九〇、新増韻鏡易解大全及び其の前後の諸註


 韻鏡開奩の次の時代を代表すべきは新増易解大全で有る。この書は一たび韻鏡易解として出したのを増補したものであるが、改版後五年にして再板して居るほど盛に行はれた。大して卓見の有る書では無いが博く手際よく纏めたからだらう。著者盛典は武藏國日出谷邑龍谷山の僧で、晩年には下野國佐野大聖院に居たらしい。
  韻鏡易解
  韻鏡字子列位
  新増韻鏡易解大全
  九弄和解
  倭語連聲集
  印判祕訣集
の六種を撰し、連聲集の序に七十二老沙門と署して居るから老いて愈々壯なりしを知られる。

 韻鏡易解が元祿四年(二三五一)に出てから二十八年(正徳四年「二三七四」、又享保三年「二三七八」再板)にして新増韻鏡易解大全が出て居る。新増といふのだから増補せられたは無論だが、其の内容も殆ど改められて易解の上卷本末が新増の卷三・四に、下卷本末が亦卷一・二に廻って居る。易解の序によると盛典の學は法印光榮に出で書中の玄微の説は皆師授だと有るが、韻鏡に洪字を出して紅字を出さぬは洪字が正律に協った爲(廣韻に洪戸公切と出して紅は其の字子、この場合何れに音切を附けるかは韻書を作る人の自由で其の字と字子との間に正律と否との相違は無い)だなどの僻説は誰に起ったらう。又文字の畫數によりて
 一畫−乾 二畫−兌 三畫−離 四畫−震 五畫−巽 六畫−坎 七畫−艮 八畫−坤 (八畫以上は八の倍數を引いた殘り)
などの奇説もある。

 韻鏡字子列位は、韻書を有たぬ者は韻鏡に出て居らぬ字の扱ひ方に困るから韻書によりて其の同音字を摘出したもので、毎轉を韻に、韻を同音に分ち、各字には極普通なる訓を附す。韻鏡易解六卷といふ時は此の二卷が其の末に附く。元祿十二年(二三五九)版。

 九弄和解は玉篇の尾にある九弄反紐圖を解したもので享保十五年(二三九〇)版、寛保元年(二四〇一)重校本。二卷に分れて上では「九弄反切の本體を究め定むる事」など八個、下では「雙聲疉韻を問決す事」など三個の題目を立てゝ説明し、梵文をも引用して居り、又十紐を更に増して十二紐と立てゝ居る。

 倭語連聲集は元文二年(二三九七)板行。先づ悉曇に連聲の法あるを述べて倭語にも亦之あるを證したもので直接に韻鏡には關して居らぬ。此く連聲に共通の事實あるを證せんとて和州室生寺の記に大日本國を大日ノ本國と點したるを擧げて大日尊の法身は此國に出興したまひ密法私通の爲に天竺に流行せられたのだと云っている。

 印判祕訣集は享保十七年(二三九二)に成りて後十二年にして出板せられた。この時盛典は既に九十四の高齡だったが此の出板を見たりや否や。首に釋迦如來親手の華判(は義淨三藏が取經の爲に渡天の際に得たものをわが建長寺の竺梵仙が摸印して傳へたもの)を出した後、三國に印判あるを云ひ、印判を區別して印は實名を彫刻せる著、判は陰陽の書印(花押)と佛家の四曼の形相とをいふものとし、七點六大を釋し、その作り樣や折紙の認方に及んで居る。蓋し盛典は連りに印度や悉曇を擔ぎ出すだけありて音韻に對しても一隻眼を有したりと見えて拗音にも左の進歩が有る。
 開奩  アイヤウワ イウヰ   ウイユ   エイエウエ ヲイヨウオ (異説略す)
 袖中抄 アイヤウワ イイヰウイ ウイユウウ エイエウエ ヲイヨウオ (この書のこと、下に)
 新増  アイヤウワ イイイウヰ ウイユウウ エイエウエ ヲイヨウオ
 そも/\韻學祕典韻鏡開奩韻鏡は人名の撰定に用ひらるゝやうに述べて居ることは上にも引いた。この觴を濫べるほどの水が滔々として天をも浸さんばかりになるとは誰も想像だにしなかった事だらう。蓋し好名を以て一生を祝福したいは人の常情だから、初は物ずきが有りて韻鏡に通じた人に其の撰定を請うた位だったらうが、之が世の流行となりて撰定の料金が提供せられるやうになれば韻鏡を扱ふことは賣トや冠附沓附の點者と同じく一種の體のよい職業となりて幾多の孔糞先生をして斯の道に進ましめたものと想像するも不可なからう。享保十一年に僧漣窩の韻鑑古義標注出でゝ名乘撰定を擯斥するまで正に一百年の間は韻鏡に關するあらゆる撰述は悉く名乘撰定に關するを或は名乘撰定を勿體づけるを奧義として張氏の序例に屋上に屋を架する解釋を下したものに過ぎぬので、盛典のは其の重なるもので有る。

 この間の末書で管見に及んだは、圖では
 寛永五年
 同十八年
 同廿一年
 正保二年
 慶安元年
 慶安元年仲秋
 明暦二年
 萬治三年
 寛文二年(大字韻鏡)
 寛文三年
 何十一年
 天和中
 貞享二年(校正韻鏡)
 元祿九再板
 貞享二年孟春
 同四年(合類韻鏡)
 同年中秋
 元祿六年
 同十年
 同十二年(歸元韻鏡)
 享保元年(考定韻鏡)
の二十種(韻鏡考には尚元祿九年の一種有り)その他では
 天靈の韻鏡集解
 小龜益英の韻鏡祕事
 牧野重長の韻鏡頓悟集
 小龜益英の九弄指南抄
 太田嘉方の韻鏡反切指南抄
 周海の韻鏡反切指要
 小龜益英の韻鏡祕録(この書の序に益英には韻鏡諺解大成六卷の著も有ると見ゆるが、磨光韻鏡餘論には小森益奧の諺解四卷とあり、近頃の鹿田松雲堂の書目にも同じい)
 作者未詳の韻鏡遮中抄(靜嘉堂文庫に韻鏡遮中抄諺解といふが有るが内容は本書と同じい)
 西村重慶の韻鏡問答抄
 盛典の韻鏡易解
 毛利貞齋の韻鏡祕訣袖中抄 附愚蒙記
 盛典の韻鏡字子列位
 藤原尚〓の韻鏡祕訣
 韻鏡詳説大全
 韻鏡詳解評林
 鷲崎正親の韻鏡清濁辨音鈔
 弘湍幽閑の聲韻正譌發明韻鏡備考大成
 同の韻鏡和漢二流指南目録
 馬場信武の韻鏡諸抄大成
 盛典の新増韻鏡易解大全享保三再板
 ○○蕃正の韻學資講
 岡島道高の韻鏡井蛙抄
 韻鏡傳抄
 韻學捷徑切韻纂要
 韻鏡袖中祕傳抄
の二十七種の多きに上る。前者には亦韻鏡考を引くと
 寛永五年本 第廿七轉、卅八轉の合を開に改め又十六攝を〓入して各轉に分配す。爾後寛永十八年刊本を除きては之を載せざるなく、今人其の固有に非ざるを知る者なし。卷未に指微韻鑑と題し、卷首に五音五位之次第の七字を題して五十音并に拗音及び唇舌牙齒喉の歌を載す。
 (補)春村按ずるにこの本は小本にて序列に傍譯を施したるは此本を始とす。

 寛永十八年本 寛永五年本が妄に古本を改めたるが故に享祿本を重刊して舊觀に復せしなり。但し卷首は五年本に從ふ。
 (補)春村按ずるにこの本享祿本の重刊にはあらず。その原版を傳來して跋文の次に梓行の年月氏名を増刻せしのみ(愼吾いふ昭和四年九月野田松雲堂よりも覆製發行せらる)。

 寛永二十一年本 寛永五年本に依る。卷末に指微韻鑑と題せず。

(補)春村按ずるに此本は寛永五年の小本を翻刻せしのみにて、寛永五年云々を改めて時寛永廿一年云々と更めたるのみなり。

正保本 寛永五年本に依る。卷未に指微韻鑑と題す。

慶安元年仲秋 同文  (補)春村按ずるに此本は寛永五年の原板を傳へて時寛永云々を削り慶安元年云々を彫添しのみなり。

慶安元年本 寛永五年本に依れども序例の行數字數異なり。

明暦本 寛永十八年本に依れども序例に傍譯あると本文に十六攝有るとは異なり。
 (補)春村按ずるに凡ては享祿本の模刻にて跋文の次に明暦二丙申初吉祥日とあり、但書肆の名字を載せず。

萬治本 正保本と同文(愼吾いふ頭書韻鏡に收むる所にして四十三圖が上中下の三卷に分載せられたるは他と趣を異にする)。

寛文二年本 明暦本に依る、但し文字の位置、舊本に同じからす。
 (補)春村按ずるに享祿本の模刻にて十六攝を加へたると寛文の刻記を加へたるのみ原本に異なり。

寛文三年本 萬治本に依る。但し上層に同カの字を載せて之を字子と謂ふ。

同 十一年本 太田嘉方の訂す所、開卷に訂正韻鏡と題す。各轉の開合を改むる多く又開發收閉の四等を圖面に分排す。

天和本 二年の板、校正韻鏡と題す。寛文十一年を藍本となせる故に開合の誤全く同じ。

貞享二年本 字子有ること寛文三年本と相似たり、校正韻鏡と題し、自跋ありて洛陽住西村重慶と題せり。
(補)春村按ずるに此本大抵寛文十一年本に似て偶々享祿本七音略を以て補ひ又私意を以て増加せる多し。又第三十三、第三十四轉の標韻の位置を更めたるは此本ぞ始なる(愼吾いふ古本は第二、三、四等に亘りて庚清の二韻を標せしを、此本は庚清々「上去入も同じ」とせるを云ふ)。

同 四年本 合類韻鏡と題して三十六字母を以て各轉に分排す。自序ありて鸞鏡子重慶と題す。
 (補)春村按ずるに此本は貞享二年本と全く同人の手澤なれば其體我こそ同じからね凡で異なる事なし。増損異同一百字あると切韻指南に倣ひて各轉に通廣偏狹の四門を分排せしとのみ異なり(愼吾按ずるに圖の各字の右に音、左に訓、下に熟語を下し、かくて圖の幅員廣くなった爲か字子を出さぬ)。

元祿六年本 天和本に依りて校正韻鏡と題す。

同 九年本 天和本に依る、但し序列の科段を分別す(愼吾按ずるに此の圖は各字には音訓を付せずして韻字の右(漢音)左(呉音)にのみ附音)。

同 十年本 五百字増補と題す。序例なし。

元祿十四年本 韻鏡詳説大全の中に載する所。詳説大全未見。

享保元年本 天和本に依る。考正韻鏡と題す。

  (愼吾いふ以上十八種。貞享二年孟春、同四年仲春、元祿十二年の三種は考に缺けて元祿九年の一種は多い)。
と有り、後者の若干について管見を述ぶれば

頭書韻鏡 この圖は萬治本として既に出されたる所。三册を表紙には天地人と標し、板心は上中下とせり。圖を二張の中央に出して其の上、右、左の餘白に字子を出し、その多き時は二張に亘るもあり、字子には音を付し徃々訓をも付し、又第十五轉等の數轉には借音を出して居る。

韻鏡祕事 美濃ニツ切二册 一には新板/韻鏡祕事乾 寛文九己酉歳九月吉日 小龜氏市工師益英作、一には新板/韻鏡祕事大全坤、寛文十年菊月吉目益英述之とあり。乾にはカナ兵ヒミツノ事、横本ト安云ヒミツノ事、豎末トイフ祕ミツノ字の如く毎條祕密と標すれど、すべて普通に扱ふ題目のみ。

韻鏡頓悟集 牧野重長の述、寛文十年(二三三〇)刊。全部漢文にて記されて私は靜嘉堂文庫で一讀した。三十六字母配位、五音、七音、清濁、四聲四等、單複行、輕重之事に始まりて六對十二反切などの諸項、必ずしも頓悟をまたぬ。又標注には開奩、切要抄、遮中抄を引いて有るが遮中抄は之よりも晩出だから後人の加へたもの、但し之によりて切要抄の無絃が淨土宗僧と知られると文雄を聯想する。

韻鏡反切指南抄 神宮文庫に存して清水吸月堂(處を記さず)寛文十一年(二三三一)の新刊、三本。いづれも表題には韻鏡指南抄とあれど序文には廣韻指南抄、または廣韻反切指南抄と標して一樣ならす。上卷は反切例を出したる後張氏の序例を解し、中卷は四十三轉に亘りて各字の反切を出し、下卷は訂正韻鏡を收めたるが音韻日月燈によりて竄改する所多い。太田嘉方の著だから、韻鏡だけ引き離して出したが所謂寛文十一年本で有る。

韻鏡反切指要 半紙一ツ切の小本にて三卷が二册。序文によれば著者周海は安藝の人で眞宗隆向寺の僧である。上卷には六對十二反切を、中卷には人名反切を、下卷には直音拗音を主として述べ、上卷には連りに切韻指掌圖を引いて居る。寛文十三年(二三三三)刊。

韻鏡祕録 延寶八年(二三四〇)の冩本一卷、靜嘉堂に存する。序によると同著の韻鏡諺解大成を見て未明の點が有るので詰問すると極祕とて示されたのが此書と有る。小龜氏に祕の字は不可分らしい。字ヲ切スコト、反切字ヲ取ルベキ子細ノ事、名乘反切子細ノ事などの題目で、寛文十三年四月中旬に雷の音を反切したとて大祕事口傳と有る、いかにも筆紙には盡されまい。

韻鏡遮中鈔 現行本にては作者が分らぬが、韻鏡反切指南抄に此書も亦太田嘉方の著だと有る。此書の題簽にも重鐫/韻鏡遮中抄と有るは或は初は指南抄と相竝んで遮中抄が有り、其の再刻が此なるか。五卷より成りて第一卷は張氏の序列を解し、第二・三・四卷は圖を出せるが重鐫/頭書韻鏡と題せるも著く萬治本と同じく、第五卷は諺解追加と標して六書八體を出し各轉の追加字八百六十五字を收めて居る。此書には發行書肆名の有ると無きとの二版あり、又靜嘉堂文庫には遮中鈔諺解といふも有る。諺解は内容遮中鈔と同じきが順序は先後して居る。貞享四年(二三四七)の刊。

韻鏡問答鈔 この書の圖は貞享四年本として既に出されたる所。鈔の前半は韻鏡ハ何爲ニカ作ルヤ、韻鏡ハ何人ノ作ゾヤなどの問に答ふる體に述べて反切門法に及び、後半は張氏の序列を解して居る。

韻鏡祕訣袖中抄 五本より成りて元祿八年(二三五五)の刊。第一は反切至要、第二は名乘字大全、第三は字子集、第四は序例の解、第五は圖を收めて居る。而して圖は玄徴韻鏡と題し「配位の差誤を訂し定位の缺闕を補ふ」とあるのだから古に忠實で無いを知るに餘ある。

韻鏡祕訣 これも靜嘉堂文庫所藏、足利學校流韻傳の藤原尚晶の著とあるを見ると當時は韻鏡にも諸流有ったのか。元祿十三年(二三六〇)の寫本三卷、中卷は韻鏡諸相傳、下卷は韻鏡奧理傳授を收めるとして、中卷には假名切祕傳、十二反切之法など、下卷には韻鏡名乘字の相傳や九弄など、而して上卷のは中卷の初稿ともいふべきもので異なった内容では無い。

韻鏡詳解評林 美濃版大本五册、元祿十五年九月 二條通御幸町西へ入町山岡四郎兵衞の開板なるが編著者の名氏を出さず。凡例に四十三韻頭の字が東に始まりて登に終るは日、東方に出でゝ中天に登れば上天下地惡く明白となるの意だと有るに先魂消る。卷一は序列の解、卷二は五處三内に始まりて名乘字を定むる法より折紙の認方、卷三には九弄十紐圖として慈覺大師將來のを出して玉篇の九弄圖を訂し、卷四・五には各轉の圖を出して圖外に字子を出すも舊本と同じい。

韻鏡清濁辨音抄 鷲崎正親の著で元祿十六年の刊行、二本。首に直拗音圖を出して梵字を插んだは珍。次に張氏の序列を解したが上卷、下卷は五音清濁配合七音清濁之圖と標して史記の律書を引きて述ぶる所あり、又四十三轉の文字を出して音と行とを註したはよりて以て清濁を辨する意だらうが、其は圖面を一見すれば知らるゝ事だ。反切の例は諸抄に讓りて論ぜぬとて之に觸れぬ點が此の書唯一の新味だ。而も元祿の昔に於て著者自ら之を豐宮崎文庫に獻納したのは其の得意の作だ。

聲韻正譌發明韻鏡備考大成 寫本、不分卷、靜嘉堂文庫に藏せられる。弘湍幽閑の傳を門人佐治泰忠の述べた者、幽閑は若くして長崎に在る三十年、江戸に出て八十五歳で鎌倉に隱栖して程なく死んだは寶永の初と云はれ、泰忠は其の八十三の時の入門。司馬温公切韻指事圖十二反切、梁沈約九弄十紐、三十六字母指掌圖、三十六字母分數之圖・九弄反紐圖の五部より成るが、流石に韻鏡備考とあるだけに張氏の序列は解せぬ。

韻鏡和漢二流指南目録 寫本一卷亦靜嘉堂文庫の藏。弘湍幽閑の輯むる所、日本流十二反切相傳として反切の本文を出して名乘の選び方に及び、唐流口傳として字彙末卷の音圖横圖に觸れて居る。

韻鏡諸抄大成 馬場信武の著で寛永二年(二三六五)の刊。毛利貞齋の祕訣袖中抄と倶に流布せること新増易解大全に亞いだもの。卷一・三は本末に分れたれば七卷といふとも九卷。卷一には張氏の序列、卷二には各轉の圖、卷三は十二反切、卷四は假名反切、卷五は九弄などの解説、卷六には脣音三位輕重の事より和風假名に及びて其中に名乘字のこともあり、卷七は和語法訣とあるが一種の語源説ともいふべきものだ。

韻學資講 寫本一卷、神宮文庫の藏。□□蕃正が天明五年に筆する所だが享保中(二三七六−)石尾丈助の傳だと有るから此處に序でる。韻鏡序例の摘解や音注例や名乘反切や反切十二例など、その中の呉音例推考に同段の文字には同じき假名を附した表を出して居るは卓見だが石尾氏の看破した所だらうか、後に寫した時に取入れられたものか。

韻鏡井蛙抄 何羨子岡島道高の著で享保五年(二三八〇)の刊、三十葉よりなる小册子。

韻鏡傳鈔 寫本一卷、帝國圖書館に藏せられる。内題とても無いから書名も假に附したのだらう。輕重の事から始まって四聲の事に終って居るが、袖中抄や諸抄大成を引くのみで何の發明も無い。

韻學捷徑切韻纂要 寫本二卷、淺草文庫の舊藏で今は内閣文庫。西村重慶の求源抄磨光韻鏡餘論による、未見)や諸抄大成を引いて居るから今こゝに序でる。上卷には聲音の源・五十字の起り附梵漢字などの題目を立てゝ之を説き・下卷は全く十二反切を述べて居る。三十六字母から知徹澄孃を除いて居るも韻會あたりの影響。書中徃々韻學私言と仲敬の説(ともに漢文)とを引くが今その存否を知らぬ。

韻鏡袖中祕傳抄 韻鏡考補(白井寛蔭)に「此本十卷作者及年月書肆の名等も記さざれば何時ばかりの物とも決め難きに似たれど其説大抵易解に據りて頗る密なり、故易解より後磨光より前なるものなるべく思はる。又按るに享保十一年本よりも猶前なるべく思はれずしもあらず」と有るものだが、私は奧附に京御幸町御池下ル町 菱屋孫兵衞板と署したものを見た。卷一−四には張氏の調韻指微から列圖まで、卷五・六には六對十二反切から九弄反紐までを釋す。こゝで「祕府論に九弄圖を載するを見れば圓仁相傳へて歸れりといふは謬なり」と有るが、さる祕府論が存するだらうか。卷七には反切三朝古例より人名反切、卷八には庵號、軒號、齋號反切を述べたが、こゝで字音の輕重異なれば假名遣の異なること、大學の經文によりて四聲異なる爲に義の異なるを述べたは頗る推稱すべきだ。名乘字大全もこゝに有りて先イロハ別の索引を出し次に各轉に分ちて其の字を出し音訓を付し且篆體さへも左に書き、卷九十は字子集で之も四聲に分ちて四段に重ねたは其の創意だ。韻鏡にて經傳の讚にふれた點が古義標注と何れを先にすべきかは吾人に遺された問題とすべきだ。

 神宮文庫に韻鏡字彙といふが有りて(刊年も刊所も無し)四段に分ちて畫數順に字を出し其の肩に轉數迄も註す。「韻鏡反切の法は遮中抄指南抄に委細に記すが故に」「今集むる所は頭書韻鏡字子を以て」とあるは太田嘉方の撰かとも思はれるが、其にしては其の體裁が此の書まで採用せられぬも怪しいやうだ。

 磨光韻鏡餘論には「註疏の梗概を示す」とて上に收めぬものに猶
  指微韻鏡抄五卷
  太田嘉方の頭書増補五卷
  小龜益奧の相傳書二卷(同人の祕事大成二卷とも有る。祕事大全ならば益英の作たるべきに)
  湯淺重慶の求源鈔五卷
  岡玉摩の歸元韻鏡四卷
  辻氏の揚明鈔四卷
  宗雅の祕傳抄
  天靈の翻抄五卷
  便蒙抄一卷
  立石氏の諺解一卷
  井上松齋の見妖解四卷
  中根元珪が明解四卷密存(流布少きの意か)
  訂正韻鏡
  改正―−
  袖珍−−
  唐本−− 以上四種は本圖
すべて十七種を擧げて居るから、上來述べた盛典の六種、私の述べた圖二十一種(二十二種の中、歸元韻鏡を除いて)末書二十四種(二十七種の中、盛典の三種を除いて)を通算すると六十八種に上りて汗牛充棟の語もふさはしい。而も其の内容の殆ど何等の新味を有せぬには吾人も呆然として筆を抛たざるを得ぬ。

 且又時代は移ったとて此種の物は忽ちにして迹を絶ったのでは無く、
  河合元の韻鏡調(同作の但馬湯島道之記は享保十三年の著)
  僧尊慧の韻鏡解綱目
  松平正般の音韻闡祕抄
  僧圓貞の韻鏡造〓抄
  韻鏡表白
  韻鏡反切傳
  吉田才の指微韻鏡索隱管見抄
の七種は名乘反切に觸れて居るから亦こゝに述べる。

韻鏡調一本、全部漢文、出板年月も書肆名も無い。東カ行西サ行南タ行北ハ行(方音二十)東南ラ行東北アヤワ行丙北マ行西南ナ行(隅音二十四はラマナ十行十五字とアヤワ三行九字)といふ珍圖を出し、和語八法とて
  自語  上古よりの成語にて其義の如何を知らぬもの
  轉語  高が竹、黒が鳥となる類
  略語  寒エルが氷、文出が筆の類
  借語  日が火に、天が雨になる類
  義語  諸越が唐、息生が勢となる類
  反語  ハタオリを反しくて服部、カレを反して故の額
  子語  日を母として〓、月を母として朔を生する類
  音語  菊、桔梗は呉音、杏子石灰は華音、尼斑頭は梵語
と擧げ、著者の得意とした所と見えて天地、時、山木、鳥獸などの十類を立てゝ其の説明を下して居る。以上は韻鏡には遠いものだが、猶三十六字母助紐や名乘の書方に及んで居る。

 韻鏡圖解綱目二本は首には元祿十五年の序、後には享保七年(この間廿一年)の次序が有る。字母括要圖、雙聲疊韻、寄聲等を釋し、韻鏡諱字編とて七聲四等に配した諱字の義を出し、五音生起并拗直開合問答や十二反切の圖や四十三轉が之に次ぐ。著者尊慧は武藏國菖蒲縣の人。書中、集押字の處に、此は弟子尚晶の手に成った趣が見えるが元祿十三年に韻鏡祕訣(前出)を著した藤原尚〓と異同いかゞ。

 音韻闡祕抄は寫本七卷、帝國圖書館の藏。福井藩の家老松平主馬源正般の寛保元年(二四〇一)の撰。主馬は音韻の學を好んだが敦賀の人妙國寺十三世日念上人が尾張黒田の隱士日相和尚に謁して其の道を窮めたに遇ひて己も亦蘊奧に達して此の書を成した。序例篇、假名反三篇六十五條、十二切篇二十八條、九弄篇八條、雜篇(名乘反切の事まで)五十一條、悉曇篇三十一條、祕訣篇の各篇が一卷づゝとなりて該備なものだが其の内容は平凡なものだ。今や託する所を得て千載に傳はるは慶すべきだが、是も〓袴の子弟としては殊勝な心掛だったのに報じる天の攝理だらう。祕訣篇には祕中之祕十一條深祕三條極祕一條さへ有る。

 韻鏡造〓鈔、寫本一卷、靜嘉堂文庫の藏。それには撰者の名を存せぬが、今は磨光餘論に從って圓貞の作とする。韻鏡考補(白井寛蔭)に「大抵易解に依れども易解の如き迂遠の文にはあらで書取り樣はるかに勝りて初學にも會得し易き文章なり。卷中さらに磨光の論見えず」と有るもので、開奩、祕事大全、頓悟抄、指南易解、避中抄、求源抄、問答抄、詳解評林、諸抄大成、袖中祕傳抄、翻抄、見妖解、井蛙抄などを引けば其の博覽の程も知られるが、但し其の内容や隨波逐浪の見。

 韻鏡表白、寫本一册、帝國圖書館の藏。卷尾に大和八尾にて瀬尾兼常の傳と有るが筆受した人は分らぬ。人名反切、名乘書き樣などの目が有る。

 韻鏡反切傳 寫本一卷、靜嘉堂文庫藏で天明四年に釋了快の寫す所。前半は三十六字母や十二反切や通韻について述べ、後半は智積院亮範の傳とことわりて人の五性と字の五行と比和する吉凶などから始めて居る。

 指微韻鏡素隱管見鈔は延寶二年の寫本で神宮文庫の藏。全部漢文で徃々益英の祕事大全を引きて名乘反切にも及んで居る。


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