにして、はじめて説明せられる事が多い。これには、日本の社會組織や種々の文化の歴史的知識が必要である。
更に又、同じやうな問題が日本語全體の上にもあるのである。即ち、日本語がいかにして生じたかといふ日本語系統の問題、及び日本語が他の言語からいかなる影響を受けたかといふ問題である。系統の問題は、日本語以外に、之と同一の祖語から分れ出た言語があるかどうか、もしあるとすれば、日本語とそれ等の言語との系統上の關係如何が問題となる。これは、日本民族の發生及び發達と密なる關係があって、その方面からの考察も必要であるが、純粹な國語學の問題としては、日本語と他の言語との比較研究を試みて、それが成功するのを待つより外に方法が無い。他國語の影響については、傳説又は歴史上に日本民族と接觸し、又は文化上の交渉のあった民族の言語と比較して研究すべきである。その際に外交史、海外交通史其他の歴史上からの研究も必要である。
次へ
目次