井ノ内稲荷塚古墳第5次調査


1997年8月16日(土)
大阪大学文学部考古学研究室
長岡京市教育委員会

Ⅰ これまでの調査

 井ノ内稲荷塚古墳は京都府長岡京市井ノ内小西40にある前方後円墳です。これまでに、1993年から96年にかけて4度の調査(第1次〜第4次調査)が実施され、次のことが明らかとなっています。

 ①墳丘の規模と構造 全長46m、後円部径29.5m、前方部長16.5m、クビレ部幅21.5m、前方部前端幅29.5m、現存する後円部高4m、前方部高3.5mの規模をもつ前方後円墳であること。墳丘は盛土によって造られており、段築成は認められないこと。葺石や埴輪をもたないこと。
 ②埋葬施設 後円部には横穴式石室1基、前方部には少なくとも木棺直葬1基の埋葬施設が存在していること。
 ③横穴式石室 天井石は後世の攪乱によって持ち去られているが、下半部は良好に遺存しており、右片袖式の形態をなすこと。その規模は、玄室長4.6m、幅2.2m、羨道長5.5m、幅1.3mで、向日市物集女車塚古墳と並んで、乙訓地域最大級のものであること。金銅製馬具、金製刀装具をはじめ、多くの副葬品が良好な状態で遺存していたこと。
 ④古墳築造の時期 これまでの調査で出土した須恵器の特徴から判断して、6世紀前半の築造であると推定できること。
 ⑤横穴式石室の破壊 後円部にある横穴式石室は大規模な攪乱を受け、天井石をはじめ多くの石室石材が持ち去られていること。その撹乱坑から長岡京期の祭祀用の土器(墨で人面が描かれることがあるタイプの壺など)が出土していることから、その攪乱は長岡京の造営に必要な石材を入手する目的で行われたものである可能性があること。

Ⅱ 今回の調査の目的

 1994年の第2次調査で存在が確認された前方部木棺直葬の時期、規模、構造の解明を目的として、大阪大学文学部考古学研究室が長岡京市教育委員会の協力を得て、1997年7月14日から発掘調査を行っています。

Ⅲ 発掘区の設定

 前方部の墳頂部に南北5.5m、東西7.5mの調査区(前方部調査区)を設定しました。

Ⅳ 今回の調査の所見

前方部埋葬の構造
  今回検出した前方部の埋葬施設は、木棺を直接墳丘内に埋める木棺直葬という構造をとります。木棺は、墳丘の主軸に直交するように置かれています。副葬品の出土状況から、東側に頭を向けて被葬者が葬られていたと判断できます。

木棺の構造と規模
木棺の棺材はほとんど残っていませんが、土層の違いから以下に述べるような棺の構造が判明しました。
 木棺は釘を使用しない組み合わせ式の箱形木棺です。小口板が長側板を外から押さえる形態をなし、底板を持ちません。
 棺内の両小口付近では、木棺を横断する浅い落ち込みが存在しました。土層の観察の結果、これは木棺の長側板を支える台の役割を果たした丸太の痕跡であろうと推定できます。またこれら2つの丸太は、棺内を3つの空間に区切る役割も果たしていたと考えることができます。
 木棺規模は、長さ3.5m、幅80〜85㎝、残存高10〜15㎝の大規模なものであり、注目されます。

副葬品の種類
土 器 須恵器、杯蓋・杯身のセット
短頸壺・把手付蓋のセット
横瓶
高杯
装身具 水晶製切子玉・そろばん玉 39
銀製金メッキの耳環
武 器 短刀
長頸鏃 10程度

 以上のうち、須恵器高杯は朝鮮半島の陶質土器の形態に類似するため、倭の工人がそれらをまねて製作したものである可能性もあり、注目されます。

 副葬品の出土状況
未盗掘であるため、埋葬当時の副葬品の配置をうかがうことができます。木棺内には、棺内を区切る東西2つの丸太が存在するため、東側小口板から東側の丸太までを東区、東西の丸太にはさまれた中心部を中央区、西側の丸太から西小口板までを西区として、副葬品の出土状況をみてみます。

 ①東区 須恵器が副葬されています。北側から横瓶1、その東側に倒立させた高杯1、それらの南に杯蓋・杯身1セット、そして短頸壺・把手付蓋1セットをはさんで杯蓋・杯身2セットの配置となります。これらの須恵器には、赤色顔料が散布されていました。

 ②中央区 遺物の出土は北東部に集中しました。東側仕切り板付近の北側長側板に沿った位置で短刀1(切先西向き)、その西60㎝の位置で長頸鏃10程度(一部を除いて切先西向き)が出土しています。また、水晶製切子玉・そろばん玉30と耳環2が短刀南側の木棺中軸線付近で集中して出土し、その周辺には赤色顔料(朱か)が分布していました。この位置が被葬者の頭部付近であると推定できます。
 短刀と長頸鏃にはさまれた北側長側板に沿った位置でも水晶製切子玉・そろばん玉9点が出土しています。これらは手玉として使用されたものである可能性があります。 この区画の西側からは、遺物は検出されませんでした。 なお、人骨は残存していませんでした。

 ③西区 遺物は検出されませんでした。しかし、この区画一面には赤色顔料が分布していることから、赤色顔料を塗布した品物が副葬されていた可能性があります。

 木棺の時期
  木棺内から出土した須恵器から判断して、6世紀前半(陶邑編年TK10型式期)であると判断できます。これは、墳丘および後円部横穴式石室の構築と同時期のものであることを示しています。

 墓壙と木棺の設置
 墓壙(墓穴)は、確認できた面で長さ6m、幅3.5m、深さ1.7mという非常に大規模なもので、そのなかに木棺を設置し、土で埋め戻しています。
 また、木棺の両小口付近で、柱穴(ピット)の存在を確認しています。棺材をつり下げるための柱、あるいは仮設的な屋根架けの支柱を設置していたなどの役割が推定できます。 なお、木棺設置の過程を復元的に示すと次のようになります。

 ①墳丘を構築したのち、木棺を設置するための大きな墓壙(墓穴)を掘り込む。
 ②墓壙の底に黄褐色土を厚く敷く。
 ③黄褐色土の上にきれいな黄色土を薄く敷き、棺底とする。
 ④黄色土を若干掘り込んで、木棺の長側板を支えるための2本の丸太を設置する。
 ⑤別の黄色土を裏込めとして入れながら、長側板を設置する。
 ⑥被葬者を安置し、副葬品を入れる。
 ⑦黒褐色土(裏込め土)を木棺と墓壙壁の間に敷き、木棺に蓋をする。
 ⑧墳丘を掘った土で、墓壙をいっきに埋め戻す。

Ⅴ 調査のまとめと意義

 今回の調査成果の意義を、箇条書きのかたちでまとめておきます。  

  1. 前方部の埋葬施設の構造は木棺直葬で、その時期は6世紀前半です。
     
  2. 未盗掘の埋葬施設であることは重要です。副葬品の配置や点数、木棺の構造が明らかになりました。
     
  3. 古墳時代後期の埋葬施設でありながら、墓壙や木棺の規模が非常に大きく、後円部の被葬者につぐ地域の有力者が葬られていたと推定できます。さらに、木棺は釘を使用しない組み合わせ式の伝統的なものであることも重要です。
     
  4. 昨年度の第4次調査で検出した横穴式石室内の木棺構造も、釘を用いない組み合わせ式のものでした。また、石棺の存在も確認されませんでした。これらのことは、横穴式石室という新式の埋葬施設を採用しているにもかかわらず、棺構造などでは従来からの伝統を守っているという、稲荷塚古墳の横穴式石室に葬られた被葬者たちの性格の一端を示しています。その横穴式石室とほぼ同時期に葬られた前方部木棺の被葬者も伝統的な埋葬施設に葬られています。
     
  5. 稲荷塚古墳の南700mのところにある長法寺七ツ塚古墳群は、稲荷塚古墳と同じ頃に築造された円墳や方墳、帆立貝式古墳ですが、これらの埋葬施設も釘を用いない箱形木棺であることは重要です。つまり、前方後円墳の稲荷塚古墳に葬られた首長、その下に連なる七ツ塚古墳群の被葬者たちとも、伝統的な埋葬施設を採用するという点で共通し、6世紀の長岡京市域北部勢力の特徴といえるでしょう。
     
  6. 向日市域にある物集女車塚古墳も横穴式石室を採用している6世紀前半の古墳です。ただ、石室石材が小さい点や、家形石棺を用いている点など、大和地域の横穴式石室墳と共通する特徴を有しています。このような物集女車塚古墳の主体部にみられる特徴は、それまでの乙訓地域の伝統のなかではとらえることのできないもので、大和の中央政権と密接な関係を結んだ新興勢力の存在を予想させます。対して井ノ内稲荷塚古墳の被葬者は、在地の伝統的な勢力のリーダーであった可能性があるでしょう。
     
  7. 6世紀の前方後円墳の埋葬施設構造が、後円部、前方部ともに明らかになった事例はきわめて少ないため、全国的にみても古墳時代の葬制研究において非常に重要な資料を提供したといえます。
     
  8. これまでの5次にわたる調査によって、稲荷塚古墳は、その墳丘構造、後円部の横穴式石室、前方部の木棺直葬の内容が明らかになりました。墳丘および埋葬施設の内容を総合して捉えることのできる古墳として、稲荷塚古墳は地域の歴史だけでなく、全国的な古墳時代後期の埋葬方法や社会のありかたなどを研究するための貴重な事例となります。今後、大切に保存、活用してゆくことが望まれます。