勝福寺古墳測量調査日誌
(2000年7月21日〜8月8日)
調査目的
 研究室では1992年以来、長岡京市井ノ内稲荷塚古墳、井ノ内車塚古墳、今里大塚古墳など畿内北部の後期古墳の調査を手がけてきました。特に、6世紀前半にいわゆる畿内型横穴式石室を持つ前方後円墳が各地域の首長系譜の中に現れる意味を追求しています。こうした問題意識をもって、今年度はわが大学が位置する猪名川流域の有力な後期古墳である兵庫県川西市勝福寺古墳の墳丘測量調査を計画しました。

 勝福寺古墳は、古式の横穴式石室から画文帯同向式神獣鏡(日本で、いや世界で最も同型鏡の多いもの!)を出土した6世紀初頭の古墳で、木村次雄「摂津の鈴鏡出土の古墳」『考古学雑誌』19-11(1929)、梅原末治「摂津火打村勝福寺古墳」『近畿地方古墳墓の調査1』(1935)などによってつとに学史的にも知られている西摂の有力後期古墳の一つです。残念ながら、墳丘は土取によって大きく崩され、横穴式石室の側壁の石が露出するまでになっています(写真)。

 梅原報告にもあるように、この古墳は2基の円墳、すなわち横穴式石室を内包する北墳と木棺直葬墳である南墳がくっついて造られていると理解されてきました。しかし、現状を見ると、これが全長40m程度の前方後円墳である可能性も捨て切れません。墳丘については『川西市史』(1976)にきちんとした測量図が掲載されており基本的な情報はつかめますが、私たちは前方後円墳である可能性もにらみながら、墳丘裾廻りの情報をさらに加えた測量図を作成して、勝福寺古墳の再検討を行うことにしました。

 調査実施にあたっては、勝福寺をはじめ地元自治会、川西市教育委員会からご協力をいただいております。どうもありがとうございます。






























進行状況
7月21日(金)
調査開始。現場主担当清家章助手のもと、大学院生を中心にトラバース測量とレベル移動。学部生中心に下草刈り、ゴミ拾い。
7月22日(土)
トラバース測量の閉合比は20000分の1以上で合格。大学院生を班長とする4班を編成して一気に古墳を包囲する。今年の夏は特に暑いが、山の中なのでしつこい蚊さえ我慢すればまだましか。
7月24日(月)
4班ともペースがあがってきた。ミーティングにも熱がはいる(写真)。
清家助手の眼
「墳丘を見る限り前方後円墳ではないと積極的にいえる材料はない!」
7月25日(火) 
雨天現場中止
7月26日(水)
石室内投光器設置。文学部備品としては異色の「ガソリン発電器」も順調。黄泉の国が照らされる(写真)。
7月27日(木)
石室内は意外にもかなり乾燥。奥壁は6段構成(写真)。白石太一郎氏が「勝福寺式」の名を与えたいかにも古相の畿内型右片袖式石室。盛土が削られているため側壁の一部から光が差し込む。石室内の実測用割付作業を行う。墳丘測量は3分の2程度が終わる。平板4台は贅沢か。表面採集遺物もちらほら。写真右は埴輪のような胎土、勝福寺古墳に埴輪があるという未確認情報は以前からあったが、もし確認できれば重要な知見になる。
7月28日(金)
測量班の学生談「川西市勝福寺古墳は北摂において有名な古墳の一つであり、立派な横穴式石室も持っている。しかし、現状を見た限りでは、下草の茂る雑木林となり、土取りによって墳丘も削られて、石室石材が崖面にむき出しになっている有様で、とても築造当時の被葬者の威光・権勢を感じることはできない。

しかし、それでも墳丘を駆け回り、測量機器のレンズをのぞき、蚊の大群と戦いつつも、測量を進めていくにつれ図面に少しずつ勝福寺古墳の形が表れてくると、この古墳に対する愛着と共に名も知らぬ被葬者への思いが沸々と湧いてくる。

一日の作業を終え、帰り道に古墳の横の神社の参道を抜けて勝福寺へと続く石段まで来ると、涼しい風が吹くと共に眼下に広々と町並みが広がる。この心地よさもまた、そうした古墳への思いを増幅させてくれるものであり、また次の日の現場の活力となっている。」(うーん、文学的)
7月29日(土)
墳丘測量は順調に進行。国土座標を落とす作業を来週早々に行う。石室実測は終了予定の8月4日(金)までに終わるかどうか、ギリギリのところ。
7月31日(月)
石室実測開始。都出比呂志教授現場視察。例のサッサカと歩かれる足取りも復活。
8月1日(火)
8月になった。7月下旬は比較的好天に恵まれた。ここ20年ほどは大阪大学は京都府南部の乙訓地域で現場をすることが多かったが、7月中は雨にたたられたり、雷にあって苦しめられた記憶がなお鮮明なだけに(私だけかも?)、この7月はそれほど雨にたたられず作業は順調だったとおもう。とはいえ、日本は広い。昨日熊本大学の杉井健さんからもらったメイルでは、熊大の沖縄調査は台風にあって開店休業状態におちいったとのこと。

石室実測は4人が各壁面に取り組む。博士課程の院生はやはり手際よい。学部生も悪戦苦闘しながらがんばる。墳丘測量は周辺の補足段階に。墳丘のところどころに古いトレンチらしきくぼみが認められる。墳頂部主軸方向にも長いくぼみが。こんなトレンチの情報は知らないのだけれど・・・。
8月2日(水)
石室はほとんど崩れもなくよく残っている。あの阪神淡路大震災の揺れにも耐えて。しかし、墳丘盛土が削り込まれているため、左側壁の石の隙間から外の景色が見える。摂津でも最古級の横穴式石室をなんとか良い状態で保存できないものか。そのための前提作業として、今回の調査を契機に、勝福寺古墳の過去の調査をもう一度検討し、情報を整理し、歴史的評価を明らかにすることが急務と思う。「年度末には報告書をつくるぞ」と清家助手や学生も燃えていることと信じている。
8月3日(木)
久しぶりに安定した夏空を見たような気がする。♪空が青い〜、厚みのある空だ♪。石室実測は羨道の一部を残すのみ。墳丘は補足の測量。国土座標を持ってくる作業にトライ。かなり遠くから持ってこなくてはならず、今日のトラバースは16角形になった。いまごろ院生が家で計算中か?ちゃんと閉じたかな?

あさっては川西市主催の国史跡指定シンポジウム「2000年遺産“川西市加茂遺跡”」に学生一同参加するため、なんとか明日までにほとんどの作業が終了できるようラストスパート。現場では打ち上げコンパの話もちらほら。学生は焼き肉が食べたいらしい。例年は宿舎の庭で焼き肉パーティをするのがならわしだが、今年は通いだからどうしようか。
8月4日(金)
実測はほぼ終了。来週月曜日に写真撮影と清掃を行い、機材撤収予定。打ち上げの焼き肉パーティは川西大同門にて開催決定!
8月5日(土)
川西市のシンポジウムに参加した後、打ち上げコンパ。
8月7日(月)
打ち上げコンパは終わったが、石室実測の補足、写真撮影は継続。明日ですべての作業が終了する予定。これまでその噂がささやかれていた埴輪をついに採集。勝福寺古墳の埴輪は確実になった。重要な知見だ。一部に幅の狭い横ハケが残る。原体を器表で静止させないいわゆるC種横ハケの可能性が高い(写真)。酸化炎焼成だが焼成はきわめて堅緻で須恵質に近い。採集場所は石室のある「北墳」北裾付近で(写真)、墳丘流出土の堆積内と思われる。

 従来の理解のように円墳2基が接したものとすると、埴輪をどのように並べたのだろうという疑問がわく。副葬品はもとより、埴輪といい初期の横穴式石室といい、古墳の格としては前方後円墳でないとするとむしろ不自然なくらいである。この古墳の墳形を明らかにすることは畿内北部の古墳時代後期の歴史像復元にとって避けられない重要問題になった。
8月8日(火)
写真撮影、清掃を行い、現地作業終了。機材撤収。19日間にわたる今夏のフィールド調査は無事終了。みなさんお疲れさま。勝福寺古墳の重要性を再認識した今回の調査だった。すでに明らかになっている出土遺物の再実測など、報告書作成へ向けての作業を関係機関の理解をいただきながら進めていきたい。最後になりましたが、この調査を支えてくださった多くの方々に心からお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。

 学生のレベル読みの声が飛びかった古墳はふたたび静かな森に帰った。市街化の進んだ川西の中心部にあっては、一帯はいつまでも残ってほしい貴重な緑地だ。古墳から勝福寺へ降りていく小道からは歴史を感じさせる火打集落の家々の屋根が見える。70年前、梅原末治氏も同じ景色を眺めたに違いない。その向こうにこれほどのビルが建ち並ぶとは想像だにしなかったであろうが。(完)