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タイトル:Web版川西の遺跡

川西歴史三題

平野鉱泉

わが国最初の飲料水工場 能勢電平野駅下車北へ徒歩5分

昭和初期の工場内部(写真:アサヒビール)
昭和初期の工場内部(写真:アサヒビール)
平野駅北部一帯には、かつて東洋一の規模といわれた清涼飲料水工場がありました。現在はホームセンターの店舗となっていますが、工場の建物の一部、あるいは水源地等は姿をとどめています。

平野には、江戸中期にあたる寛永10年(1798)の『摂津名所図絵』に見られる温泉があり、多田温泉平野の湯として知られていました。しかし、江戸末期の大火災以後はさびれてしまいました。

明治に入り、政府は欧米の新しい技術を取り入れるために、多数の外国人技術者を招きました。彼らは「お雇い外国人」と呼ばれ、明治の前半を中心に技術指導に尽力し、同時に欧米の生活習慣も我国に紹介しました。その中に、洋酒をミネラルウォーターで割って飲むというものがあり、清涼飲料水や炭酸水の需要が高まりました。

サイダーの素
旧平野分工場内に今も湧き出る源泉は、炭酸ガスと鉄分を含む無色無臭透明のアルカリ食塩泉です。サイダー製造に不可欠な炭酸ガスは、この鉱泉より抽出してボンベに詰めていました。今日では、ビール製造過程で発生する炭酸ガスを使っています。
明治14年(1881)イギリスの理学博士のガラン氏により飲料用に適することを発見された平野の鉱泉は、一躍注目を集めることになり、明治17年我国最初の飲料水工場として誕生しました。当初は経営が軌道にのらず、幾多の変遷を経た後、明治40年に帝国鉱泉株式会社が設立され、ようやく安定しました。当時の製品は無色透明の炭酸飲料平野水、炭酸飲料水にシロップを加えた平野シャンペンサイダーなどがありました。ちなみに、昭和57年市内栄根遺跡から発掘されたガラス瓶が、最近の調査で、ちょうどこの当時のミネラルウオーターの瓶であることがわかりました。この瓶が出土したあたりは、当時、鉄道貨物倉庫があったところで、国鉄「川西池田」駅に運ばれた飲料水製品が出荷されていました。

大正時代になると、エ場の経営は帝国鉱泉から日本麦酒鉱泉へと移りました。大正2年能勢口から一の鳥居まで能勢電気軌道が開通し、その電動貨車によって製品が運ばれるようになりました。大正の中頃にはエ場の規模は最大となり、年間1920万本の製品を出荷しています。

年々需要は拡大するのに対し、山間部に立地する平野工場は、規模の拡張ができず、他の新設工場にその主力の座をあけわたすことになります。昭和に入り、それでも生産を続けていた平野工場は、昭和29年8月、サイダーの製造を中止、昭和42年には炭酸ガスの製造も中止して、長い工場の歴史にピリオドを打ちました。

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