埴輪の検出 3次−1調査区では、墳丘斜面の途中に平坦面があり、その上から円筒埴輪の底部が2個体、ほぼ立った状態で出土しました。詳細に検討したところ、平坦面の上に堆積した墳丘流出土の中に含まれていることが判明したので、古墳築造時の位置をとどめているのではなく、やや動いているものと考えられます。ただし、埴輪の形状がさほど崩れていないことから、移動距離はさほど大きくないものと思われます。したがって、古墳築造時には墳丘上に埴輪列がめぐっていたことが推定できます。また平坦面の存在からみて、この古墳が2段築成であったことがわかりました。
 3次−1調査区では、このほかに墳丘上の攪乱土の中から甲冑形埴輪の一部が出土し、墳丘裾部の堆積土中からも円筒埴輪の破片が多数出土しています。なお、今回の調査では他のトレンチから埴輪片は出土しませんでした。

 墳丘西半部の破壊について 古墳の西側は、明治20年(1887年)以前から建築用壁土として封土が採取された結果、石室西側の石材が露出し、削られた墳丘の跡は既に平坦な面となっています。この古墳西側における地表下の破壊の程度を調べるため、この平坦面に東西方向に調査区を設けました。
 調査の結果、2次−2調査区および2次−3調査区において地山を検出することができました。しかし、これらの地山の標高は3次−1調査区で確認された墳丘裾部よりも低く、2次−2調査区では墳丘裾部を示す地山の傾斜変化が検出されなかったことから、古墳築造当時の墳丘裾部のさらに下まで削り取られていることがわかります。ただし、2次−3調査区では地山の傾斜変化がみられ、それが墳丘の形を反映している可能性もあります。
 また、両調査区の地山のすぐ上面の層から瓦や陶磁器などが出土していることから、これらが近代の削平後に形成された層であることが確認できました。

 出土遺物 今回の調査では埴輪と須恵器が出土しました。円筒埴輪は突帯の突出度が比較的高く、ヨコハケ調整が認められるなど、丁寧につくられていることが観察できます。また2次−3調査区の攪乱土中から出土した甲冑形埴輪の一部には、鋲と思われる表現が確認できます。須恵器は2次−3調査区の攪乱土中や、2次−1調査区および3次−2調査区の墳丘盛土内から出土しました。しかし、いずれも小破片であるため、明確な時期を決めることはできませんでした。



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勝福寺古墳発掘調査