【現代國語の方言區劃】
右のやうな詳細な調査は、現代日本語については、まだ出來てゐないから、日本語中にいくつの方言があり、方言區域を分てば、いかに分れるかについては、まだ確實な斷定は出來ない。しかし、全國の方言について極めて大きく見れば、日本の東部と西部との方言の間に、かなり著しい相違がある事は疑ない事である。その重な諸點は、
東部 西部
(一)打消のいひ方
行かない。取らない。 行かん(ぬ) 取らん(ぬ)。
(二)指定のいひ方
これだ。 これぢゃ。これや。
(三)形容詞連用形
白くなる。 白うなる。
(四)口語一段活用命令形
受けろ。 受けい。受けよ。
起きろ。 起きい。起きよ。
(五)ハ行四段動詞音便の形
買った。買って。 買うた。買うて。
これ等の違ひを標準にして東西兩部の方言を分つとすれば、その境界線は何處になるかといふに、大體に於て、富山岐阜愛知の諸縣と、新潟長野靜岡の諸縣との境界線であるが、實際は、右に擧げた諸項だけの境界線をみても、決して全部同一ではなく、少くとも一部分は離れて、或は西或は東に走って居るので、到底正確な一線を以て東西を劃する事は出來ない。上述の境界線は大體を示すに過ぎないのである。
とにかく、東西兩部の方言の對立は顯著であって、何人も異論の無い所であるが、なほ、九州の方言を東西兩部に對立する大きな方言として認めようとする説がある(東條操氏、「國語の方言區劃」)。九州方言は、前に擧げた諸點に於ては大概西部方言と一致し、其點から見れば西部方言といふべきであるが、九州の一部分には却って東部方言と特徴を同じうするものがあり(二段活用の命令に「ろ」を用ゐる如き)又東西兩方言に於て一致してゐる點に於て九州だけが違った點があり、「受け」「受くる」「起き」「起くる」のやうな二段の活用があり、ジとヂ、ズとヅの發音の區別がある)、九州獨特の形式もある(過去の打消には「行かざった」「行かんぢゃった」「行かんだった」の形を用ゐ、二段活用の未來形を「起(オ)キュー」「受(ウ)キュー」のやらにいふ如き)。それ故、九州方言を東西兩方言と同等な大方言と認めるのは道理ある事と考へられる。さすれば、全國の方言は東部西部及び九州の三つに大別される譯である、(さすれば、動詞の未來形は、東部「受けよう」「來(こ)よう」又は「きよう」、西部「受きょう」「來(コ)う」九州「受きゅう」「來(ク)う」と相對し、過去の打消は東部「知らなかった」西部「知らなんだ」、九州「知らざった」、「知らんぢゃった」又は「知らんだった」と相對する)。
東條操氏は更にこの下にやゝ小い方言區域を立てる事を試みた(「國語の方言區劃」及び「大日本方言地圖」)。
本州東部方言
東北方言 青森、岩手、宮城、福島、秋田、山形、新潟の北部
關東方言 東京、神奈川、千葉、茨城、埼玉、群馬、栃木、山梨の東部
本州中部方言
東海東山方言 靜岡、愛知、長野、岐阜、三重、山梨の西部
本州西部方言
北陸方言 新潟の南部、富山、石川、福井の一部
近畿方言 京都、大阪、兵庫、和歌山、奈良、三重、滋賀、福井の一部
瀬戸内海方言 岡山、廣島、山口、香川、愛媛、鳥取、島根の一部、徳島
雲伯方言 島根の一部(出雲及伯耆の西部)
土佐方言 高知
九州方言
豊日方言 福岡の一部、大分、宮崎の大部分(諸縣那を除く)
肥筑方言 福岡の大部分、長崎、佐賀、熊本
薩隅方言 鹿兒島、宮崎の一部分(諸縣郡)
(本州中部は、東西兩部の相交る地方として、一區域を立てたのである。)
右の區劃は、語法上の特徴を主とし、音聲や單語などをも參照して立てたもので、大體に於て當を得たものであらうと思はれるが、その境界は今後の修正を要するであらう。又東北方言の如きは、恐らくは、更に太平洋方面と日本海方面との二つにわかつ必要があらうと思ふ。近來、佛蘭西に起った言語地理學に於ては、方言の分布は、個々の單語の如き一一の事項については言ふ事が出來るけれども、言語全體としては不可能であると主張してゐる。これは、道理のある事であり、一一の事項をあらゆる方言に亙って調査し、その分布を明かにする事は、國語の現状を明かにする爲にも必要であり、國語史の研究にも大切であるけれども、國語全體としての研究には、前述の如き見方も必要であり有益である。たゞ、類似した方言を集めて類を立てるのは、言語現象中重要と認めたものの一致不一致によるのであって、その選擇は、研究者の見方によって異なる所があるであらう。上述の如き方言の類別は、語法的事實を主としたものであるが、音聲上の特徴を主とすれば、ガ行音の最初の音がすべて東京語のガイコク(外國)ギリ(義理)のガギの如きg音であって、ナガイ(長)クギ(釘)のガギの如きng音が無いものと、すべてng音であって、g音の無いものと、g ng兩音が共にあるものとの區別、又クヮ(kwa)音があるものと、クヮ音なくしてすべてカとのみ發音するものとの區別、出雲や東北地方に見る如きイとウとの中間の特別の母音の有るものと、無いものとの區別、ジヂズヅの音を區別して發音するものと、さうでないものとの區別などによって、方言を分つ事は出來るが、しかし、それ等の分布は錯綜し、且つ、一つ一つ非常な差があって、これ等を綜合して、全國を少數の大なる方言區域にまとめる事は出來ない。但し、近來、アクセントの相違に基づいて、區劃を立てようとの試みがあり、或地方では、頗る明瞭な境界線が見出されたが、果して全國にわたって、かやうな區劃を立てる事が出來るかどうかは今後の研究に侯つべきである(服部四郎氏論文「近畿アクセントと東方アクセントとの境界線」參照)。