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タイトル:Web版川西の遺跡

川西市の遺跡紹介

多田銀銅山

能勢電鉄山下駅下車北に徒歩15分

江戸期鉱石採掘のようす『鼓銅図録』
江戸期鉱石採掘のようす『鼓銅図録』
長暦元年(1037)、能勢郡に銅を産し採銅所が置かれたことが「百錬抄」、「壬生官務家文書」等の史料にみられます。これは平安後期から室町初期にかけて産銅の記録のほとんどがみられない時代の史料としてとても重要なものといえます。

多田銀銅山が再び歴史に現れるのは中世末期のいわゆる戦国から安土・桃山時代ですが、この時期は全国で戦国大名たちが鉱山開発を積極的に推進しました。

多田銀銅山を直轄地として本格的な採掘を行った豊臣秀吉は、当山より多くの銀・銅を得たと伝えられています。

さらに、江戸時代に入り幕府も全国の鉱山開発を進めました。これ以降、川西市をはじめ、川辺郡猪名川町、宝塚市、大阪府豊能郡一帯で約二千ケ所もの間歩(鉱石を採るために掘った坑道)が掘られました。寛文4年(1664)には鉱石産出量のピークを迎えています。

元禄3年(1690)、川西の下財屋敷に幕府の代官役所が建てられ、猪名川町の銀山役所とともに幕府直領の村々に散在する間歩を統括し、諸間歩から採掘された鉱石の製錬は山下町・下財屋敷と銀山町との二ケ所だけで行われていました。

銀銅製錬技術は、戦国大名による鉱山開発と外来の製錬技術の導入により大いに進歩し17世紀初め頃に南蛮より伝えられたという新しい製錬技術(南蛮吹)は、いち早く多田銀銅山に取り入れられていました。

南蛮吹とは(1)粗銅を溶かしたものに鉛を加える(大床)。(2)これに熱をさらに加え、鉛を溶かすと銀を伴って流れ出る(南蜜吹)。銅を分離した後、(3)銀を伴った鉛を灰の中で溶かしていくと鉛は灰の中に沈み銀が取り出せる(灰吹床)。以上の製錬工程のことです。

製錬をおえた銀・銅は大坂に運ばれ、主に住友家が再製錬した純銀・銅は輸出用とされました。現在、住友家が所蔵している『鼓銅図録』は、江戸時代に銅の輸出品に添えられた製銅の解説書で、鉱石の採掘から製錬にわたる工程が多色刷りで図示され、当時の作業の様子を知る貴重な史料といえます。

山下町では、明治時代に入ると下財の平安家が近代製錬を始めます。平安家による製錬のあらましは、かつてその作業を経験された方のお話から次のようなものでした。

旧平安製錬所の発掘調査
旧平安製錬所の発掘調査
平安製錬所は、事務所(研究所)、送風機小屋、溶鉱炉、煙突、真吹炉、鉱石・コークス置場、カラミ捨て場から構成されていました。作業は、鉱石とコークスを溶鉱炉で一週間焚き、この間にカラミが溶鉱炉の上に浮いてくると、鉄製で三角錐形の一輪車で樋からカラミを受けて捨てます。次に、真吹師がカラミや煙の色を見て真吹炉へ流し込むタイミングをはかります。真吹師は三人一組で一昼夜かけて真吹き、でき上がった粗銅をヒシャクで型に流し込んで固まったものを束ねて倉庫へ納めるというものでした。

1993年8月から市教育委員会によって、平安製錬所の一部が発掘調査されました。この調査では、大正から昭和初期にかけて使用されていたと考えられる真吹炉二基と送風機小屋跡一軒が確認され、遺物も多量のカラミやレンガのほか、大小の坩堝や木製一輪車の柄が出土しました。

大正から昭和初期の真吹炉がほぼ完全な形で検出されたのは全国でも初めてで、真吹炉の構築方法や送風機小屋跡の様子からは、当時の製錬技術を知る上で大きな手掛りを得られました。

昭和初期に製錬の火を消した平安家は、現在川西市郷土館となって、千年に及ぶ多田銀銅山の歴史とともにふるさとを見守っています。

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