高安啓介 Keisuke Takayasu

芸術学 Design Studies

現在、大阪大学大学院文学研究科教授
大阪大学大学院文学研究科博士課程修了(芸術学) 博士(文学)
1971年生。1993年 一橋大学社会学部卒業。
2002年から2016年まで 愛媛大学法文学部講師・准教授。


美学研究   高安啓介

  • 博士論文『アドルノの音楽美学ー非同一なものの経験』

    大阪大学文学研究科 2002

    題名が表すとおり、アドルノの音楽美学について論じた研究であり、音楽における「美的経験」の問題を中心として検討をおこなっています。現代哲学においてアドルノは言及されることの多い思想家の一人だと言えますが、アドルノ著作集の半分近くが音楽関係の巻ですので、アドルノの数々の音楽論のなかから美学思想のエッセンスを浮かび上がらせようと試みました。たしかにアドルノの音楽論のなかでも、ベートーベン論・ワーグナー論・マーラー論はよく読まれており、アドルノがシェーンベルクらの新音楽を評価したことも知られていますが、博士論文では、実際の楽曲と照らしながら、アドルノの音楽評価のパターンをつきとめ、一種のバイアスのうちにアドルノ美学の重要なポイントがあることを解明しています。簡単に言いますと、アドルノは、音楽がまったく切れ目のないイリュージョンとして作り上げられることを嫌って、音楽がむしろ異質なものを含んで違和感を生み出すような作りかたを高く評価しました。アドルノの思想のキーワードとして知られる「非同一なもの」とは、同質のものにたいして異質のものであり、アドルノは「非同一なもの」の経験こそまさに「経験」の本質であるとみています。そもそも、手持ちの概念をそれぞれの対象にあてはめる概念認識はたんに「確認」にすぎないのであり、自己とは異なるものの出現をそのまま受け入れる美的経験こそが「経験」なのだとして、アドルノは美学をことのほか重視したのでした。アドルノはこうして、音楽そのものが異質なものとなり、音楽はそのために異質なものを含み込むよう要求したのであり、アドルノはそうした前衛音楽のうちに強い「経験」の条件をみたのでした。同時にまた、自然を支配する「理性」にたいして、自然を模倣する「理性」のありようを見出そうとしています。アドルノの美学理論はまわりくどいとことろがありますが本研究はそれを音楽作品にそくして理解する手がかりをあたえるでしょう。

  • 論文:アウシュヴィッツ以後の芸術

    愛媛大学法文学部論集 人文学科編 29号(2010)101-115.

    この論文は、アドルノの有名な言葉「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」の解釈について論じています。アドルノはユダヤ系知識人として1930年代から1940年代にかけて亡命を余儀なくされ、亡命生活が終わりにさしかかるころ、1949年 の論文「文化批判と社会」のなかで「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」と書いています。この言葉はもとの文章から切り取られて広く知られましたが、この言葉はおよそ、ホロコーストが起こったあとで芸術文化はもはや好ましいかたちでは不可能である、という意味にとれるでしょう。そのうえで「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」というこの発言は、二通りに解釈されました。その一つは、昔ながらの教養文化をそのまま引き継ぐことはできないという意味であり、もう一つは、芸術はホロコーストのような法外な出来事を描けないし、人々が味わった苦痛をとても表現できないという意味です。アドルノ自身これら二つの問題について思索を続けますが、少しずつ留保しながらアウシュヴィッツ以後の芸術のありかたを示唆するようにもなります。アドルノが慎重に評価したのは、パウル・ツェランの詩であり、サミュエル・ベケットの劇作品であり、言語の正常な意味作用が崩れているところにアウシュヴィッツ以後の芸術の語りを見出したのでした。この点はよく知られていますが、さらに問うたのは、アウシュヴィッツ以後の芸術として文学作品が言われているけれども、アドルノはなぜ音楽にほとんど可能性を見出さなかったのかという点です。アドルノはたとえばシェーンベルクの《ワルシャワの生き残り》に理解をしめしつつも音楽がややもすると苦痛から享楽を絞り出すような性格をもつことを示唆しています。アドルノはまた戦後の現代音楽の傾向にたいして厳しい態度をとってきた背景もまた指摘しています。

  • 論文:アドルノ美学における形象の問題

    形象論研究会『形象』1号(2016)56-77.

    本論文は、アドルノ美学のうちに含まれている形象の思想を浮かび上がらせて、アドルノの形象批判をあきらかにしています。ドイツ系美学において形象Bildの語は、英語のイメージに相応する語として、様々な思想をつらぬくキーワードだったのあり、形象への問いはたしかに芸術諸学とのつながりを見出すうえで一番の接点となってきました。なかでも一神教の偶像禁止にみる形象批判は、芸術の存立にかかわる重要な問題をはらんでおり、抽象絵画からホロコースト記念碑まで、20世紀の芸術のうちに回帰してきたと考えられます。アドルノは近代主義者として厳しい形象批判をおこないながら、芸術のありかたを模索していますが、アドルノを思索へと突き動かしたのは、芸術作品がなにより形象=像であるがゆえに仮象Scheinの性格をおびるという洞察でした。美学思想において仮象の語は、真理が輝き出るという良い意味もありますが、見せかけという悪い意味もあり、アドルノは両者をふまえて芸術作品のありかたを二つの側面において理解しています。アドルノによると、芸術作品はたしかに形象=像として真なるものを表現できるかもしれないが、悪い意味での仮象すなわちイリュージョンになりがちなので、芸術作品はけっして形象=像であることに満足してはならず、自己の見せかけを破壊するような要素を持つべきだと考えています。たとえば、アドルノは優れた作家の晩年のぎこちない「後期作品」をあえて評価します。以上にみる反省は、イメージの存立を問う現代美学の関心にも通じるでしょうし、今日のメディア批判にも通じてもいます。