勝福寺古墳発掘調査2003    

中高生の皆さんへ
古墳時代とは?勝福寺古墳とは?
今回の発掘調査の目的を分かりやすく紹介します。


古墳時代とは

3世紀中頃、女王卑弥呼が亡くなったとされる頃、近畿地方の大和(奈良県)を中心に、瀬戸内海沿岸にかけて前方後円墳という「かぎ穴」に似た形をもつ巨大な墓(古墳)が造られるようになりました。
古墳時代の始まりです。

前方後円墳は、弥生時代の墓に比べて、巨大であるばかりではありません。形や大きさ、そして棺の収め方や、お葬式のまつりの仕方も統一されるようになります。
また、古墳の形には、右図のように、前方後円墳のほかに、前方後方墳、円墳、方墳などの種類があり、この形と、大きさを組み合わせることで、葬られた人の身分や立場を示すことができます。

古墳の階層性

図1 古墳のランク概念図

これらの古墳造りの決まりごとを定めたのが、大和を中心とした有力者(豪族)たちの連合である大和政権です。
5世紀になると鹿児島県から岩手県まで、
全国各地に前方後円墳が造られるようになる一方、大和政権の中心の一つである河内(大阪府)には、全長400mを超す巨大な前方後円墳が造られ、大和政権の王である大王は、ますますその力を強めたと考えられます。


図2 前方後円墳

今回、大阪大学が調査をする勝福寺古墳は、これに続く6世紀初めに造られた前方後円墳です。次の章で触れますが、ここに葬られた豪族は、この頃の大王の動きと密接な関係にあったとされます

さて、6世紀の後半になると、古墳は大きなものばかりでなく、直径10m程度の小さな古墳が、山の麓や谷間に集まって、造られるようになります(群集墳)。何世代もの家族が葬られ、日本の古墳の8、9割を占めるこれらの群集墳は、有力者のあかしである古墳が、より身分の低い人にも造ることが許されたということとともに、大和政権の力が、そうした階層にまで、及ぶようになったことを示します。

聖徳太子が推古天皇の摂政となる7世紀になると、古墳はなお造られるものの、前方後円墳は造られなくなります。
蘇我氏や聖徳太子によって飛鳥寺や法隆寺が造られたように、古墳のまつりのかわりに、仏教のまつりに力が注がれるようになってきたのです。


図3 聖徳太子

そして710年、元明天皇は唐(中国)にならって壮大な平城京を造り、都を移します。一方、最後まで造られていた、貴族の古墳は同じ頃に姿を消し、時代は奈良時代へと変わります。古墳によって、身分や立場を表さなければならない時代は終わりました。
そして、法律(701年に定められた大宝律令)によって、人々の身分や政治の仕組みが定められる国家すなわち、律令国家が始まったのです。


勝福寺古墳とは
勝福寺古墳は、兵庫県川西市にある、今から1400年ほど前に造られた古墳です。
川西市と大阪府池田市の境をなす猪名川の西側にある丘陵の端に、平野を見下ろすように造られています。

①勝福寺古墳
勝福寺古墳は全長40mと推定される前方後円墳です。
「かぎ穴」形の前方後円墳の、台形の部分が前方部、丸い部分が後円部と呼ばれます。

後円部には横穴式石室があり、これがこの古墳の最も中心的な埋葬施設となります。明治時代に発見され、鏡や耳飾り、馬具や刀や土器などの副葬品が見つかっています。
横穴式石室は、朝鮮半島から導入された新しい埋葬方法です。
棺をおさめる玄室とそれへの通路(羨道:せんどう)からなり、何度も埋葬を繰り返す(追葬:ついそう)ことができる構造となっています。
九州では、4世紀末の古墳にも見られ、近畿地方でも5世紀に造られる例はありますが、少数です。
一般的になるのは、6世紀(今から1400年前)からであり、勝福寺古墳の横穴式石室は、広く普及し始めた時期の古い例となります。


図4 横穴式石室


図5 横穴式石室模式図
(一部想像復元)
前方部には、後円部の横穴式石室と別に、木の棺を土に埋めただけの埋葬施設があります。1971年の川西市教育委員会の調査で発見されていました。その時に金の耳飾りや首飾り、刀や鉄の矢尻が出土しました。
また2002年の調査では、前方部の別の箇所で盗掘坑が見つかりました。棺の部分はすべて破壊されていましたが、副葬品だったと思われる鉄製刀子(とうす)が出土しました
したがって前方部には木棺を埋めた埋葬施設が2ヶ所あったと推定できます。

先にも述べたように、勝福寺古墳には後円部に横穴式石室もあります。なぜ、前方部の木棺に埋葬された人は、横穴式石室には葬られなかったのでしょうか。後円部と前方部に分けて埋葬された人たちはどんな関係だったのでしょうか ?考古学界でもいろいろな意見があります。謎は深まります。

図6 前方部南棺に葬られた
川西の首長
(想像図)

②勝福寺古墳の造られた背景
猪名川の周辺には、古墳時代を通して多くの古墳が造られますが、今から1500年前の5世紀には、猪名川の下流にある現在の大阪府豊中市や兵庫県伊丹市で、盛んに大きな古墳が造られるようになり、他の地域では古墳が造られなくなります。
しかし、6世紀に入ると、逆に豊中・伊丹には大きな古墳が造られず、豊中市の北側の池田市や、猪名川西岸の川西市で古墳が造られるようになります。
この時に登場するのが、勝福寺古墳なのです。

この時期には、継体大王という、新たな大王が現われ、全国的に大きな政治の変化が起こる時期といわれています。
ここ、猪名川の周辺でもそうした変化が起こったと考えられ、川西や池田の豪族が力を持つようになったと考えられるのです。やがてその長の死に際して、彼らは勝福寺古墳を造り、横穴式石室という最新の埋葬施設を採用したのでしょう。
<参考文献>
都出比呂志編 1989 『古墳時代の王と民衆』古代史復元6 講談社
都出比呂志 1998 『古代国家の胎動』日本放送出版協会
大阪大学大学院文学研究科考古学研究室 2001 『勝福寺古墳測量調査報告書』
豊中市教育委員会編 1996 『豪族の時代‐古墳と倉から見たとよなかの古墳時代‐』
<図出典>
図1 都出1998より転載

■勝福寺古墳のある、川西市の遺跡紹介を用意しています。そちらも併せてご覧下さい。web版川西遺跡
勝福寺古墳発掘調査