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Web版川西の遺跡

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タイトル:Web版川西の遺跡

川西市の遺跡紹介

多田院・多田神社(国史跡 清和源氏発祥の地)

写真:多田神社全景
多田神社全景
多田駅前の雑踏を過ぎて西へ、塩川橋を渡りしばらく進むと、猪名川の清流の音とともに美しい木立が現れます。この地が清和源氏ゆかりの多田神社です。

多田神社正面石段の横には、「史跡多田院」という石碑が立っていますが、多田院という名が示すように明治に入るまでは寺院でした。正式には「多田院法華三昧寺」といい、平安時代の中期にあたる天禄元年(970)源満仲により建立されことに始まります。

正面石段を昇ると最初に南門(県指定文化財)をくぐりますが、この門が寺院当時は仁王門と呼ばれ、現在は満願寺山門にある金剛力士像二体が安置されていたところです。
写真:多田神社拝殿
多田神社拝殿
境内に入り随神門を過ぎると拝殿(国指定重要文化財)の正面にきます。拝殿の奥に本殿(国指定重要文化財)があり、内陣内には宮殿(市指定文化財)と宮殿内に納められている鎌倉後期の作と考えられる春日厨子(市指定文化財)が置かれています。

本殿の奥には源満仲・頼光の墓所があり、これが鎌倉・室町・江戸と各将軍家が清和源氏の祖満仲の廟所として崇敬していたところです。

多田院は満仲の創建以後、建物の改修や再建を行い、現在見られる建物の大部分は江戸前期の再建時のものです。徳川四代将軍家綱により始められた多田院再興のきっかけをつくったのは、当時の多田院別当智栄です。

その当時多田院は、織田信長・荒木村重による合戦の兵火に焼かれ荒廃していました。智栄は源氏の祖廟である多田院の荒廃を幕府に伝え、再興を願い出るため寛文2年(1662)江戸に向いました。その際に多田院の由緒を示すものとして、多田院に伝わる古文書を持参しました。

幕府では智栄の請願とともにこの古文書を閲覧し、老中稲葉正則、姫路藩主榊原忠次による文書の修補が行われました。後の貞享5年(1688)の修補分を合わせて約500通の中世文書が、巻子約43巻にまとめられました。これらは、多田院及び多田荘と鎌倉・室町各幕府との密接な係わりを伝える貴重な史料として、国指定重要文化財となっています。
能勢電鉄多田駅より西徒歩10分

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多田隊

鎌倉初期に幕府により再編成された多田荘の武士たちは、「多田院御家人」と呼ばれました。戦国末期、豊臣秀吉に攻められて無禄の郷士となった後、明治維新の折、禁裏の御守衛士として召集され、ここに多田郷士集団「多田隊」が生まれました。

彼らは総勢約70名で、討幕戦争に際して東山道から江戸に向い、江戸開城に立会いました。北越戦争では新政府に敵対する荘内藩(山形県鶴岡市)と戦闘を交え、隊士にも戦死者が出ました。

多田隊は旗本隊として常に軍の中枢にあったので、隊士の書き残した文書等の史料は、討幕戦争を知る上で貴重なものといえます。

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