正義って何?


  1. はじめに

    みなさんは小さい頃テレビのヒーロー番組で、正義の味方であるヒーローが 悪い怪獣をやっつけるシーンをみたことはないでしょうか。 あるいは、「勧善懲悪」を売りにしている時代劇なんかで悪役の代官が主人公に 「成敗」という名のもとに切り殺されている場面に接したこともあるでしょう。 この「正義の味方」はどこまでいっても「正しい」のであって、 それとは反対に悪役はどこまでも「わるい」とされています。 「正義の味方」の判断は絶対に正しく、ある種その世界の立法者のようです。
    たいていの場合、「わるい」とされた側のものには、それを弁明する機会が 与えられていません。たとえば実生活においては一方が訴訟を起こせば、裁判の場で 他方の弁明の機械が与えられます。それがない。これはフェアじゃない。 「公平(公正)」でないということは「正しくない」のではないでしょうか。 そうなると「正義の味方」が「正しくない」ことになります。 自分が一方的に「正しい」と思うことを他人にまで強制し、 それが聞き入れられるとわかるやいなや、暴力に訴えてしまう。 これこそ極悪人だと思いませんか。 つまり「価値基準」のおしつけにほかなりません。
    ここまでいくと「正義の味方」が悪の権化のようになってしまいましたが、 要するに視点を変えていくと、「よい」「わるい」や「正しい」「正しくない」の 様々な様相がみえてきたとおもいます。 では、「正義」とはこんなにも曖昧で、根拠があるのかないのかわからないような、 一方的なものなのでしょうか?
    いや、私はそうは思いません。 正義、つまり何が正しくて何が正しくないことか、ということは、 わたしたちが生きている限り至るところで関わる問題です。 そして実際にわたしたちはあらゆる場面でこれこれが正しいと判断しています。 もちろん、簡単に答えられるものもあれば、 容易には答えられないものもあります。 しかし、だれもがそれを実際に行っていることを考えれば、 少なくとも何かしらの判断材料はあるはずです。 では、どこで「正しい」「正しくない」の線引きが行われるのでしょうか? こんなことをこれから少し考えてみたいとおもいます。


  2. アリストテレスの正義観

    みなさんは正義のイメージをどのように持っているでしょうか? 西洋の歴史においては正義のシンボルの多くが、「天秤」であり、それを持つ「女神」でした。 今日の日本においても弁護士のバッチには天秤がかたどられています。 これは日本の近代司法の思想が西洋から輸入されたものであることに由来するといわれています。 つまり、古代のヨーロッパ以来の伝統的正義観は、秤によって比較されるものの均衡、 すなわち「平等」こそが正義である、と考えるものでありました。 その最も古い原型が古代ギリシアのアリストテレスにみられます。
    アリストテレスは、私たち人間を生まれながらに「ポリス的動物」と定義したことで有名ですが、 これは人間が社会のなかでしか生きることができないという事態を述べているだけではなく、 人間が何かを行うことができるのは、つまり可能性を発揮できるのは、 社会への働きかけでのみだ、ということなのです。 社会における法や規則のなかに人間の可能性が発揮できるのです。 したがって、人間は社会といやがおうにでも関わっていかねばならず、 その意味で人間は「ポリス的動物」なのです。
    では、アリストテレスはどんな正義観をもっていたのでしょうか? 先にもいいましたが、彼にとって正義とは「平等」でした。 しかし人間を「ポリス的動物」としたアリストテレスは、 正義に関しても現実のポリス社会に関わりうるもの,可変的なもの、多種類のものとも考えました。 つまり、ポリスの諸制度,すなわち法律や政体のなかに倫理的価値を結び付けて考えたのです。
    アリストテレスは、このような倫理の基盤として人間そのものをこのように考えました。 人間は、「本質的に〜である」とか「本質的に〜になる」とかというふうにはじめから決まっている存在 (「必然存在」)なのではなく、「善い」ものにも「悪い」ものにもなることのできる存在 (「許容存在」)である、と。 この「許容存在」というとらえかたは,個人個人の性質は「生まれつきの性質」(ピュシス)によるのではなく、 各々の人間の行為を通じて「経験的に」かたちづくられていく「人柄」(エートス)そのものによって決定される、 ということです。すなわち、人間は後天的にかたちづくられるものだというのです。 したがって、このように人間が「善い」ものにも「悪い」ものにもなりうる存在ならば、 それぞれの人々の行為が「善い」方向に導かれ、「人柄」も「善い」ものにかたちづくられるためには、 それを取り巻いている環境、すなわち社会の諸制度が「善い」ものであることは必然である,と考えられたのです。
    ところで、ではアリストテレスにとっての「善」とはどのようなものだったのでしょう? 彼にとっての「善」とは「万人がめざすもの」でした。 あらゆる人間の行為の目的となっているもの、それが「善」でした。 そして、「善いこと」や「善い行為」にみられる「善」が、 だれしもが目指す善い生、つまり「幸福」でした。
    しかし、ギリシア語の「善」を表す語「アガトン」は、道徳的な意味ももちますが、 有用性とか卓越性を表す意味が強いといわれます。 そして、「正義」を表す語「ディカイオン」は、普通人間が行うべきふるまいを定める基準を意味していました。 このことをふまえたうえで、もう一度アリストテレスのいうことを考えてみると、 彼のいう「善」と「正義」が必ずも一致するわけではないことに気づきます。 つまり、ものごとの卓越性としての「善」と平等としての「正義」ということです。 そして、こんなことも考えられます。 ポリスの市民のだれしもがほしいと思っている「善いもの」を、 それぞれにふさわしい分、あるいは認められた分を越えて取得することは「不正」である。
    では結局「正義」と「善」との関係はどのようなものだったのでしょうか? つまり、「正義」は「他人に対する関係」において発揮されうる「徳」であり、 「正義の性向」は「様々な種類の徳のなかでただ一つ『他人のための善』である」といわれるのです。 要するに、アリストテレスにおいて、正義とは平等を中核として他人のための善を求める徳だったのです。
    このアリストテレスの正義観が、西洋の平等を中心とした伝統的正義観へと引き継がれていったのです。 では次に、以降の正義観の変遷を簡単に見ていきたいと思います。


  3. 西洋の正義観の変遷

    前の章でもいいましたが,正義と善は密接な関係をなしていました。 そこで正義の観念の歴史的な変遷を見ていく上で、その時代時代の善の捉え方をふまえたうえで考えなければならないでしょう。

    • 古代の正義
    古代ギリシアでは、前にもアリストテレスの善に対する考え方を述べた通り、 善とは人間が目指す目標でした。この人間の本性的活動の究極的目標である善を獲得することが「幸福」でした。 古代ギリシア以来、ヨーロッパ中世まではこの「幸福」を中心に善が考えられてきました。 そして「幸福とは何?」という問いが生まれ、倫理学を形成していったといわれます。
    この古代ギリシアでは、アリストテレス以前も様々に正義が考えられました。 (もちろんいつの時代も人は考えてはいますが...) まずは、ソフィストたち。彼らは、人間の本性(ピュシス)に基づく正義を考えました。 その根底には「万物は流転する」や「人間は万物の尺度である」に代表される相対主義の思想が息ずいています。
    その相対主義的発想に対抗したのが、ソクラテスです。 彼は町中で高慢なソフィストたちの出鼻をくじいてやったといいます。 そして彼は、正義に関しても人間の内面の探求に向かい、生得説的な(生まれながらにもっている)正義がある、といいました。 つまり、絶対の正義の存在に言及したのです。 しかし、これらソクラテスの思想は弟子のプラトンの著書を通してしか知り得ません。
    そのプラトンはというと、彼は正義を調和に求めました。 ただし、その調和はイデア界にあるもので、決してこの世に存在するものでないので、正義を創出することはできないというのです。
    これに異を称えたのが、弟子のアリストテレスだったというわけです。 もう繰り返しませんが、師匠の「この世にない」という主張に真っ向から、 「現実のポリス社会に関わりうるもの」であると反対したのですからなかなか度胸があるとは思いませんか?
    古代ローマ時代になるとアリストテレスの「正義とは平等である」という定義が、よりいっそう一般化していきました。
    へレニズムのストア派では、奴隷をも含む人間の平等が唱われます。 これは当時のコスモポリタリズム(世界市民主義)という思想を背景にして、より平等の度合いが高まったといえるでしょう。
    その後、ローマの哲学者キケロは「各人に各人のものを分配すること、これが要するに最高の正義なり」といっています。
    • 中世の正義
    中世に入ると、万人の目標であった善が、キリスト教の登場で、神と同一視されることとなりました。 キリスト教のもとにおける人間の幸福は、最高善としての神を会得することだとされたのです。 初期キリスト教を整備した教父アウグスティヌスは、正義は神を、さらにいえば教会を唯一の源泉とするもの、として捉えています。 そういうキリスト教の思想支配が、周知の通り千年以上続くのですから、これは驚きです。
    ところが、中世盛期に活躍したトマス=アクィナスは、それまで神一辺倒だったこの時代にあって、 正義に関して神の決定に委ねられるものと人間に関わりうるものがあるというふうにいいました。 前者が超自然世界の正義であり、後者が自然的世俗的世界の正義です。 これは、いよいよ人間の自由な行為が認められてきた証として大変重要であると考えられます。 この時代は「哲学は神学の婢」といわれていたくらいで、何でもかんでも神様でした。 それが神学者自身の手によって、人間の理性が認められてきたという事実は、 これから到来する啓蒙期の萌芽を抱えてたことを暗示しているともいえるでしょう。
    • 近代の正義
    いよいよ近代に突入です。 近代の善の考え方は、人間は「自然の光」である理性を生まれながらにもった存在であり、 だれもが尊厳をもち自律性をもって生きていくと考えられるので、 道徳も含めた社会の秩序はこうした自律的個人の自己規律によって根拠づけられるべきである、 という啓蒙主義の考え方を基盤に発展していきました。 何か難しいことをいっているようですが、要するに簡単にいえば、 自分の責任で「善いこと」「悪いこと」を決めなさい、 だれもそれについてとやかくいいませんよ、ということなのです。 ここおいて、万人が認める善の在り方,ある社会における構成員全員が一致して認める幸福な生き方の存在が不可能となりました。 そこで、「自然法論」の考え方が登場してきます。
    「自然法論」とは、1.人間の始原の状態を「自然状態」であるとし、そのままでは社会が成り立たないので、 2.各人がもっている無制限の権利である「自然権」を「社会契約」によって一つの政府に譲渡し、 それが定立する法律に基づく秩序にしたがって生活するのが正しい,という主張です。
    これに対する批判もいろいろありますが、 基本的にその個人個人の幸福がそれぞれに異なっていると考える仕方は、現代にも通じる思想ではないでしょうか。
    • 現代の正義
    では、現代は正義をどのように考えているのでしょうか?
    現代はある個人にとっての善が、他人と根本的に一致しにくいといえるでしょう。 幸福が個々に存在し、善もまた個々に存在する。そんな時代の正義とはどんなものでしょうか?
    少なくともだれもが自らの幸福を追求できる「平等」、 これは現代の正義に欠かせない一要素であるといえるでしょう。
    現代において、英米系の正議論を打ち立てたロールズは、「公正としての正義」といいました。 彼は、市場経済システム,つまり私的な利害の追求と競争を原理とする実社会を前提におき、 どうすれば「自由」と「平等」の均衡が保てるかを考えたのでした。
    個人個人で異なる善を、確定しにくいそういうものだと認めながら、 やはり善は必要だと指摘し、現実の社会を見据えた上で、 正義を追求する真摯な姿勢は、わたしたちも見習うべきだと思います。

  4. 最後に

    以上、正義についてみてきましたが、人間にとって、倫理的な問題は個人の問題としてとらえるのではなく、 当該の社会の問題なのです。人間が一人きりの時、そこにあるのはただの感情なのです。 人間の「幸福」は、一人にとってはその人のしたいこことが「幸福」なのです。 しかしそこに当該の社会の規範が加わることで非常に複雑な問題になっていきます。 だから歴史的にもその時代時代にとっての正義が生まれますし、地域ごとに正義の捉え方がちがってきます。 さらに、現代においては個人が一人で多くの社会の構成員になっているのが普通でしょう。 この多重に重なりあった社会にあって、わたしたちは生きていかねばなりません。 そのためにはどうしたらよいか、考えなければならないようです。 そのひとつの訓練として、過去の思想家はどのように考えてきたのか、 見てみるのもいいのではないでしょうか。 そうして現代のこの社会での問題にみずから進んで考えていくことが、 「善く」生きることにつながるのではないでしょうか。



参考文献:『法哲学体系講義 正議論概説』森末伸行著

執筆者:哲学・思想文化学専修三年 久保 浩一(2001年度製作)