
遺跡からみた川西の古代・中世
2.弥生時代前期〜中期(前4世紀〜前1世紀)
紀元前3〜4世紀頃、大陸や朝鮮半島より稲作や金属文化が北部九州に伝わりました。この時代を弥生時代といい、急速に日本各地に広がります。 川西では、南部に 加茂・栄根・下加茂・小戸遺跡など多くの農耕集落が営まれ、中部にも鼓ケ滝・矢問遺跡などの集落が現われます。
▲ページのTOPへ戻る
|
Web版川西の遺跡
弥生時代のくらし
川西南部では、前期(前3世紀)に栄根・下加茂・小戸遺跡で小さな農耕集落が営まれ始めます。中期初め(前2世紀)には台地上に加茂遺跡の集落が誕生し、中期中頃(前1世紀)には大集落となります。加茂の大集落は、周辺の栄根・下加茂・小戸などの小集落を統括し、川西南部に稲作農耕、交易、祭祀などを共にする地域社会をつくっていたと考えられます。
▲ページのTOPへ戻る
|
Web版川西の遺跡
大集落の誕生
 加茂遺跡全景
弥生時代中頃から後半にかけての加茂遺跡は、畿内でも有数の大集落に成長します。周辺の低地より約20m高い台地上に位置し、東西約800m、南北約400m、約20万㎡もの規模で、東部に竪穴住居の並ぶ居住区、西部に方形周溝墓・木棺墓の並ぶ墓地のあることが明らかになっています。
また、数条の環濠が東部居住区の台地の崖以外の部分を囲み、さらに遺跡全体を囲む外濠の可能性があるなど、厳重な防御性がうかがえます。
▲ページのTOPへ戻る
|
Web版川西の遺跡
方形区画
 加茂遺跡の方形区画
1992年、加茂遺跡東部で弥生時代中期後半(前1世紀)の大型掘立柱建物とそれを囲む方形区画が見つかりました。建物は弥生時代のものとしては大きく、方形区画は建物を厳重に区画する竪板塀と推定されます。
この場所は、大集落の中心となった東部居住区でもさらに中心部にあたることから、集落の重要施設にあたり、集落を統括した首長の居館か、宗教施設の可能性が考えられます。
▲ページのTOPへ戻る
|
Web版川西の遺跡
稲作と交易
川西南部の集落は、猪名川の支流最明寺川などの小河川の水を利用し、水田を開いていました。堰・水路の設置や水田の開発は、集落間の共同で行なっていたと考えられます。
一方、この地域でまかなえない産物は、ほかの地域との交易をとおして手に入れていました。加茂遣跡で出土する石鏃・石剣を作るための石材「サヌカイト」は、大阪府と奈良県の境にある二上山から産出するものです。加茂遺跡では、摂津地域の遺跡の中ではこのサヌカイトの出土量がきわめて多いので、近隣の遺跡へサヌカイトを供給する拠点となっていたという研究もあります。地域の中心的な集落の役割を物語るものといえます。
▲ページのTOPへ戻る
|
Web版川西の遺跡
戦い
 加茂遺跡の石剣・石鏃
弥生時代中期には、集落を防御する環濠や山上の高地性集落の存在、多くの石製武器の出土などから、地域どうしの戦いがあったと考えられます。また、戦死した人骨も多く見つかっており、平穏な社会ではなかったようです。
川西でも、加茂遺跡に環濠があり、石鏃・石剣などの武器が多く出土することから、この争いにまきこまれていたと考えられます。
▲ページのTOPへ戻る
|
Web版川西の遺跡
|