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Web版川西の遺跡

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タイトル:Web版川西の遺跡

川西市の遺跡紹介

蓮源寺遺跡

写真:蓮源寺遺跡の発掘区
蓮源寺遺跡の発掘区
池田との境界に連なる山並みのそのふもと、多田盆地を見わたせる丘陵上に蓮源寺遺跡があります。今では多田東小学校の下に静かに眠っています。

まだ幾度かの発掘調査のみで、全体は明らかになっていませんが、この地の中世の歴史や生活などを知るためには大へん重要な遺跡となっています。遺跡のある場所から西へ約2キロの地点には多田神社があります。おそらく、この間には源氏の祖満仲の館をはじめ、一族郎等の屋敷があったものと思われます。蓮源寺遺跡も、これら武士団の居住跡ではないかと考えられています。

発掘調査では柱穴が多数発見され、鎌倉時代の掘立柱の建物が建っていたものと思われます。また、地面を少し方形に掘下げた、細い柱をもつ建物も見つかっています。この建物の性格と用途は明らかではありませんが、馬屋的なものを想定することもできます。このほか内部に人頭大の石が配石された土壙もありました。

出土した遺物をみてみると、日常生活で使われた瓦器といわれる土器、備前焼の甕などが多数出土しています。また、少量ですが中国製の青磁や鉄製の刀の断片が出土しています。

蓮源寺遺跡は丘陵上に所在する中世集落ですが、水田などとは離れたところになぜ集落を造ったのでしょうか。

このあたりは、源氏その一族郎等の中心地でした。鎌倉時代になって、多田院(現在の多田神社)の守護として多田院御家人が形成されます。多田院御家人は、盛衰はあるものの江戸時代まで続きました。日本史上でも特異な存在といえるでしよう。蓮源寺遺跡も多田院御家人をはじめ、武士団の集落であったと思われます。戦闘集団として、平地ではなく丘陵上に防禦を兼ねた居住地を求めたのでしょう。ただし戦国期の山城のように、城郭施設は有していません。また社会の状況も戦国期とは違い、その必要はなかったのです。この頃の武士団の集落や生活などは、まだ充分に解明されていません。蓮源寺遺跡は、これらを知る上で大へん重要なてがかりとなるでしょう。
能勢電鉄多田駅下車東に徒歩15分

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