第1表 これまでの調査と成果
1877年以前
(明治20年以前 )
横穴式石室の側壁と羨道入口が露出し、内部において多くの副葬品が発見(第1図上)。
1882年(明治25年) 坪井正五郎「摂津国川辺郡川西村発見古器物考」
1929年(昭和4年) 木村次男 1929「摂津の鈴鏡出土の古墳」『考古学雑誌』第19巻第11号 日本考古學會、東京:pp.20−27、発表。勝福寺古墳を主体部に横穴式石室をもつ前方後円墳と報告。
1933年(昭和8年) 墳丘南側から五獣形鏡、鹿角製刀装具の付いた刀片が出土(第1図上)。後に南墳北槨と呼ばれる埋葬施設の存在が確認。
1934年(昭和9年) 梅原末治らによる調査。
1935年(昭和10年) 梅原末治 1935「摂津火打村勝福寺古墳」『近畿地方古墳墓の調査一』日本古文化研究所報告第一 日本古文化研究所、京都:pp.44−51発表。 前方後円墳ではなく、時期を異にする円墳2基が連接したものであると報告。
1971年(昭和46年) 川西市教育委員会による調査。墳丘測量や石室の実測をおこなうとともに、南墳南槨や石室内の調査をおこなった。調査の結果、円墳2基が連接したという梅原末治の見解を踏襲。その成果は、以下の『かわにし』で公表されている。
1974年(昭和49年) 武藤 誠 「考古学からみた川西地方」『かわにし』川西市史第1巻 川西市、兵庫:pp.39-168
1976年(昭和51年) 亥野 彊 「古墳時代の遺跡と遺物」『かわにし』川西市史第4巻史料編1 川西市、兵庫:pp.81−104
2000年(平成12年) 大阪大学考古学研究室による測量調査と石室実測(第1図下)。埴輪を採集。
2001年(平成13年) 大阪大学考古学研究室編『勝福寺古墳測量調査報告』を発行。前方後円墳である可能性を指摘。

 墳丘・石室の構築法 2次−1調査区では、横穴式石室の構築方法を探る手がかりを得ました。崖面の南端付近で地山(古墳築造前の基盤層)が急激に落ち込んでいる箇所が観察できます。石室の床面は、確認できる地山の落ち込みの上端よりも約1m低いことがわかっています。こうしたことから、勝福寺古墳ではまず地山を掘りくぼめて平坦な面をつくり、その平坦面に横穴式石室を構築しているようです。
 そして石室構築後の墳丘の構築方法としては、主に黄色から暗赤褐色の盛土を比較的大きな単位で盛り上げて墳丘を構築しているのが観察できます。
 3次−2調査区では、盛土は黄色と灰色の互層を基本としており、2次−1調査区とは対照的な墳丘の構築方法となっています。ただ、調査区北側では、灰色の盛土をほとんど用いずに黄色の盛土のみで墳丘を構築している部分が観察できます。
 このように、一連の墳丘ではあるが、後円部と前方部の墳丘構築法が大きく異なっているということが今回の調査で明らかになりました。



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勝福寺古墳発掘調査