研究概要


◆研究目的

 中世盛期・末期カトリック圏の君主権は、封建的宗主権を超えた超越的権威を、神話や歴史に基礎づけられた形で主張した。それらは著述、儀礼、説教、美術造形など、さまざまのメディアを通じて表現され、流布した。そうした自己主張は単なる装飾ではない。それらは一方では同時代の国内の政治権力構造に対応した支配イデオロギーの表明である。また他方ではそれらは、宗教的に統合され、文化的伝統を大幅に共有するカトリック圏の中で、他の君主権との競合において自らの支配権の独自性と優位性を提示する企てであった。さらに、君主権の自己主張が臣民の自己主張に投影される限りにおいて、それらはカトリック圏における民族意識形成の重要な要素となったのである。
 本研究では上記の命題を前提として、カトリック圏の中の多様な王国・地域をケーススタディとして分析することにより、君主権力の権威と正統性に関わる神話および歴史物語の生成メカニズム、類型性と個別独自性、またこうした物語を流布させるメディアのさまざまな形態と発展を明らかにする。

◆研究の学術的背景と着想経緯

 中世の王国や領邦における国家的要素としての君主の超越的権威については、我が国でも1950年代に西洋中世史、日本中世史研究者の間で議論が交わされたことがある。日本史ではその後、主に前近代の天皇が持ち得た権威とその生成メカニズムについて研究が蓄積されてきた(『講座 前近代の天皇』青木書店、1992〜95年)。ヨーロッパ諸国に関して云えば、こうした研究は古くから蓄積されているが、主に一国史の枠内で論じられており、ヨーロッパ規模での相互関連については、まだ研究は緒に着いたばかりといえる。
 代表者は、以前から中世盛期・末期フランス王国の共属意識に関心があり、かつてパイオニア的な考察を行った(「中世フランス王国の民族意識  ― 10‐13世紀 ―」中村賢二郎編『国家−理念と制度−』京都大学人文科学研究所報告、1989年3月)。またそれをヨーロッパ意識の形成との関係でどのように捉えるべきかについても考察してきた(「西欧の民族史観とヨーロッパ・アイデンティティ」谷川稔編『歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ』、山川出版社、2003年11月)。その中で、緩やかであれ文化的宗教的な統一体である中世カトリック世界において、民族(エトニ)の核を形成していく力は、A・D・スミスの言う「王朝的神話力」であると考えるようになり、フランス王権の聖別式、守護聖人、墓所と墓などを対象とした研究を重ねてきた。(「王権の基礎―クロヴィスの洗礼から聖別式のランス定着まで―」田辺保編『フランス学を学ぶ人のために』、世界思想社、1998年8月;「中世フランス国王の墓所と墓」江川温、中村生雄編『死の文化誌―心性・習俗・社会−』昭和堂、2002年10月など)。
 このような問題をカトリック圏全体で比較研究したいというのは以前からの構想であったが、今回、イングランド(朝治啓三)、カスティーリャ(大内一)、ハンガリー(鈴木広和)およびネーデルラント(青谷秀紀)等、王権、領邦君主権を研究対象とするメンバーによる研究グループを組織することができた。
 イングランドを研究する朝治は、1066年のノルマン征服以後に、ノルマン人諸侯、服属アングロ・サクソン人の領主階級が結束して至上の存在としての王権を構想したという見方から、王権に関わる会合、儀礼、思想に関心を抱いている。またカスティーリャを研究する大内は、以前から14世紀半ばのトラスタマラ内戦後に成立した新王朝の「正統化」の問題に関心を持っており、トラスタマラ王朝期の王権に関わる種々の儀礼の分析からこの王権の特徴を把握することに意義を見いだしている。またハンガリーを研究する鈴木は、土着王家であるアールパード家から出た5人の聖王・聖人およびそこに由来する聖性が、中世末期のハンガリー諸王朝によってどのように継承されたかに関心を抱き、とりわけマーチャーシュ一世時代の聖王崇拝と歴史利用の研究の重要性を指摘している。さらにブルゴーニュ朝支配下のネーデルランドを専門とする青谷は、各領邦で形成される出自神話の多様性と共通性、相互参照と歴史を利用した政治プロパガンダに注目して、それらの総合的研究を企てている。こうした国別・地域別の研究者との討議・合意によって、この計画を立案するに至ったものである。

本研究の具体的な目的と研究期間内に明らかにすること

 第一に、フランス、ネーデルラント、イングランド、カスティーリャ、ハンガリーの王権、諸侯権による神話・歴史の創造・活用を通じての正統性主張について、中世盛期から末期に至るまで、その生成メカニズム、具体的な形態と変動についての知識を全員が共有し、相互に比較し、さらに影響関係を考察することである。フランスやイングランドについては、この問題でも比較的多数の研究業績があるが、そのほとんどは視野が一国史に限定されており、この二国間の比較対照や相互影響の研究はほとんど行われていない。ネーデルラントについては青谷がほとんど唯一の専門家であるが、カロリング帝国の中核であり、その伝統を濃厚に保持した地域として興味深い。また、カスティーリャ、ハンガリーについては、まず基本的な史実を把握した上で、カトリック世界のフロンティア国家としての特質、フランスやイングランドなど中核諸国からの影響などが検討されることになろう。
 第二に、そうした正統性に関わる物語を広めるメディアの考察である。著作の読者、儀礼の参観者は公衆のごく一部を占めるに過ぎない。それにも拘わらず物語自体は広い範囲に流布している。これについては、芸能者のパフォーマンスや説教などの二次的なメディアの役割を解明しなければならない。それらが中世盛期・後期にどのように発展したのかも可能な限り明らかにする。
 第三に、それぞれの研究者が、自らにとって最も関心があり、研究状況から見ても価値が高いと思われる局面に絞り込んで、研究成果を提出することである。それに対しては、知識と問題意識の共有を前提として全員で批判的に検討を重ねる。最終的には四年間の成果を論集『中世カトリック圏における君主権の神話的・歴史的正統化』の形にまとめるが、それは各メンバーの研究論文に対する相互批評を含んだものとしたい。

◆当該分野における本研究の学術的な特色・独創的な点及び予想される結果と意義

 上記のように、各王国の国家史研究においては、王権・王朝による神話・歴史の利用による権威確立の試みはいくらかの蓄積がある。しかし、それら相互の対比や影響関係をさぐる試みは、これまで成されていない。中世カトリック世界では、各王国の支配者は古典古代史とキリスト教史という共通の基盤の上に、王国のアイデンティティと自らの正統性についての主張を形成しなければならなかった。この世界全体で、その試みについての分析的一覧表を作成することは極めて重要である。本研究は人的規模、扱いうる領域、投入できる時間などで制限があるとはいえ、中核(フランス、イングランド、ネーデルラント)と東西辺境(ハンガリー、カスティーリャ)、頻繁な王朝交替のある国家(イングランド)と王朝の継続性を特質とする国家(フランス)、諸侯領邦(ネーデルラント)と王国(その他の地域)など、対象はバラエティに富んでおり、上記一覧表の基礎となる素描を作成し、さらなる問題提起を行うことは十分に可能であると考える。また、こうした物語の流布を中世社会におけるメディアの問題と結びつけて検討した先行研究もほとんど存在しない。この点については、この研究も手探りで進むしかないと予想されるが、いくつかの問題提起は可能である。

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