百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群

巨大古墳が集中する大阪府の百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群。大阪府堺市・羽曳野市・藤井寺市に所在し、2019年にユネスコの世界文化遺産に登録されたことでも注目を浴びています。この中には最大規模の仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)をはじめとして、全長が200メートルを超えるような巨大古墳が数多くあり、加えて中小規模の古墳を無数に含んでいることから、まさに日本最大級の古墳群であり、古墳時代を代表する遺跡です。(百舌鳥・古市古墳群の詳細は解説!古墳時代にて解説しています。ぜひご覧ください)
百舌鳥・古市古墳群などにある大きな古墳は、その多くが宮内庁により管轄された陵墓であるために、護岸工事などを除けば基本的に発掘調査されることがありません。そのため、実のところ巨大古墳の中にどのような施設があり、どのような副葬品が納められていたかなどは、よくわかっていません。古墳群の内実を明らかにする上では、陵墓に含まれない小型古墳の調査がとても重要になってきます。
しかし、発掘調査を行うことも可能な小型古墳ですが、公的に守られている陵墓とは異なり、戦後間もなくの時期には、保護の体制が十分に整っていなかったこともあって、高度経済成長にともない激増した宅地開発によって消滅の憂き目にあっています。そのような中で、私たち大阪大学でも、このような消滅の危機にある小型古墳に対して、緊急調査を行なってきました。
なかでも、昭和39年(1964年)に藤井寺市の『野中古墳』で行われた発掘調査では、5世紀における古墳時代のイメージを作り上げるほどに大きな成果が得られました。
野中古墳とは
野中古墳は古市古墳群に属し、墓山古墳と呼ばれる巨大前方後円墳を取り巻くように築かれた小型古墳の一つです。大型の古墳に従属するように位置する小型墳は、専門的には陪冢(ばいちょう)と呼ばれています。
野中古墳からは、その小さな墳丘にもかかわらず、鉄製の甲(よろい)や冑(かぶと)、鉄刀・鉄剣などの武器・武具類をはじめ、総数約2,000点にも及ぶ大量の遺物が発見されました。
盗掘の被害をあまり受けておらず、保存状況が良かったことから、10領もの甲冑が一列に並んで出土するという、とりわけ衝撃的な発掘成果が得られたのです。このように甲冑が並んで発掘された事例は、いまだに他には確認されていません。
この野中古墳に関しては、幸いなことに遺跡が現在でも残されています。現地に行ってもただの盛り土があるだけのような現状ではありますが、そんな古墳からは、下に挙げるように考古学的にも貴重な情報が引き出されたのでした。


豊富な出土品からわかること
古墳時代では、1領の鉄製甲冑ですら権力の象徴といえるほど希少な文物でした。それが10領以上もおさめられたのが野中古墳でした。実に驚くべき発見です。そして、甲冑の数量や甲冑の構造などの検討から、百舌鳥・古市古墳群を築いた古墳時代中期の中央政権が、大量の甲冑を一元的に製作・管理していたと考えられるようになりました。
こうした研究成果を基礎として、全国各地で少量ずつ出土する甲冑もまた、政権により権力の証として配布されたものであると考えられるようになりました。
つまり、百舌鳥・古市古墳群が、単純に古墳の大きさだけでなく、質実ともに列島の中心的な役割を果たしていることが明らかになったのです。
前述した通り、百舌鳥・古市古墳群において、大型古墳のほとんどは埋葬施設などの中心部に対して科学的な発掘調査が行われていません。つまり、古墳は数多くあっても、そこに納められた数々の遺品は、あまり世に知られていないことになります。
だからこそ、小さな古墳が持っているたくさんの副葬品、ひいてはそのさまざまな考古学的情報が、当時の政権による軍事的戦略や、政治力・経済力における他地域との差異、政治体制と社会構造などを解き明かす上で、きわめて重要な手がかりとなります。
このように、小さな古墳が語りかける歴史も、決して小さいものではないと言えるでしょう。考古学の発掘調査は、多様な人間活動のうち、ごく一部しか明らかにできませんが、それでも調査に労力をかけることで、未知の歴史が浮かび上がってくるのです。