以下の文章は、横ポゼミ第4回(2008/8/27)において発表された、辻大介さんのディスカッションペーパー「ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト〜コミュニケーション社会学の立場から考える」(←リンク先は、辻さんの個人サイトです)及び、当日の議論への応答として書かれたものです。あわせてお読みください。
冨山一郎
辻さんの報告は、久々にわくわくするものでした。私にとっては、最後の12節のドライブこそが重要です。もちろんそれは、11節までの丁寧な議論が前提になっているのですが、突然登場する、「公的なものがだれに対しても・・・開かれていなければならない」という定言命題。そして「みんな」。これらの定言をキチンの受け取るのか、それとも客観性を重視する学としては不用意であると切り捨てるのかで、横ポの討議空間のありかたが分かれると思った次第です。私は基本的には社会学であれなんであれ、定言命題を持たないフリをすることが、実にくだらないと思っています。あるいは定言において確保される分析者の欲望をおしかくすことが、いかにもったいないことかとも思っています。また更に、人類学や歴史学に比べ、このあたりのくだらなさは、社会学が群を抜いているとも密かに思っています。カルチュラル・スタディーズは、知識社会学と接近戦において正面衝突するでしょう。そしてそれは、とても生産的な事態です。
考えてみたいのは、辻さんのディスカッションペーパーの12節に登場する図(c)において、分析者はどこにいるのかという問題です。それは繰り返された研究者の責任などというエラソーで硬直した問題ではなく、私が「ポピュラーカルチャー研究宣言」でこだわった、ポピュラリティの分析者に対する解体作用にかかわっています。分析者は、まずは、テーブルについていない図(c)の受動的な場所にいるのではないでしょうか。テーブルを眺め、場合によっては嬉々として解説を行い勝手にテロップをつける者たちの近傍に、分析者もいるのではないでしょうか。研究という行為は対象に対して能動的であるより受動的なのではないでしょうか。研究者の研究対象に対する受動性という問題です。そしてその位置から、テーブルについている者たちとそうでない者たちを横断する賭けが打てるように思います。能動的な受動性とでいうべきギャンブルです。この横断線こそ、見出すべきポピュラリティ、すなわち辻さんの定言命題にかかわるユートピアなのではないでしょうか。もちろんこの賭けは、テーブルについている者たちからも開始されるでしょう。能動的受動性と受動的能動性の邂逅。
とするならば、問題は能動的な受動性において発せられるユートピアとしての「みんな」の意味です。このことばは、どこから発せられているのでしょうか。たんに対象を分析的に表現した、くだらないものなのでしょうか。かかる意味で、辻さんのいう受動性がジジェクからきているのは極めて象徴的な論点です。ジジェクがラカンの正しい反復のなかで「解説」をするとするなら、彼とつばぜりあいを繰り返したJ・バトラーは、その「解説」にこそ苛立ちます。つまりジジェクの「解説」により抑圧され否認された欠如の位置におかれることに、そこに自分が巻き込まれることに苛立つのです。「解説」的に定義される「みんな」を受け入れる限り、自分の居場所がないとでもいうべき苛立ちです。 辻さんが「みんな」と発せられた時、辻さんはどこにいるのでしょうか。私にはこの辻さんの「みんな」が、図(c)を眺めながら発せられたのではなく、この図の中で示される受動的な場所から、この「みんな」が発せられ、それが遂行的に横断線を登場せしめようとしているように思えます。辻さんは自分を縫いこんでいるように思えます。それは辻さんが好きじゃない私語りとは全く異なる事態であり、もっといえば受動的な位置から、相互に受動的な「私たち」をひきつれて、横断線の線上へと生成していく辻さんが、現前に浮かび上がるのです。わくわくしたのは、まさしく、ここでした。