第1回 定例研究会 (2011 / 05 / 07)


報告者: 江川 温

フランス中世王権の神話的歴史的正統化




はじめに
   中世盛期・末期ヨーロッパの王権、王国の中に存立する他の権力から隔絶した超越的権威を神話や歴史に基礎づけられた形で表現し主張
   多くの諸侯権も相似した表現と主張。しかし、質的な区別。
   こうした王の主張、被治者が部分的に受容、王の権威を別格のものと認める。

 王の権威主張の歴史学的に分析する際の二つの視角
   @国内の支配構造との関連を考察する視角:王の権威主張はなぜ可能であり、それはなぜ国内で受容されるのか。
   1950年代に堀米庸三、世良晃志郎、石母田正らが関与した中世国家論。
   共通前提:封建的王権には、単に封建ピラミッドの頂点にあるというだけではなく、ゲルマン的、キリスト教的、ローマ的な伝統に基づく超越的な
   性格がある。
   堀米 封建制の外に超越的権威。
   石母田、世良:領主権力の分立する社会が、その支配構造を維持するために超越的権威を必要とし、それを再生産していく
   これについては、世良、石母田の視点の重要性。
   ただし、王権の超越性はレーン制と関連づけられるだけでなく、封建社会のすべての要素と関連していると考えられるべき。王の超越的な権
   威、常に現実の政治、社会構造、および王の政治的志向との関係において形を定められながら提示される。
 
   A広くカトリック圏の中での諸王国の併存と競合という状況から考察する視角。
   皇帝権の存在感、少なくともカトリック圏西部では希薄となった。基盤にあるもう一つの現実、すなわち諸王国の併存と競合という現実が浮上。
   各王権はそれぞれ、自らが特別に神の恩寵を受ける存在であることを主張。
   超越的権威主張において、各王国に共通する「素材」。しかし各王国の状況の差違。差別化の必要。ここに比較研究の意義。
   そして、こうした王権の自己主張から、長期的にはヨーロッパ諸国の民族意識の萌芽。
   アンソニー・D・スミスの「エトニ」の問題。
   ヨーロッパ・ナショナリズムの12世紀形成説
   K・F・ヴェルナー説
   ヨーロッパ・エトニ意識形成の核は何か。王権のイデオロギー的役割がきわめて重要:コレット・ボーヌの著作『フランス国民の誕生』

 伝達媒体の問題
   著作物:歴史、政論、文学などのジャンル。写本の流布。長期にわたる参照。
   説教や芸能者による歌唱や演技
   儀礼とそれに伴う象徴的物品:儀礼として国王の即位、諸侯との間の主従礼、行列、祭儀参加、入市、民衆との接触、葬送といったもの。
   建築と彫像、絵画といった芸術



T メロヴィング、カロリング両王朝との系譜的連続の言説
 1)中世前期における血統による君主の正統化
   古代ゲルマン人の間では、血統カリスマ。
   751年、王朝交代に際して塗油の儀礼。新たに教会が賦与するカリスマ。
   しかし、このカリスマは個人ではなく、血統に賦与された。神による王朝の正統化。
   以後のカトリック圏、一般的には選挙王政原理と血統による世襲王政原理が併存。男系優位の伝統。ただしフランク族には分割相続の伝統が
   あり、単純な単系相続ではない。
   9世紀、カロリング帝国の拡大停止と相続争いによる分裂。状況の変化。
   @ 後継諸国で王家自体が分割相続の慣行を廃して単系化。しかしこれは王家の断絶の可能性を高める。また政治的な危機を反映して、聖
   俗諸侯の意志による国王不信任も発生。ここからしばしば選挙による王朝交代。この場合、女系を介する先の王朝とのつながりも相当に重要。
   A 有力者が、保有した官職を出発点として世襲的支配圏を築くようになる。そして王家に似た、男系単系の家門を形成。上層部から下へ浸
   透。11世紀末ごろまでに、西欧の領主社会全体に(=封建的分権化)。ただし、男子の直系後継者がいないときには、娘など女系を介する相
   続も普通に見られる。

   こうして、男系優先であるが女系を必ずしも排除しない単系相続が、国王から戦士的領主の各層まで支配的に。
   メロヴィング、カロリング両王朝の血統連続説の生成、9,10世紀のこうした変化と関連。
   カロリング王朝の初期、ローマの元老院貴族の末裔がメロヴィング朝の王女ブリチルドと結婚して先祖となったという説。しかし、その後はローマ
   元老院の話は消滅。ひたすらメロヴィング朝との関係。
   10世紀ごろ低地地方で決定版。クローヴィスの孫娘ブリチルドとアンスベールという侯の間にカロリング朝の先祖が生まれたとする。
   低地地方の有力者たち、自らの権威確立のために先祖を捜して、ほとんどの場合女性を介してカロリング家に行き着く。その継承の論理を、カ
   ロリング朝自体にも適用。

 2)カペー朝とカロリング朝の関係をめぐる言説
    ロベール家(カペー朝の前身)、9世紀の末にすでに王を出していた家。カロリング支流やドイツのザクセン王朝との縁組み(系図)。10世紀末
   ではカロリング王家を凌ぐ実力。カロリング直系の断絶に際し、傍系の候補を抑えて王に選ばれたこと自体は不思議ではない。
    他方で、ユーグ・カペーが即位数ヶ月後に息子のロベール(ロベール2世)を共同王として選出させ、新たな王朝の創出をねらったことには、批
   判的意見。フランク国家の統合をめざすランス大司教アダルベロンも批判的。アキテーヌでは、「イエス・キリストと法を無視して王位を簒奪した
   ユーグ・カペーの治世」という言及のある文書が数例、いろいろな地方で文書にロベールの治世年を意図的に書かない事例。
    それでも世紀半ばには、カペー朝を事実上の世襲王朝と見なすようになる。1050年より前に、アブヴィル近郊のサン・ヴァレリSaint Valéry修
   道院の修道士は、その年代記において、聖ヴァレリが大公時代のユーグ・カペーの夢枕にたち、自分の遺体を修道士たちに取り戻してくれるな
   ら、王位を彼を含む7世代の子孫に保証すると云ったと述べる。カペー朝の正統化とともに、おそらくそれ以上の存続を希望するカペー朝に対し、
   追加の善行を促す趣旨であったと思われる。しかし、これは後にはカペー朝の消滅を予言したものと受け止められる。カペー朝、その発端におけ
   る正統性の不足。
    11世紀においては、カペー朝は、王妃を介してカロリング朝との親族関係を持つにも拘わらず、それについてはほとんど言及しない。これはカ
   ロリング朝との血縁関係がはるかに強い諸侯家門があったため。
    しかし11〜12世紀、シャルルマーニュ崇敬がドイツ王国で高まり、フランスでも武勲詩などの文学で、シャルルマーニュおよびカロリング朝の
   記憶が新たにされる。フランスとドイツ両王権で、シャルルマーニュの「とりこみ」競争。フランスではサン・ドニ修道院が12世紀から、カペー朝と
   カロリング朝の記憶を結びつける働き。
    教皇も、ドイツ王権との対抗を意識しつつ、カペー朝をシャルルマーニュの「後継者」と位置づける。こういう状況で、11世紀末からカペー朝も、
   カロリング朝とのつながりを強調し始める。その一端として、王子の名にカロリング朝の人名(系図)。カロリング系の名としてはルイ6世が最初。
   シャルルマーニュを想起させるシャルルとなると、フィリップ2世オーギュストが庶子の一人にピエール・カルロと名付けたが、嫡出の王子として
   は、ルイ8世の王子シャルル・ダンジューが最初。王としてはカペー直系最後のシャルル4世が最初。ただしヴァロワ朝では頻出。
    12世紀後半から、王妃を介してカロリングの血統とカペー朝を結びつけることが強く意識されるようになる。フィリップ2世、カロリング血統を意
   識して、エノー伯家のイザベルと結婚。縁組によってカロリングの血統をカペー朝のそれと合体させるという意図。ルイ8世をカロリングの後継者
   とする(系図参照)。フィリップ2世は、ユーグ・カペー7代の子孫であるので、聖ヴァレリの預言と事実としてのカペー朝の存続とが矛盾なく共存
   する。サン・ドニ修道院の歴史著述家たちによって、「カロリング王統の復帰」が語られる。またサン・マルセル参事会員ジル・ド・パリが王子時
   代のルイに捧げた教訓詩『カロリヌス』は見倣うべきモデルとしてシャルルマーニュを称揚。
    しかし13世紀からは、ルイ7世のシャンパーニュ伯家の娘アデールとの結婚がすでにこの合体を実現させ、フィリップ2世はカロリング家の後継
   者でもあるという説が登場(系図参照)。教皇の勅書(1204)、ギヨーム・ド・ブルトン『フィリッピード』など。
    いずれにもせよ、13世紀カペー朝はカロリング朝(ひいてはメロヴィング朝)を自らの血統的先祖と位置づけるようになる。このことは、ルイ9世
   時代のサン・ドニの王墓整理にも明示されている。そしてそれは、国王の塗油に関してクローヴィス神話の活用をも容易にする(V 国王の聖
   別(sacre)
参照)。
    フィリップ4世時代、初期カペー朝をカロリング朝に直接結びつける説。王妃たちが、ほとんどすべてカロリング系統であるという解釈。



U トロイア起源伝承
 1)中世初期における伝承の始まり
    中世前期のフランク王国で、フランク族が古代のトロイア人の後裔であるという物語が作られた。7世紀がその起点。
    もともとローマ人の中に、おそらくはギリシア人への対抗意識から、自らをトロイア人の子孫と見なす説話。ウェルギリウスの『アエネアース』は
   これに立脚し、トロイアの王族で名将であるアエネアースが落城のトロイアを脱出し、地中海をさまよったのちにイタリア半島ティベル河畔に建国
   し、ローマの礎を築くという物語。
    フランク族は、6世紀においては、パンノニア地方から来たと言われていた(トゥールのグレゴリウス)。660年にフレデガリウスなる人物の手に
   なる『フランク史』において、アエネアースの兄弟フリガの息子フランシオンという人物が導入される。

 2)中世盛期・末期のトロイア人起源説
   フランス人=フランク人=トロイア起源
   フランス人=フランク人:王権の影響力の縮小によって縮小、王権の拡大とともに拡大する概念。12世紀までは、ノルマンディやブルターニュを
   除く北フランスの住民。13世紀以降、次第に拡大

   アンテノール(古典の登場人物、非王族)始祖説とフランシオン(古典に登場せず、ヘクトルの王子であり王族)始祖説
   13世紀、リゴール、ギヨーム・ド・ブルトンの変革:段階的な移住(紀元前9世紀にイボルによる植民定住とパリの建設、平和主義者のトロイア系
   パリッシー族、4世紀にマルコミールと戦闘的フランク族、の進駐、平和裡に融合)、以後の歴史叙述による継受。15世紀まで、各地域での先駆
   的なフランク化の物語が作られる。
   その歴史的背景:フランス各地方の王権への統合に正統性を与える。

   1475年頃、ガリア人=トロイア人説、トロイア起源説の大変革:トロイア人はガリア人の一部
   :ヴェローナ人パウロ・エミリオ『ガリアの古代』(1475以前)。古代ガリア人を武勇と信仰に秀でた民族とする。スキティア人が黒海から西に拡
   大、その一部がケルト人ないしガリア人になった。さらにガリアからゲルマニア、イスパニア、イングランド、北イタリアに拡大。さらに一部は小ア
   ジアに入り、トロイアを築く。他方でギリシア人も地中海沿岸に拡大。ガリア王ケルトゥスの娘ガラテアがギリシア人エルキュールと結婚。ギリシ
   ア文化がガリアに浸透。ガリア人はブレンヌスに率いられてイタリア半島に侵入。ここで、著者の死により中断。

   歴史家Jean Lemaire de Belgesの『ガリアの名声とトロイアの卓越』(1503〜1513)
   ピレネーからライン川、アルプスに至るガリアは、歴史の初めからヤペテの第四男サモテによって開拓植民された土地。住民は知的で、法を備
   え、宗教的(魂の不死、人間犠牲を禁じる。いわば原キリスト教とでもいうべき教え)。都市や大学を作った。ハムの孫「リビアのヘラクレス(エル
   キュール)」がガリア王の入り婿となってアレジアの城を作る。その子孫一人ダルダヌスがアジアに逃れてトロイア建国。ギリシア人にガリア文
   化を教授。古典古代文明の源となる。トロイア落城の後、ダルダヌスの後裔フランクスはガリアに帰還。
   古典主義的、キリスト教的、総合的。

 3)西ヨーロッパ的な視野におけるフランス人のトロイア人起源説
   個別の民族史観の展開、個別エトニをとりまく世界についての見方と深く関連。
   初期中世〜13世紀:「ヨーロッパ」という概念は影が薄い。
   8世紀、イシドール・パケンシス:トゥール・ポワティエ間の戦いを描いて、シャルル・マルテル麾下の混成軍を「ヨーロッパ軍」と呼ぶ。799年のラ
   テン詩、カール大帝を「ヨーロッパの父たる王」と表現。
   しかしこのような表現は例外的。一般にヨーロッパはアジア、アフリカと対比される地理上の概念。感情的なインプリケーションなし。
   その理由;デニス・ヘイによれば、「キリスト教世界」の存在。
   ある意味では「ヨーロッパ」よりも小さい「世界」:ウィリアム・オブ・マームルズベリによるウルバヌス2世の十字軍説教「第三の大陸としてヨーロ
   ッパがある。その中でもわれわれキロスト教徒が居住する部分はなんと狭小であることか。なぜなら凍結した海の中に住み、野蛮な習俗に生き
   る人々をキリスト教徒とは呼ばないからだ。」北東部の異境圏の存在を指摘。
   しかし別の意味では、地理的ヨーロッパを遙かに超える概念。ギリシア正教圏、イスラム圏(詐欺師による偽キリスト教圏)は改宗によって統合
   されるべきもの。可能的な「キリスト教圏」。

   「ヨーロッパ」の諸民族はどのように形成されたと見なされていたか。
   聖書。ノアの三人の息子セム・ハム・ヤペテの子孫の分枝として世界の諸民族をとらえる。「ヨーロッパ人」は一般にヤペテの子孫とされる。
   古典古代:神話、伝承の中の諸人物の子孫として各民族をとらえる傾向。
   中世初期:これら二つの伝統を引き継ぐ。フランク人のトロイア起源説もそのひとつ。またしばしば「ヨーロッパ」諸民族を共通の祖からの分枝とし
   てとらえる。ただし諸民族に共通の祖を認めることは、その諸族に共通の特徴やまとまりを認めることには帰結しない。トルコ人もフランク人もトロ
   イア系と見なして奇異に感じない。図式的で無内容な起源論。
   また多くの王国の民がトロイア人起源を自称するが、互いにその命題の真正性を主張するばかりで、相互の関連については無頓着。
   「ヨーロッパ人」という観念の希薄さ。

   14世紀以降の「ヨーロッパ」観念の勃興 「ヨーロッパ」=キリスト教世界として
   @イスラーム世界との関係 度重なる接触の結果、イスラームの他者性が明らかになってくる。改宗による統合はあり得ない。イスラーム観、し
   だいによそよそしいものに。オスマン帝国の脅威。
   A「キリスト教世界」についての深刻な危機意識。教皇権の動揺。皇帝権の空洞化、それに代わる主導的権力の不在。黒死病、戦争。そこから
   「自分たちの世界」の枠組みと、その価値を見極めたいとする欲求の高まり。
   ルメール・ド・ベルジュによる「トロイア人を含むガリア人=ヨーロッパ文明の担い手」説の登場には、以上のような背景があった。
   
   16世紀以降:
   汎ガリア人説。ギヨーム・ポステル:ヤペテの長男ゴメルを祖とするガリア人=ヨーロッパ文明の担い手。フランス人はゴメルの正嫡でヨーロッパ
   を統合すべき。ジャン・ピカール:ガリア人はヨーロッパ文明、とりわけギリシア文化の生みの親。またガリア人における平和と法の支配(法服貴
   族の自己主張と結びつく)。フランク人はもともとガリア人の一派で、帰還後は早期に同一化。
   ゲルマン中心史観。シャルル・デュムーラン:「フランク=ゲルマン人」が封建法形成に果たした役割の強調。エティエンヌ・パキエ、フランソワ・オ
   ットマン:フランク人によるローマ的ガリアの征服がフランス王国の起源。貴族の特権は征服に基づく。「ローマ的専制」に対抗する原理(剣の貴
   族の自己主張と結びつく)。
   折衷説。ルネ・ド・サンゼ:自由人であるフランク人とヨーロッパ文明の祖ガリア人との結合。
   中世末から16世紀まで、フランス人の起源という問題は,一方では国内の対抗関係、他方ではヨーロッパの国際関係と結びついていた。そして
   フランスの民族起源論はヨーロッパ文明史論と否応なく繋がりを持たざるを得ない。
   アンシャン・レジーム期を通じて、フランス王権とフランス人がトロイアに起源を有するという説は、学問的には意味を失うが,神話・説話としては
   存続。18世紀、ブーランヴィリエ伯『フランス貴族の衰退に関する試論』の副題。

 4)トロイア起源説の政治的機能
   14世紀には国王の系譜、王国史の冒頭に常にこの起源神話
   
   対内的な政治機能
   貴族たちも王権に同調。11世紀から北フランスでは大部分の貴族が先祖をトロイアに求める。ここから、同族としての一体感。さらにガリアにお
   ける早期の定着説、あるいは汎ガリア人説は、民衆もトロイアに結びつける。こうして少なくとも支配層においては、王国民としての一体感と自
   尊心を支える。
   百年戦争の時代においては、国家の興亡の先例としてしばしば言及される。たとえばイザボー・ド・バビエールはトロイアのエレーヌに美貌と軽
   率さで比べられる。しかし、エクトルのような優れたトロイア人の武勇、忍耐、自己犠牲の精神はその子孫たるフランス人に受け継がれていると
   も言われる。
   
   対外的な政治的機能:
   @教皇と皇帝に対して
   トロイア人であるという主張は、ローマ理念を体現する教皇、皇帝に対し、フランス王国の独立性を主張する根拠となる。とりわけ教皇に対して:
   教皇が王権への優越を基礎づける論拠として持ち出す「コンスタンティヌスの寄進状」に反論する論拠となる。つまり、コンスタンティヌスが西欧
   世界をローマ教皇に寄進したという主張に対して、フランク族はローマ皇帝権から独立していたので、それに拘束されないとする。ガリア人は征
   服されてローマ帝権に従っていたかも知れないが、征服は権利を作り出さない、とも。また皇帝権に対しては、フランク族はローマ皇帝に従わな
   かったので,当然に皇帝に従う義務はない、と。
   Aその他の諸王国との関係において
   対英プロパガンダ:ブルートゥスはトロイアの血統をひき、彼自身がブルトン人の先祖。しかし大ブリテン島にはゲルマン系のサクソン人が侵入し
   て、ブルトン人を虐殺してしまった。したがってブルートゥスやアーサー王の勲をイングランド人が誇ることはできない。彼らは混血の民であってい
   かなる悪事もためらわない。他方で、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの民はフランス人と同系統であるとされ、それらの君主との同盟関
   係が肯定される。
   ハンガリー王国との提携:シャルル7世の娘マドレーヌとラディスラウス・ポストゥムス(在位:1444年 - 1457年)の縁談の背景。ブダは14世紀か
   ら、シカンブリアと同一視。ウラースロー2世(在位:1490年 - 1516年)とアンヌ・ド・フォワとの結婚では、エレーヌの略奪とパリスの審判の劇に
   参加したという。
   B東方進出との関連において
   十字軍時代の初期に、戦場がトロイアに近いということもあって、各地の攻防がトロイア戦争に準えられる。十字軍の将帥たちの先祖のトロイア
   起源についても語られる。
   1204年のコンスタンティノープル征服は、トロイアに対するギリシア人の征服、略奪に対する、トロイア人の子孫による報復として語られる。他方
   ニケタス・コニアティスにとっては、第四回十字軍はアエネアースの子孫による報復。
   トロイア人の子孫にトルコ人を数える考え方は中世前期から。十字軍時代からオスマントルコの拡張期には、これを引き継ぐ見解と否定する見
   解。肯定的な立場からは、オスマントルコによるコンスタンティノープル征服は、トロイア人によるギリシア人へのもう一つの報復。
   中世末期には、フランス王権、王族の世界支配を支持する立場から、トロイア起源説が使用される事例。15世紀初のクリスティーヌ・ド・ピザン、
   オルレアン公のために書物。Le chemin de longue etudes トロイア起源について語り、この王統はいかなる王国、帝国にも相応しいという。ベ
   ネディクティはプリアム以来の王統をたどり、王の権威に加えて皇帝となるべしと説く。

    イタリア戦争の時代には、イタリア半島の征服がトロイア起源および古代ガリア人の活動と結びつけて語られる。ルイ12世の周りの文筆家た
   ちは、かつてガリア人が東に向かい、ガラリアやガラテア(Gallograecia)を形成した後にトロイアに定住し、全アジアを脅かせたこと、フランス人
   のイタリア,地中海進出はかつての根拠地を回復する運動であること、十字軍もその一環であったこと、ゴドフロワ・ド・ブイヨン、ボエモン、リュジ
   ニアン王統、フランス王統はすべてその方向で協働したこと、シャルル8世がアルプスを越えてイタリアに攻め入り、「アルプスの南のガリア」を
   支配し,ローマを攻略したのは,先祖であるブレンヌスの偉業を継いだものであることを述べる。ローマ人もトロイアの子孫であるが、殺人と強奪に
   明け暮れて堕落した人びとであるとする。ヘクトルは直系の子孫であるフランス王に対し、墓の中から拡大政策を助言している・・・。ルイ12世は
   さらに帝位を獲得することを企てるが、お気に入りの標語は「我らが祖トロイア人の仇を討つ」。ルメール・ド・ベルジュは、フランス王権がトルコ人
   を征服、改宗させ、ヨーロッパ、オリエントを共に従えて帝位に登り、トロイアの城壁から世界を眺めることを夢に見る。

   トロイア起源説とフランス王国の文化的起源の説明
   12〜13世紀には、中世初期のトロイア=フランク人人のガリア到来を、「文明化」としてとらえる言説。当時ガリアは未開の地。トロイア人は森林
   開拓者で都市と城砦の建設者。それゆえ原住民に歓迎された。やがて古代ガリア文明がそれとして評価されるようになるが、それらはトロイア
   人が古くから定住したためと説明され、トロイア人の寄与はますます増大。
   都市では、トロイア人による建設を主張しているのはパリ、ランス、トゥール、メッスなど。ランスは9世紀以来、ローマ建国者ロムルスの弟レムス
   と配下のトロイア人による起源を称する。12世紀にはジョフリ・オブ・モンマスがトゥールはブルートゥスの仲間であったTurnusにその起源を負う
   と言明。13世紀には南フランスのニーム、ナルボンヌ、トゥールーズなどを含め、多くの都市がトロイア起源を主張するようになる。これらは対外
   的な都市の威信と同時に、都市内部の社会の階層秩序を説明するもの。

   トロイア人の法制度とサリカ法の結びつき。シャルル7世時代、王国の相続法と見なされるようになり、到来トロイア人が作ったものという見方が
   定着。法典の形成はファラモン王Pharamondによるフランク王国建国と同時で、フランス王国の永久法であるという。1484年シャルル8世が成聖
   式でランスに入市したとき、クローヴィス洗礼とならびファラモンによるサリカ法編纂の活人画。

   フランス語 フレデガリウス:トロイア語という古い言語がかつて存在し、フランクとは「猛々しい者」「自由な者」を意味するという主張。他方でイシ
   ドール・ド・セヴィリアはガリアやガラテアが、ギリシア語の「ガラ」に由来するとした。そこからフランスの地名をギリシア語に結びつける傾向。中
  世末期になると、フランス語全体について、それは俗化ラテン語ではなく、ギリシア語起源といわれるようになる。ギリシア文明がトロイア文明を
  継受したものであるなら、ギリシア語はトロイア語。


江川 温 「中世フランス王国の民族意識−10−13世紀−」、中村賢二郎編『国家−理念と制度−』京都大学人文科学研究所報告、1989年3月。
江川 温 「民族意識の発展」、『西欧中世史 下』(江川 温、朝治啓三、服部良久共編)、ミネルヴァ書房、1995年11月。
江川 温 「西欧の民族史観とヨーロッパ・アイデンティティ」、谷川稔編『歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ』、山川出版社、2003年11月、117-134頁。

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V 国王の聖別(sacre)



W 瘰癧を癒す国王



X 中世盛期、末期の王権と聖ドニ崇敬― Y フランス国王の墓所と墓





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