高安啓介 Keisuke Takayasu
芸術学 Design Studies
現在、大阪大学大学院文学研究科教授
大阪大学大学院文学研究科博士課程修了(芸術学) 博士(文学)
1971年生。1993年 一橋大学社会学部卒業。
2002年から2016年まで 愛媛大学法文学部講師・准教授。
デザイン研究 高安啓介
みすず書房 2015
本書は、20 世紀に世界中に広がった近代デザインの思想の面について体系的に論じています。ここで論じられている近代デザインとは、バウハウスによって知られるデザインであり、合理性もしくは簡素さによって知られるデザインです。本書の特徴は、出来事が時系列にならぶ通史とは異なり、事典のように構成されており、近代デザインの思想が幾つかのキーワードをとおして浮かび上がるよう設計されています。章立てをみますと、近代・造形・構成・形態・空間・表現という言葉がならんでますが、今日のデザイナーがこれらの用語によって自分の仕事を説明しているのなら、今日の取り組みのうちに近代の前提がまだ根強く残っているはずです。理解のしかたが変化しているとしても、何が変化していて何が変化していないかを見定めなければなりません。そこで本書は、各用語の歴史とそれにまつわる事象の検討をとおして、今日のデザイナーが意識しなくなった近代の諸前提を明らかにしようと試みました。本書の内容はデザイン領域にとどまるものではなく、美学思想史研究としても読まれうると思います。本書で取り上げられている語は、デザイン専門用語というわけではなく、諸芸術に共有されている美学用語であり、他の芸術と共通する問題をはらんでいます。
大阪大学美学研究室『a+a 美学研究』11号 (2017) 118-131.
ウルム造形大学は1953年にドイツのウルムに始まりました。バウハウスの後を継ぐ学校としても期待もかかりました。新しい造形大学の設立にあたってスイス人のビルが見出されたのは、ビルがバウハウスで学んだのち中立国スイスで近代デザインの仕事を続けたからです。1955年にはビル設計による新校舎の落成式が盛大になされましたが、1957年にはやくも教育方針をめぐり内部の対立が避けられなくなります。ビル以外の若手教師たちは、共同設立者であったアイヒャーでさえ、ビルが芸術に力を入れすぎだと感じていました。若手教師たちは、高度化する産業社会の要請に応えるべく、バウハウスからの脱却を唱え、芸術ではなく科学にもとづく造形教育をもとめたのでした。結局ビルは1957年にウルム造形大学を去ります。しかしこの大学の教育方針をめぐってバウハウスからの脱却がいわれましたが、本当にそれは正しい言明だったのでしょうか。というのもバウハウスの第二代校長のH.マイヤーもまた自由な芸術活動をよく思わず、似たような改革を進めたからです。ウルム造形大学はその意味でバウハウスでの展開をなぞっています。歴史は繰り返すといいますが、近代デザイン運動におけるこの反復の意味を問いましょう。ウルム造形大学はもちろん、同時代の社会の要請に応じて、同時代の科学の成果を受けて、バウハウスが達しえなかった成果も残しています。
大阪大学大学院文学研究科 『待兼山論叢 芸術編』51号(2018)1-30.
ビルはもともとバウハウスで学んだ経験などを買われて、ウルム造形大学の設立の準備にあたり、この大学の初代校長となりました。1955年にはビル設計による新校舎の落成式も開かれました。けれども、教育方針をめぐる対立が避けられなくなり、1957年にビルは大学を去ることになります。ビル以外の若手教師たちは、高度化する産業社会の要請に応えるべく、バウハウスからの脱却を唱えて、芸術の訓練でなく科学の学習にもとづく造形教育をもとめたのでした。振り返ってみれば、バウハウス二代目校長であったマイヤーもまた自由な芸術をみとめない機能主義へと舵をきっていたのであり、ウルムの方針転換はマイヤーの変革をなぞる事件だったといえます。この反復の意味を問うべく、論争の内容について分析をおこなっています。