日本で一番大きな古墳が、大阪府の堺市にある大仙古墳(だいせんこふん、480メートル)であることは皆さんもご存じでしょう。  このほかにも堺市や大阪府藤井寺市・羽曳野市周辺には日本のトップ10の大きさに入る巨大古墳が軒並み分布しており、あわせて古市・百舌鳥古墳群と呼ばれています。  これらはほとんどが5世紀代、つまり古墳時代中期の古墳です。
大阪府大仙古墳
 でも、最古の古墳とされる3世紀中頃の箸墓古墳は奈良にありますね。古墳時代前期には奈良に古墳が作られるのに、次の中期になると、大阪にこんなに大きな古墳が集まるようになるのはどうして?と思いませんか?  この古墳時代の主要な古墳を作る場所が奈良から大阪へ移動するという現象は、考古学者・古代史学者のなかでも長年、議論の的となっています。
(白石太一郎氏原図を改変) クリックすると大きく表示されます
 ある学者は、王の本拠地は常に奈良にあり、お墓を造る場所だけ大阪に移ったのだと考えます。またある学者は、お墓はその王の本拠地に造るものだから、奈良に本拠地をもつ勢力に替わって、大阪に本拠地を持つ勢力が王になったと考えます。
 
 実は奈良から大阪へ、というほど大がかりなものではありませんが、日本列島の各地でも、古墳の造られる地域が移動して行く現象が知られています。待兼山古墳群が位置する猪名川流域においてもそのような移動現象がみられます。  下の図をごらんください。これは、猪名川流域における古墳の築造を地域単位で示したものです。これをみると、猪名川流域では、前期には長尾山古墳や池田茶臼古墳など、流域内の各地に古墳がつくられたことがわかるとおもいます。しかし、中期になると、豊中大塚や御獅子塚古墳など、有力な古墳は豊中台地につくられています。それが後期になると、再び、池田や長尾山丘陵に古墳の築造が復活していますね。このように、猪名川流域では、時期ごとに古墳がつくられる地域が変動していることがわかります。
 ただし、こうした交替をその地域のなかで、地域の政治の担当を持ち回りで行ったと説明する意見があります。  ちょうど、左の図のようなイメージです。この場合、古墳時代は地域間で激しい争いなどなく、比較的平等な社会に近かったことになります。
 これに対し、この変動は一地域のみの独立した動きでなく、列島規模でいっせいに起きていることや、巨大な前方後円墳が奈良から大阪に移動する時期と一致していることから、ヤマト政権中央の政治変動とかかわっている動きなのではないか、という考えもあります。中央と地方が連動しながら動いていくとすれば、古墳時代の社会は中央の影響力が強く、列島規模で政治的まとまりのはっきしりた「国家」に近いものだったことになります。
兵庫県川西市勝福寺古墳
 大阪大学考古学研究室では西摂の古墳時代史を明らかにすることを通して、古墳時代社会の特徴を考古学から追求するために、猪名川流域をフィールドとして選びました。2000〜2004年に調査を行った川西市勝福寺古墳では、古墳時代後期の長尾山丘陵に当時の新しい政権と密接な関係を持った有力首長がいたことを明らかにしました。
 2007年から2011年まで行った長尾山古墳の発掘調査からは、長尾山古墳が古墳時代前期でも前半の前方後円墳であり、猪名川流域において最も早く出現した古墳であることが判明しました。ただし、猪名川流域には、池田地域や長尾山丘陵のほかに、大阪大学豊中キャンパスが所在する待兼山丘陵にも前期の古墳があります。しかし、前のページでも述べましたように、待兼山古墳群の古墳は規模や埴輪の有無など、はっきりとしない点が数多くあります。そのため、今回の調査で少しでもそれらに関わる情報を収集できれば、さらなる猪名川流域における古墳時代前期の姿がより一段と分かってくると考えられます。  では、実際に発掘調査を行なって、どのようにして年代を決めていると思いますか? 最後に、このことについて少しだけお話ししたいと思います。
次は.....
《挿図出典》 近つ飛鳥博物館2009『河内平野の集落と古墳 謎の4世紀を探る』 寺前直人・福永伸哉2007『勝福寺古墳の研究』大阪大学勝福寺古墳発掘調査団