國語學研究法 橋本進吉
第二篇 過去の國語の研究
第六章 語彙の史的研究
個々の單語の發生と變遷と絶滅の歴史を研究するもので、語源又は語史の研究である。此は、いふまでもなく、古代から現代にいたる各時代の實例を出來るだけ集めて歴史的研究をほどこし、且つこの語の國語中の各種の言語に存するものを集めて比較研究を行ふべきである。
語は、外形たる音及び内容たる意味に於て變化する。又或時代に發生し、或時代に死滅して、その言語の語彙が加はり又減ずる。勿論、音及び意味のかはらないものもあり、又死滅せずして現代まで存してゐるものも多い。又發生については、年代が甚古い爲わからないものもあるが、出來るだけは研究してみなければならない。
まづ、語の變化する場合について考へて見るに、語の外形と意味とは、互に關係なく變化するのが普通であるから、外形の變化と意味の變化とを別々に考へなければならない。
語の外形は、音節で出來てをり、これに一定のアクセントが附いてゐる。或語の外形の變化は、各時代の資料にあらはれたその語の形及び現代語に於けるその語の音を時代順にならべて比較し、又、その語の諸種の言語にあらばれた形を比較して知られるのであるが、その語の形を構成する音節や、その音節を構成する單音や、音節の結合法又はアクセントに、或時代にその言語に一般的の音聲變化が起って、その結果、その語の形が變化したものであるとしたならば、それは、その語だけの問題でなく、他の諸語に於ける同樣の場合と共に、音聲變化の問題として研究すべきもので、かやうな研究によって、その語の資料の缺けた時代に於けるその語の形を推定し得る事もあるのである。しかしながら、前章に述べたやうに、一般的音變化にも例外の場合があり、又偶發的の音變化もあるからして、その語の音變化が何によって生じたものであるかを考へなければならない。
一般的又は偶發的變化以外の原因で、語の外形が變じた場合は、大抵は他の語の形に類推したものである。例へば「ナンノカノ」(何の彼の)といふべきが「ナンノカンノ」となり「サイヘバ」(然言へば)が「サウイヘバ」となり「ナガク」(永)が「ナガラク」となったのは「ナンノ」に類推して「カンノ」となり、「カウイヘバ」に類推して「サウイヘバ」となり「シバラク」に類推して「ナガラク」となったので、意味上それと同類の語がその模範となってゐるのである。イシガキ(石垣)かイシガケとなり、トラホーマがトラホーメとなるのは、その語の意味から、石垣を石崖と解し、トラホームをトラホー目(目の病には「血目、」「たゞれ目」「星目」など「−目」といふものが多い)と解したからであり(この種のものを語源俗解又は俗間語源説といふ)、トラヘル(捕)がトラマヘルとなったのは、これと同義のツカマヘルと混同して一つにしたのであらうし、ヒザツクであるべきをヒザマヅクといふのは、これと意味の似たツマヅクと混同したのであらう(この種のものを混同法といふ)。何れも意味の上から(時には更にその形の上からも)他の語を聯想し、その語の形の影響を受けたものである。それ故、或語の外形の變化が音變化として説明出來ない場合には、それと意味の似た語、又は意味上關係ある語でそれと形の似た語がないかをもとめて右のやうな過程で語形が變じたのでないかと考へて見なければならない。
次に語の意味の變化は、その語の各時代の文獻に於ける用例から歸納せられた各時代の意味、辭書註釋書等に擧げられたその語の意義等に基づいて歴史的研究法により、且つ各種の言語(ことに諸方言)に於けるその語の意味の比較研究によって之を明かにする外無い。
意味が變化した場合に、前の意味よりも後の意味が廣くなるものと、狭くなるものとある。以前のものと同じであるとの意味をもってゐた「どうぜん」(同前)が單に同樣の意味となった(今は「同然」と書く)やうなのは前の種類に屬し、衣服を意味した「ころも」(衣)が僧衣を意味するやうになった類は後の種類に屬する。意味が廣くなった場合には、前に用ゐられなかったやうな他の語と共に用ゐられるやうになり(「乞食同然」など)、徠くなった場合には前には共に用ゐられた語もこれと共に用ゐられなくなる(「夜の衣」「夏衣」などは用ゐられなくなった)。かやうな點から意味の變化を知る事が出來る場合が少くない。
意味變化には、又、一つの意味が他の意味に移る場合がある。「おとなしい」が大人のやうなの義から柔順温和の義にうつり「気の毒」が困った意味から同情すべき意味に移る類である。かやうに一方から一方に移るには、中間に、どちらの意味にもとれるやうな場合があって、それから他の意味に移るのが常である。例へば、子供について「おとなしい」といへば、子供が「大人のやうだ」即ち「柔順だ」となり、それから子供以外の人についても「柔順だ」の意味で「おとなしい」といふやうになり、」気の毒」は「困った」といふ義である故、人の事についてそれは「お困りだ」の意味で「お気の毒」といったところから、「同情すべき」の義に轉ずる類である。それ故、なるべくかやうな實例を見出し、又實例が無い時は、かやうな事のあり得べき場合を推測すべきである。
語の意味が變じた後も、なほも上の意味が之と共に用ゐられる事があるから、このことも注意しなければならない。
又、國語中の一の言語に於て既に變じてしまった古い意味が他の種の言語に於ては後までも残ってゐることがある。口語に滅びた意味が文語に存してゐるのは常に見る所である。現代の方言の中にもかやうなものが往々見られる。これは、比較研究法で見出される筈であるが、しかし實際は、意味變化は甚多樣であって、種々の違った意味を比較しても、どちらがもとで、どちらが後に變化したものかを定め難い場合が多い故、純粹の比較研究だけによっては確實な歸結を得る事が困難な場合が多い。これは出來るだけ歴史的研究と關聯させて研究すべきである。古代の文獻に於ける或語の意味が、或方言に存する同じ語の意味で解釋せられる事が屡あるが、かやうな場合には、その意味が古いものである事が確實になる。(但し、その場合でも、それは必ずしも現代語に於ける意味より古いものであるとは斷定出來ない場合が少くない)。
次に、語の發生即ち語の起源の問題がある。これは新な語がこの言語の語彙に加はるのである。語にはその發生が甚古くて、文獻の存する最古の時代に既に存するものもあり、又、比較的新しくして、文獻の存する時代になってから後に發生したものもある。概していへば、前者はその起源を知る事が困難であって確實な説を得がたく、後者は幾分容易であって、比較的確實な結論を得る見込のあるものである。しかし、實際にあたっては、各時代の資料を十分に得る事が出來ない事が多い故、後の場合でも研究に困難を感ずる場合が少なくない。その上、或語が何時頃發生したかを現存の資料から知る事も容易でない。たとひ、古い言語でも、後世の文獻にはじめて見える事もあり、又文獻のある時代に發生したものでも、すべて直に文獻にあらはれるとは限らず、假にそんな文献があったとしても、それが今日まで残ってゐるとは限らないからである。しかしながら、とにかく問題の語の現存の文獻に存するものをさがしもとめて、その語が何時頃から文獻に見えてゐるか、又、その語の我々が知り得べき最古い時代の形(音)と意味とはどんなであったかを明かにする事がまづ第一になすべき仕事である。さうして、初めて文獻に見える年代が新しければ、後代に發生したものでなからうかと一應考へて見る必要がある。
新しい語がその言語の語彙に加はるには、次のやうな次第によるのが普通である。
(一) 新に語が作られるもの。(二) 他の言語から輸入せられてその語彙に加はるもの。
(一)新に語が作られるには、實際の音に擬して全く新に作られるものもあるが(「ガラ/\」「パチンコ」など)、これまであった語に基づいて作られる場合が多い。後の場合に屬するものは、(a)既にある單語を合せて新な語(複合語)を作ったもの、(b)連語(語の結合したもの)又は文を一語としたもの(「たけのこ」−「竹の子」の意味から「筍」の義を有する一語となる。「たそがれ」−「誰ぞ彼は」の義から「黄昏」の義を有する一語となる)、(c)接尾語を附けて新な語が出來たもの(「偉大さ」「静かさ」「眞劍み」など)(d)語尾を活用させて新な語としたもの(「野次」→「やじる」。「退治」→「たいぢる」。「敵對」→「てきたふ」。「装束」→「さうぞく」など)(e)語の一部分が獨立して語となったもの(「學者ぶる」「賢人ぶる」から「ぶる」といふ語を作り、「あるまじけれども」「思ふまじけれども」から「けれども」といふ語を作るなど)(f)漢字に書いた形に基づき、訓讀すべき漢字を音讀して新な語が出來たもの(「ものさわがし」を「物騒」と書いたのを音讀して「ぶっさう」とし、「ざだいへ」(人名)を「定家」と書くによって、「ていか」といふ類)、又は漢字の形から新な語が作られたもの(無料の義の「ただ」を「只」と書くよりロハといふ如き)などある。
新な語が作られるのは、大抵以上のやうな種々の方法によるのであるが、全く新に作られる場合は、音を摸するのが常であるからして、その語の音が、或實際の音をおもひ出させるものであるべきである。これまであった語に基づくものは、その語の發生した時に既にその基礎となった語が、その言語に存在しなければならないのであるから、出來得るかぎりの資料によって、その語の初めて見える時代をしらべ、且つその基づく所となった語がそれより前にあった事を證明しなければならない。又複合語や接辭を附けたものは、出來た當時の語構成法に從ふべきであり、よし多少之と違ふものがあっても、それの模範となり得べきものがあった筈であるから、さやうなものをさぐり出すべきである。他の語を活用させたものも、さやうな活用形式が當時盛に行はれた事を確めなければならない。又、語の形(音)に於ても、當時の音韻體系として許さるべきものでなければならないし、語の意味においても、その基となり材料となった語の當時に於ける意味から自然に導き來られるやうなものでなければならない。かやうな種々の點を考慮して斷定を下す事が必要である。尚古く發生した語に於ては、かやうな研究を行ふべき資料なく、唯、後世に於ける類例や他の言語に於ける實例に基づいて(一般的研究法にのみよって)論斷するの外ない場合が多いから、從って十分確實な動かない結果を得にくい事が少なくない。但し一つの言語だけの研究でなく、他の種の言語との比較研究によって、新語發生の基となったやうな事實が古く存した事が明かになる場合もある。
(二) 單語が他の言語から輸入せられて新に加はる場合には、外國語から加はるものと日本語内の他の種の言語から加はるものとがある。何れにしても、文獻によって、何時頃からその語がその言語に用ゐられたか、又最古い形と意味とはどうであるかをまづ調査しなければならない。
外國語から入ったもの即ち外來語は、日本民族が、何等かの理由でその外國語に接したからであって、それには歴史上の出來事(他民族との交通、外國文明の輸入など)の結果であるから、さやうな事實の検査が有力なる參考になる。さうしてその語を、右のやうな理由で關係がありさうに思はれる外國語と比較してみるのである。その語の形や意味は輸入せられた時代のその外國語に於ける形(音)や意味に基づくものであるが、その音は外國語と日本語との音韻體系の相違によって、日本語に無い音は日本語の音にかはるのが普通である。その音の變化は、時として甚規則的であって、同じ音はいつでも同じ音に變化し、外國語の音と日本語の音との間に音韻法則のやうなものが見出される事もある。又、これ等は、はじめ外國語として學ばれ(現在の英語、獨語、佛語のやうに)その時分はまだ外國語式の發音を存するが、日本語中に入って用ゐられる場合に完全に日本語式にかはったものもある。さやうなものは、古い時代に於ける日本の外國語學(漢語學、梵語學、蘭學、唐音など)に關する文獻が參考になる。
又、語の意味も、本國に於けるものと多少かはったものもある。
同じ外國語から輸入せられたものでも、直接外國人から耳に聞いて入ったものと、書いたものから入ったものとで、その音も又意味もちがふものがある(ヤールとヤード、セルとサーヂ)。又同系統の國語(英語と蘭語、葡語と佛語など)では、同じ意味で音の似た又は同一な語があるから、どこから入ったかが問題となる場合がある。(パン、ゴムなど)これは、その日本語として用ゐられ初めた年代や音の形などを考へて斷定しなければならぬ。
外國語が日本語中に用ゐられるのは、新しい事物が輸入せられた場合に多いのであって、さやうな事物の歴史と關係があるから、この方面の知識も必要である。又、此等は直接その國からでなく或國へ入ってその國語となったものが我國語に入ったものもある。かやうなものは、其語の我國へ入る以前の傳來史をも調べなければならない。
次に、國語中の一の言語に他の種の言語から入る事は、一の方言から他の方言に入り、又或方言の語が標準語に入り、口語が文語に入り、文語が口語に入り、又古代語が後代の口語又は文語に入るなどいろ/\の場合がある。これも、その言語の入った時代を考へ、その語の形や意味を考へ、又、その事物の歴史やその言語に影響を及ぼした種々の社會的事情等を參照して、その入った徑路を考ふべきである。
次に語の絶滅について考へよう。これは語が用ゐられなくなる事であるが、これにも二種の場合がある。一は全くなくなってしまふのであって、これはこの事物そのものの絶滅又は廢止によるのが常である。一は、他の語によって代られるもので、その事物は猶つゞいてゐるが、之を表はした一の語が用ゐられなくなり他の語が代って用ゐられるのである。その代りに用ゐられるのは、新しく他の言語から入った語か、又は在來の語によって新に作られた語か、とにかく新しい語である事もあり、又在來の語である事もあるが、それは、前の語が絶滅した後に之に代るのではなく、新しい語が別に出來た爲、又は他の語が用ゐられた爲に前の語が不用に歸したか、又は、前の語が不適當になった爲に新な語が出來又は他の語が之に代るので、暫くの間でも前の語と後の語とが並び行はれてゐる時期があるものと考へられる。とにかく、或語が用ゐられなくなった事、及びその時代は、文獻上にあらはれない事、及びあらはれなくなった時代から推定する外ないのであるが、文獻の不足の爲に、たしかに知る事が出來ない場合は甚多いであらうが、出來るだけは調査しなければならない。さうして、その語がなくなった徑路や事情については、その語が音變化の結果他の語と同音になって混雑を生ずるとか、意味變化の結果同義語が出來て不用に歸したとかいふやうな、主としてその語自身に原因のある事もあらうし、又、他の新しい語が出來て、それの方が社會に好まれたといふやうな、外的事情による事もあらう。これ等も出來るだけ明かにすべきである。
國語の中の一種の言語では既に用ゐられなくなった語も、他の種の言語では永く用ゐられてゐる事もあるから、言語の種類について注意しなければならない。又、同じ言語の中でも、單語としては用ゐられなくなった語も複合語其他合成せられた語の成分として又は慣用語句中では、なほ後までも用ゐられる事がある。(「たかつき」「さかつき」の「つき」、「ぬかづく」の「ぬか」、「よさり」の「さり」、「なさぬ中」の「なす」、「かてて加へて」の「かて」「仇やおろか」の「おろか」など)。それ故、かやうな種類のものの中から、既に獨立して用ゐられた實例の見出されない古い時代の單語を見出すことも出來るわけである(但し、これは推定によるのであるから、幾分不確實である事を免れず、その形や意味も多少不足な場合があらう)。
以上述べたやうに、語は生じ又滅する。又その意味が變化する事がある。かやうな事は、之を用ゐた社會の事情や、その語によってあらはされる事物そのものに支配され、唯語だけでは説明出來ない事が少くない。それ故、社會事情や事物の變遷をも併せて研究しなければならない。
次へ
目次