篠窯跡群の概要と阪大の調査

篠窯跡群とは

現在の京都府亀岡市篠町、かつての丹波国南部(口丹波)に所在する篠窯跡群は、奈良・平安時代頃に焼物を焼いた窯が密集する地域として知られており、窯の総数は百数十基にも上ると推測されています。

 この篠窯では、須恵器と名付けられている青灰色で無釉の焼物(写真)や、緑釉陶器と呼ばれるように緑色の釉薬が施された高級な陶器(写真)、さらには屋根に葺かれる瓦類などが焼かれていました。
    
         須恵器           緑釉陶器
 特に平安時代には、日本を代表する焼物の産地となり、篠窯で生産された須恵器や緑釉陶器は、平安京を始めとして、北は宮城県の多賀城付近から、南は宮崎県辺りまでと、実に全国各地へと供給されていたことで、つとに有名です。また、藤原道長が造営した法成寺には、緑釉が施された瓦も供給しており、篠窯の繁栄ぶりがうかがえます。

篠窯跡群のこれまでの調査

この篠窯跡群の存在は、古くから知られていましたが、1954年(昭和29)には砂防工事に伴い三軒家南1号窯(王子A号瓦窯)の発掘調査がなされています。この成果と平安京での調査が相俟って、丹波篠窯から平安京へ瓦を供給していることが明らかになりました。

1976年(昭和51年)には、国道9号線バイパス、現在の京都縦貫自動車道の建設に伴って、京都府教育委員会、財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センターにより、発掘調査が行なわれました。とりわけ、平安時代の須恵器窯が多数確認され、これまで知られていなかった、緑釉陶器などを焼く特殊な小型の窯なども新たに発見されたため、篠窯の重要性がさらに認識されるようになりました。

 上記以外にも、「篠古窯跡研究会」(永田信一氏代表)や亀岡市教育委員会による分布調査が行なわれており、近年では、立命館大学文学部歴史考古学ゼミ(篠窯跡群踏査研究会)が精力的に篠窯跡群などの踏査を進めています。篠窯跡群の実態も、徐々に明らかになりつつあります。

大阪大学による調査の経緯

大阪大学では、2003年から、主に『須恵器生産における古代から中世への変質過程の研究』に対して与えられた科学研究費補助金をもとに、考古学研究室の調査研究ならびに大学教育活動の一環として、この篠窯跡群の実態をより詳しく解明するために、本格的な調査に着手しました。

日本の古代から中世への変遷をたどる上で、焼物は最も普遍的な出土遺物であり、また須恵器などの窯業生産物を考える上では、当時の有数の窯業生産地である篠窯を抜きに語ることはできません。ところが、この篠窯については、近年の立命館大学による調査があるものの、京都府などによる発掘調査以来、必ずしも研究が進んでいるわけではなく、いまだ十分に解明されていない点も少なくありません。そのため、阪大では、関係各所のご協力のもとで、この篠窯を主なフィールドとして、上記の研究を進めることにしました。

 まず2003年には、8月から9月にかけて、窯跡の分布調査を行い、大谷3号窯などいくつかの窯の存在を確認し、遺物の表面採集などを行ないました(写真)。また、翌2004年3月には、大谷3号窯付近の地形測量を行い、崖面に露出した灰原や窯体の一部なども記録しました(写真)。また、大谷2号窯など付近の窯跡でも須恵器を採集し、新たな情報を得ています。
     
         表面採集風景       壁面に露出している須恵器
           
                 2004年測量調査隊
               (上の3写真:阪大撮影)
大谷三号窯発掘調査の目的

阪大による2003年度までの調査を踏まえ、2004年度から大谷3号窯ならびにその周辺を主要な調査地として取り上げ発掘調査を行うことにしました。その主な理由は、以下の通りです。

1.発掘調査の不十分な地域の実態調査

京都府などによる発掘調査は、京都縦貫自動車道の建設に伴うため、篠でも南側の丘陵部に立地する窯のみが調査されています。分布調査でも、鵜ノ川北岸地域は十分には調査が進んでいません。篠窯の実態解明のために、鵜ノ川北岸は残された重要地域です。

2.生産内容が不分明な時期に操業された窯の実態把握

 篠窯跡の発掘調査では、各時期の窯が検出されていますが、大谷3号窯が操業したとみられる時期の窯については、あまり調査がなされていません。そのため、大谷3号窯の本格的な調査によって、この時期の篠窯の実態がより明確になる可能性があります。

3.緑釉陶器技術の導入過程の解明

 大谷3号窯付近では、亀岡市の分布調査でも、阪大による表面採集でも緑釉陶器の破片を採集しています。この付近に緑釉陶器窯があったことはほぼ間違いなく、篠窯の中では、最も古い段階での緑釉陶器窯の可能性があるので、発掘などの本格調査によって、その性格が判明するものと期待できます。

4.工房関連遺構との一体的な関係の把握

大谷3号窯付近の採集遺物には、土師器の羽釜などが含まれていたので、付近に工房関連の施設が存在した可能性があります。須恵器のための窖窯や緑釉陶器の焼成窯、さらには工房など一連の遺構が存在するとすれば、窯業生産把握の上で好適地となります。

2004年度の調査

 2004年度の夏季調査では、大谷3号窯ならびにその付近において、科学的地下探査による調査ならびに発掘調査を行いました。地下探査に当たっては、兵庫県教育委員会のご協力を仰ぎました。 

2004
年度の主な調査成果は以下の通り。(詳しくは2004現地説明会資料を参照ください。)

1 従来知られていた窯1基に加えて、新たに窯1基を確認

発掘調査の結果、従来から窯体が露出していた窯1基(大谷3‐1号窯、仮称)に加えて、その北側に新たに窯1基(大谷3‐2号窯、仮称)が発見された。主な遺物をみる限りでは、大谷3‐1号窯と大谷3‐2号窯では操業の時期差はほとんどなく、9世紀末頃と推測される。

2 大谷3号窯では、須恵器に加えて緑釉陶器を焼成していたことが判明

  緑釉陶器窯は、愛知県・岐阜県・滋賀県・京都府・山口県など全国でも限定した地域のみに認められる。実際に緑釉が施された陶器片が出土し、その窯体が発掘調査されているのは、全国でも40基に満たない程度であり、本例は貴重な発掘事例となる。篠窯跡群のなかでみると、確実に緑釉陶器が出土したのは、前山2・3号窯、黒岩1号窯、西長尾5号窯のみで、今回の例が5例目となる。

3 緑釉陶器の焼成に用いられた窯道具である三叉トチンが、丹波(篠窯)で初めて出土

  三叉トチンとは、施釉陶器を重ねて焼くときに、釉によって重ねた個体どうしが溶着しないように、間にかました道具であり、3方向に足が伸びた形状を示す。この大谷3号窯で出土した三叉トチンには、ごくわずかながら緑釉が付着しているため、実際に緑釉陶器生産に用いられて廃棄されたものであることがわかる。この三叉トチンは篠窯跡群では初めての出土例である。これによって、丹波でもその緑釉陶器生産が開始された初期の段階では、三叉トチンを用いる技術を導入されていたことになる。篠では緑釉陶器の後半段階に生産を開始したため、三叉トチンは用いられていないと考えられがちであったが、その点は史実として訂正されるべきことが明らかになった。

4 大谷3号窯は、篠窯最古の緑釉陶器(須恵器併焼)窯であることが判明

  これまで篠窯で確実な最古の緑釉陶器窯は10世紀前半頃の前山2・3号窯であったが、この大谷3号窯は9世紀末には操業が遡るため、篠窯では最古の緑釉陶器(須恵器併焼)窯ということが明らかとなった。丹波(現在の京都府中部)における緑釉陶器生産の成立過程を考える上での新知見である。

このほか、分布調査の成果であるが、篠窯跡群最古段階の須恵器窯(大谷2号窯)も確認している。

2005年度の調査計画

 1.窯の精査ならびに完掘

 
昨年度に検出した2基の窯については、今年度、全面的に発掘を行い、その規 模や構造を解明したい。また、窯体の精査によって、窯の構築方法、窯詰め方法などを復原する手がかりも得たい。調査の進行度にもよるが、さらに時間があるならば、昨年調査した崖面灰原と窯体との関係を明確化し、窯の操業順序の確定なども目指したい。

2.窯周辺地の試掘

昨年度におこなった科学的地下探査による成果に基づき、崖下地点2箇所に磁気異常の箇所が認められるため、その地点をトレンチ調査し、窯あるいは作業関連施設の有無などを確認したい。

 
言うまでもありませんが、以上は調査前での計画でありますので、調査の進展に伴って、その都度、調査方針を検討していきたいと思います。

<謝辞ならびに協力依頼>

最後になりましたが、本調査に当たっては、京都府教育委員会、亀岡市教育委員会、篠町篠区自治会を始め、土地地権者など多くの方々のご協力を受けています。ここに厚く御礼申し上げますとともに、関係各位におかれましては、今後とも本調査へのご理解・ご協力をお願いいたします。

《参考文献》
(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター 1984 『焼きもののふる里 篠窯跡群−発掘調査の記録から−』
篠大谷3号窯